第85話 【瑞穂】自称・未来の義姉の部屋
(何が『迷惑をかける』ですか!)
自称
思い返してみれば義理の兄である『
記憶にある限りの会話を再生してみても、なんとなく適当に流されていた気さえする。
それもこれも目の前を歩くこの女が――
「ほら、瑞穂ちゃん。他の人に見つかる前に入って」
「言われなくてもそれくらいわかってますから。いちいち急かさないでください」
自称義兄の彼女は、瑞穂から見ても際立った存在であった。
少なくとも自分に比肩しうる美貌の持ち主であることは間違いなかった。
腰まで届く艶やかな黒髪。
服の上からでもわかるメリハリの利いたボディに、スラリと伸びた長い脚。
そして、一度目にすれば脳裏に焼き付く整いすぎた顔立ち。
(この人が
あまりに失礼すぎるので口にはしなかったが、おおよそあの勉とはかかわりのない世界の住人にしか見えない。いったい何をどうすれば目の前の女と義兄が彼氏彼女なんて関係になるのか。数学や物理の公式ぐらいわけがわからない。
しかし間違いではないのだ。認めたくはないが。
もしも自分が間にあわなければ、ふたりはきっと――
憤怒と疑念と桃色妄想が渦巻く頭を押さえながら、茉莉花の家に足を踏み入れる。
(え?)
中に入るなり強烈な違和感に襲われた。
ただ、それを表現する適切な言葉が見つからない。
猛烈にもどかしくて、でも、立ち止まるわけにもいかなくて。
促されるままに室内を見回すと、奇妙な部分がそこかしこに散見される。
たちまちのうちに我慢の限界を突破して、思わず茉莉花を振り返った。
「あの……なんですか、これ?」
「え、何が?」
キョトンとした顔で問い返されると、自分がおかしくなったのかと錯覚してしまう。
おかしいのは間違いなくこの部屋のはずなのに。
どう見ても新品のベッドを始め、家具の類に生活の気配を感じない。
以前にドッキリのロケで訪れた廃墟とまではいかないものの、安物の映画じみた殺風景に過ぎる部屋は、夏なのに寒々しさすら覚えるほど。
そして――
「何って……何ですか、この段ボールの山は!」
段ボール、段ボール、段ボール。
右を見ても左を見ても段ボールだらけ。
出来の悪いパズルゲームの世界に放り込まれたような。
少なくとも、ここは人の住む世界ではない。
それは、それだけは断言できた。
「しょうがないじゃん、引っ越してきたばっかりなんだし」
あっさりと返ってきた答えに耳を疑う。
先ほどの義兄の説明では、茉莉花はここに住んでいたはずではなかったのか、と。
「あの、あなたはいつからここに?」
「え? 今日」
「今日!?」
驚いて問い返すと、満面の笑顔とともに頷かれた。
腹立たしいほどに豊かに盛り上がった胸を張っているところが余計にムカつく。
本能的に己の胸に手を当ててしまい、腹立ちレベルがマシマシに増した。
いくら『
それはともかく。
「な、じゃあさっきの説明は」
「狩谷君、嘘は下手なのよねぇ。まぁ、そういうところもいいんだけど」
軽いため息。軽い愚痴。軽い惚気。
困っているように見えて、その実は喜んでいる。
そもそもこの女は感情を隠すつもりがまるでない。
見ているだけでイライラする。何でイライラするのかはわからないが。
「……一応確認しますが、義兄と交際しているというのは」
「それは本当」
「チッ」
嘘ならよかったのに。
しかし、そういうことならば疑問があった。
すなわち――
「なら、どうして私を……」
「預かったかって?」
躊躇いがちに頷くと、これまた何でもないことのように笑う。
義兄とふたりで(自主規制)するには自分は邪魔なはずなのに。
自称未来の
「自然な流れだったと思うけど。あなたは家に帰りたくないけど他に頼る相手がいない。狩谷君はあなたとひとつ屋根の下に暮らすなんて息苦しくて仕方がない。私は狩谷君の部屋に自分以外の女の子が泊まるなんて嫌。ね?」
(『ね?』って当然みたいに!)
苛立ちが最高潮に達しかけて、ふと気になる言葉が甦った。
「私と暮らすのが嫌と、義兄が言ったんですか?」
「言ってたじゃん。あれ、言ってなかったっけ?」
「どっちなんですか!?」
茉莉花に詰め寄って肩を掴むと、困った様子で眉を寄せた。
「ごめん、覚えてない。でも、前に聞いた気がする」
「……ひょっとして、私、義兄さんに嫌われてます?」
全身から血の気が引いた。
足元が定まらず、底なし沼に落ちたかのよう。
目の前の気に食わない女の身体を掴んでいないと、崩れ落ちてしまいそう。
「そんなことあるわけないし」
「何で断言できるんですか?」
想定外の言葉だった。
想定外過ぎて、さらに疑問を重ねてしまった。
「嫌いな相手だったら問答無用で追い返して終わりでしょ。だって狩谷君だし」
自信満々で断言されて喜ぶべきか悲しむべきか判断できなかった。
「私、嫌われてませんか?」
「まぁ、めんどくさがられてる可能性はある」
「何ですって!?」
「まぁまぁ落ち着いて。ほら、これ持って」
改めて距離を詰めると何かを渡された。
手元を見ると――
「カッターナイフ?」
「そ。泊めてあげるから荷ほどき手伝って」
しれっとおかしなことを口にする。
手伝う?
自分が?
何を?
荷解きを?
何で?
「え、嫌です。私が誰だかわかってます?」
現在人気急上昇中のアイドルに雑用やらせるとかどういうつもりなのかと。
まさか働かせるために家に連れてきたのかと。
自分でもアレだと思ってしまうような疑念が口から溢れそうになる。
「未来の
「それ、やめてくれません?」
「やだ」
間近で睨み合っても茉莉花は退かない。
瑞穂にとっては未知の人種だった。
同業者はともかく家族を除いた一般人と言うのは、概ね自分に平伏するか興味を持たないか、あるいは利用しようとするか、いずれか三択だと思っていた。
義兄の恋人を自称するこの女はどれでもない。
興味はある。関心もある。
でも、首を垂れることはしない。悪意もない。
『たとえ義妹だろうとアイドルだろうと、私は狩谷君を譲るつもりはないから』
脳裏に甦った言葉に顔を顰める。
とりあえず距離を取るべきだと判断した。
退くわけではない。考えてみれば、自分は目の前の女のことをほとんど何も知らない。
ここはいったん情報収集に努めるべきだと、芸能界で磨き上げてきた本能が告げてくる。
(情報収集です、情報収集。『情報を制するものは世界を制す』と
ユニットのメンバーがドヤ顔で語ったセリフを脳内でリフレインさせて呼吸を整える。
カッターナイフを受け取ってソファに腰を下ろし、手近の段ボールに刃を走らせる。
傍で様子を窺っていた茉莉花は満足げにうんうんと頷き、隣の部屋へ消えていった。
その背中を横目で見ながら段ボールを開封すると――
「何ですか、これ?」
変な声が出た。
中に入っていたものをつまみ上げる。
どう見てもうさぎの耳だった。
どう見ても網タイツだった。
どう見ても――
「バニーガール?」
「どうしたの……って、それかぁ」
「あの……」
瑞穂の声が名状しがたい色合いを含んだ。
リビングに戻ってきた自称義兄の恋人の正体がますますわからなくなる。
情報を集めれば集めるほど正体不明になっていくとか、これはちょっとしたホラー。
「それは文化祭の小道具」
「文化祭?」
「そ」
普通の人間は後ろめたいことがあると、身体のどこかに変調をきたす。
声色とか、視線とか。あるいは何らかの特徴的な仕草をみせるとか。
ジーっと観察してみても、茉莉花にはそのような異常はない。
(まぁ、文化祭ならありうる……のでしょうか?)
『
だから学校の行事にも疎いし、常識にも疎い。
隣の段ボールを開けると、今度はチャイナドレスが出てきた。頭痛がする。
室内で山積みになっている荷物の中身を確認するのが怖くなってきた。
「ね、それよりも……」
「……なんですか?」
俄かに距離を詰めてきた茉莉花が、興味津々といった体で瞳を輝かせている。
「昔の狩谷君の話とか聞きたいなって」
「……本人に聞けばいいじゃないですか」
「それがさぁ、狩谷君って昔のことをあんまり話したがらないってゆーか」
「本人が話したがらないことを、私の口から話すわけにはいきません」
「ふ~ん」
「何ですか、その目は?」
「ううん、なんだかんだ言って似てるなって」
じゃ、お風呂の準備してくるね。
そう言って背を向けた茉莉花の唇から漏れた小さな声が、空気を震わせる。
『ちょっとうらやましい』
彼女は間違いなくそう言った。
(何が羨ましいのやら)
心の中で不平を漏らしつつ、ゆっくりと箱を開けていく。
メイド服があり、ミニスカサンタがあり、瑞穂が仕事で身に着けるような水着があった。
やけにキワモノな服が多い。特に露出度の高い服が多いように見える。
頭痛をこらえながら黙々と作業を進めることしばし、
「瑞穂ちゃん、お風呂沸いたから」
「はぁ、それはどうも」
戻ってきた茉莉花に気の抜けた返事を返す。
夏は暑い。ここまで歩いてきた時点で汗をかいている。
さらに義兄の家で口論になって、その彼女の家で荷解きを手伝って。
変なものを見せられて、変な汗がジワリと滲んできていた。
正直なところ、少し休みたいと思っていたところだった。
「ん、狩谷君、どうしたの?」
耳が聞き捨てならない名前を拾い上げた。
顔を上げると茉莉花がスマートフォンを耳に当てている。
セリフから察するに通話相手は義兄のようだ。嫌な予感がした。
「すみません、お風呂いただきますね」
「あ、うん、そっちね……え、狩谷君? 瑞穂ちゃんなら今からお風呂だけど……え、ちょっと、瑞穂ちゃん!?」
茉莉花の慌て気味な声を背中に、脱衣所のドアを閉めた。
服を脱いで一糸まとわぬ姿になって、浴室に立てこもる。
「さて……どうしましょう」
ため息ひとつ。
とりあえず身体を洗おう。髪を洗おう。
ゆっくり湯船に浸かろう。
どれくらい時間がかかるかはわからない。
だって――女の風呂は長いのだから。
(負けませんよ、義兄さん)
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