第77話 後日譚エピローグ 前編
こめかみから一筋の汗が流れ落ちた。
全身にまとわりつくような熱を感じる。
曇るレンズ越しに見つめる先では──鍋に張った湯の中でソバが踊っていた。
──何でこんなことになってるんだ……
キッチンに仁王立ちしたまま、腕組みしながらため息ひとつ。
「ね〜
リビングから『こんなこと』の元凶の声が聞こえてきた。
透き通るような高音の、それでいて甘やかな声。
目を向けると……我が物顔でソファにだらけながらテレビを見ている少女がひとり。
「どうかしたか、
彼女の名は『
才色兼備、容姿端麗、文武両道などなど称える言葉は数知れず。
腰まで届く艶やかな黒髪と、大粒の黒い瞳が印象的な整った顔立ち。
全体的にすらりとしたシルエットでありながら、出るところは出て引っ込んでいるところは引っ込んでいる魅力的な肢体。
天から二物も三物も与えられた学園の元アイドルにして、今は
鍋からソバを引き揚げる。
湧き上がる湯気に顔を顰めつつ、ザルにとって流水に晒す。
滑りをとって、冷水で締める。ただ黙々と手を動かす。
「狩谷君ってソバ派? それとも素麺派?」
──そこか!
その前に言うべきことがあるのではないかと思ったが、口には出さなかった。
水気をとって皿に盛り付け、蕎麦つゆと薬味を用意する。
「ソバだ」
もちろん、素麺も大好きだ。
正直なところ……誰かが作ってくれるなら、どっちでも良かった。
★
ひとり暮らしを始めた勉が夏を迎えるのは、これで二度目となる。
一回目すなわち昨年の夏は、特にこれといって何も考えずに過ごしていた。
生まれてこの方、夏が訪れるたびに『去年より暑い』などと愚痴っている気がした。
そんな愚痴すら風物詩のひとつではあるが、冷房の効いた室内にいれば問題にはならない。
悠々と夏を過ごした勉は、後日送付されてきた電気代の請求書を見て思わず目を剥いた。
高すぎた。
言うまでもなく冷房のせいだった。
両親が再婚するまでの間も、ひとりで日々を過ごすことが常態化していた。
それでも母親はほとんど毎日家に帰ってきていたし、そもそも金銭の管理は勉の仕事ではなかった。
だから、これほどまでに夏の冷房が家計を直撃してくるとは想像できていなかった。
夏すぎて秋、そして迎えた冬。
今度は暖房が電気代を嵩増ししてくることが容易に想像できた。
だから、今度は暖房を使わなかった。
家の中でもできるだけ厚着をして、毛布をぐるぐる巻きにして寒さに耐えようとした。
その結果──風邪を引いた。勉強に手がつかないわ、アルバイトを休む羽目になるわ。
多くの人に迷惑をかけたし、勉自身もひどい目にあった。色々と台無しな冬であった。
このままではいけない。
何か打開策を捻り出さなければ。
焦燥に駆られながら再び迎えた夏。
勉が出した結論は……外出であった。
そうは言っても、外は太陽が照りつける灼熱地獄である。
真っ昼間に無闇矢鱈と動き回るものではない。
着目したのは、ずばり図書館だった。
市立の図書館でもよかったし、学校の図書室でもいい。
室内の温度は適切に保たれていて、比較的静謐であり平穏でもある。
勉強するにはもってこいのシチュエーションだった。
気分転換のための書物もたくさんあって、飽きることもない。
往復の手間はかかるものの、クソ暑い昼間を過ごす分にはノープロブレム。
流石に夜は冷房を使わざるを得ないが、これは仕方がない。
寝ている間でも熱中症にかかるなんて話を聞かされては。命には替えられない。
そんなわけで夏休みの初日から学校の図書室へ足を運んだ。
普段から人気が少ない場所ではあったが、夏休みともなると輪にかけて人がいない。
カウンターには図書委員の
穂奈美は汗を拭きつつも平静を装っていた。
雫は机に突っ伏してダラけていた。猫みたいだった。
彼女とは先日プールで顔を合わせていたが、特にこれと言って変化はなかった。
他に人はおらず、実に快適な一日だった。
──これはイケる。
確信と共に帰路につきながら勉は考える。
『夕飯作るのめんどくさいな』と。
アルバイトのシフトは入っていなかったので、賄いにも期待できない。
自分でどうにかしなければならないのだが、ほんの短い距離を歩いただけで十分にウンザリした。
夕方でも夏は十分すぎるほどに暑かった。
冷蔵庫の中に何かあっただろうか?
スーパーのチラシにお買い得品はあっただろうか?
いっそのこと、コンビニで適当に買うのはどうだろう?
頭の中がまとまらないまま家に到着してしまった。
灯を灯す前に手探りでリモコンを拾ってスイッチオン。
熱気が籠っていた室内に、たちまち涼やかな風が吹く。
タオルで汗を拭きながら火照った身体を冷ましていると、余計に外に出て行く気力がなくなってきた。
しばらくソファに寝そべって──気がついたら窓の外が暗くなってきていた。
『もうカップラーメンでいいか』
冷房の効いた室内でラーメン。
それもまた乙なり。
思考放棄の果てに立ち上がってキッチンに向かいかけたところで──唐突に来客を告げるチャイムが鳴った。
勉は眉を顰めた。心当たりがない。
近隣住民ではない。こんな時間の来訪があるほどの近所付き合いはない。
知人友人の類ではない。勉がここに住んでいることを知る者はほとんどいない。
通信販売の類でもない。特に何かを注文した覚えもない。
──となると押し売りか、勧誘の類か……
再び脳裏を占める『めんどくさい』
居留守を使ってやろうかとすら思う。
どうするべきかと迷っているうちに、再びチャイムが鳴った。
「……様子ぐらい見ておくか」
万が一の可能性がある。
スルーするほどの強心臓を持っていなかっただけとも言う。
気が乗らないままにドア前のカメラ映像を確認して、仰天した。
美少女がいた。
腰まで届く艶やかな黒髪。
大粒の瞳が煌めく神がかった造形の顔立ち。
ラフな部屋着を内側から押し上げる胸元。
大胆に露出されたお腹は平かで、太ももには程よく脂が乗っている。
満面の笑みを浮かべるその少女を見間違えるはずもない。のだが……
眼鏡を外して目蓋を閉じ、何度もマッサージ。
再び眼鏡を掛けてみても、結果は同じ。
彼女はずっとそこに佇んでいる。
断じて見間違いではない。
頬をつねったら痛かったので、幻覚でもない。
わけがわからない。
──何が一体どうなっている?
時計を見た。
軽装で外を出歩くには遅い時間帯だ。
彼女の家から勉の家までは距離がある。電車に乗る必要もある。
こんな頃合いに、あんな格好で訪れるなんて……いくら夏だからって非常識だ。
……いや、彼女はたびたび突拍子もなく非常識な言動を繰り出してはくるから、おかしくはない。
──違う、そうじゃないッ!
兎にも角にも放っては置けない。
ひょっとしたら、またぞろ何か問題を起こしたのかも知れない。
彼女との出会いから今までの顛末を鑑みれば、その可能性は意外と高いように思えた。
ずり落ちた眼鏡の位置を直し、慌ててドアを開けて問いかける。
「どうした、立華。何があった!」
勉の家の前に立っていたのは『立華 茉莉花』に違いなかった。
あいも変わらずのパーフェクトなスマイルを浮かべていた茉莉花は、後ろ手に隠していたものを差し出してくる。
ソバ。
蕎麦、そば。
「はい、引越し祝い」
何を言われたのか理解できなかった。
桃色の唇から溢れた声は、過たず勉の耳に届いていたにも関わらず。
引越し。目の前の少女は間違いなくそう言った。理解している。
でも、なぜ今この時にその言葉が出てくるのか、理解できない。
ドアを開けたまま硬直した勉の様子がツボに入ったか、茉莉花はクスクスと軽やかに笑った。
空いた手が、隣の部屋を指さした。
「隣に引っ越してきた立華です。どうぞよろしくお願いします」
わざとらしいほどに丁寧な口調が耳朶を打ち、フリーズしかかっていた勉の脳が再起動を果たした。
まずはひと言。どうしても言ってやらねばならないことがあった。
「聞いてないぞ!」
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