第78話 後日譚エピローグ 後編


「だって、喋っちゃったらサプライズにならないじゃん」


 蕎麦を食べ終わった茉莉花まつりか被告のお言葉であった。

 なんでいきなり隣に引っ越してきたのかと問い詰めてみたところ、引っ越すと決めた時から場所は決めていたとのこと。本人的には『いきなり』には当たらないと強弁している。

 なお、つとむの家に泊まりにきた大雨の日に、隣の部屋が空いていることは確認していたらしい。


「あの頃から計画していたのか……」


「ま、あの時はまだ引っ越すとは決めてなかったけど」


 勉が腕を組んで唸ると、麦茶で喉を潤していた茉莉花が言い訳がましく付け加えてきた。

 今の彼女はシンプルな部屋着しか身に纏っていなかった。

 上も下もかなり露出が大胆なことになっているが、下品ではない。

 目のやり場に困ると言えば困るのだが、危ないところは隠れている。

 知ってか知らずか何とも絶妙なバランスを保っていた。ある種の才能を感じる。


「……怒った?」


 小首を傾げて問われると、反応に困る。

 もともと驚きはしたものの、さほど怒っていたわけでもない。

 釈然としないものは感じるとは言え、いつまでも不機嫌ではいられない。


「怒ってはいない。ただ、できれば先に教えて欲しかっただけだ」


「むぅ……結構怒ってるね」


「怒ってない」


「説得力なさすぎ」


 ぶー垂れた茉莉花が腰を上げる。

 テーブル上の皿をまとめて台所に運んでいく。

 勝手知ったる人の家。勉が止める間もなかった。


「後片付けは私がやっておくから、狩谷かりや君は休んでて」


「そうさせてもらおう」


 ここは甘えておくべきだろうと判断した。

 彼女に気を遣わせることは本意ではない。

 テレビのチャンネルを弄ってみるも、特にこれと言って興味を惹かれるものはなかった。

 キッチンから水音に混じって聞こえてくる茉莉花の鼻歌の方がよほど気になるくらい。


──これから、どうなるんだろうな?


 茉莉花が隣に引っ越してきた。

 まだ夏休みは始まったばかり。

 高校生活全体で見ても、半分以上は残っている。

 彼女と共に過ごす時間は、相当長期間にわたると考えられる。


──ただ……


 疑問に思うことがあった。

 疑問というか懸念すべき問題というか。

 それも、尋ねるべきか否か迷う類の問題だ。

 できれば聞かずに済ませたいし、そんな状況に陥ってほしくはない。


「どうしたの、狩谷君?」


「ん? ああ、いや……なんでもない」


 洗い物を済ませた茉莉花が、麦茶のおかわりを持って隣に腰を下ろしてきた。

 その視線を真っ向から受けて、思わず勉は目を逸らした。


「どう見ても『なんでもない』って態度じゃないし」


 案の定と言うべきか、きっちり追求された。

 表情から微妙な影を隠せていなかったらしい。


「狩谷君、言いたいことがあるならハッキリ言って」


 両の手を左右の頬に当てられて、ぐいっと首を捻られた。

 大粒の黒い瞳が正面から向けられる。

 キラキラと輝いているその瞳に、一抹の迷いが見てとれた。

 勉に何も話さず隣に引っ越してきたことを不安に思っているのだろう。


「いや、その……」


「『私たちが別れることになったら、どうしよう』なんて考えてない?」


 艶やかな唇から放たれた言葉に、勉の身体が震えた。図星だった。

 そして、その動揺は手のひらを通じて茉莉花に悟られた。

 レンズ越しに見える茉莉花の顔が、穏やかな笑みを浮かべている。


──なんで、そんなふうに笑っていられるんだ!?


 付き合っている今だからこそ、隣に住んでいてもおかしくはない。

 でも、もしふたりの関係が破局したら……この状況は危険だった。

 兎にも角にも気まずいこと半端ない。朝から晩まで針の筵状態である。

 そんな未来が訪れないようにするためには、何がなんでも別れないようにするのがベスト……と言いたいところだが、意識してしまうとプレッシャーになる。


「なんでわかるかって……それは、私も同じことを考えたから」


「そう……なのか?」


 躊躇いがちに尋ねると、茉莉花は素直に頷いた。

 突拍子もない行動に出ることが多い彼女だが、思慮分別を欠いているわけではない。

 周りの人間には見えないだけで、茉莉花には茉莉花なりの思考回路が存在している。


「カップルでお隣さんって良さそうに思えるけど、仲がこじれたら最悪だろうな〜って」


 遠距離恋愛が難しいと言うのはリアルでもフィクションでも耳にする。

 物理的に距離が空くことにより、会うことが困難になり金銭的な負担が大きくなる。すれ違いも発生する。

 インターネットをはじめとする科学技術が発展した現在であっても、依然として問題は横たわっている。

 だから、できれば近くで一緒に暮らしたい。そう考えるのは自然なことだと思われる。


 でも──近すぎるのも考えものだ。


 常に相手の存在を意識し続けることは、必ずしもプラスに働かない。

 人間誰だってひとりになりたい時くらいある。

 万が一喧嘩にでもなったら、際限なくヒートアップしてしまう。

 すぐ隣に住んでいるとなると、クールタイムを物理的に設ける算段がない。

 ふたりはまだ高校二年生。心身ともに不安定な時期でもある。何があってもおかしくない。


「……迷わなかったのか?」


「迷ったよ。迷いはしたけど……私たちなら大丈夫じゃないかなって思ったの」


「そう……かな?」


 尋ねる声が震えた。

 不安を抱いていることを情けなく思う。

 茉莉花がこれだけ信じてくれるのに、自信を持って応えられない自分が不甲斐ないとも思う。

 重苦しい空気の中で口を閉ざしたまま、暫しふたりで見つめ合う。

 

「ね、キスしよっか」


「む?」


 唐突な茉莉花の声。

 透き通るようなその声は確かに勉の耳朶を打った。

 ……のだが、当の本人は何を言われているのか一瞬わからなかった。


「今、何をすると言った?」


 突発的な難聴と言うわけではない。

 鈍感なわけでもない。

 驚きのあまり、反応できなかっただけだ。


「キス」


 言うなり茉莉花が距離を縮めてきた。

 左右の手が勉の首を絡め取る。

 お互いの吐息が頬にかかる。

 メガネのレンズを挟んでふたりの瞳が至近で見つめ合う。


「た、立華たちばな!?」


「ダメ?」


「だ、ダメじゃないが、そう言うことは俺から……」


 最後まで言葉を発することはできなかった。

 前半部分を耳にした茉莉花が目蓋を閉じた。

 そのまま距離を詰めて──


「ん……」


「む……」


 一瞬。

 ほんの一瞬だった。

 確かにふたりの唇が触れ合った。


──な、なんだ!?


 柔らかい。

 かろうじて、それだけ理解できた。

 再び間合いを開けた茉莉花が、そっと目蓋を開く。


「これが狩谷君の味か……覚えた」


「!?」


 ニヤリと笑ったその声に。

 湿り気を帯びたその言葉に驚いた。

 

──味なんてさっぱりわからなかったんだが!?


 ファーストキスは果物の味とかなんとか漫画に書いてあったが、何も感じなかった。

 正確には感じる余裕がなかった。

 ただひたすらに柔らかく、そして瑞々しい。

 せいぜいが僅かに熱を感じたぐらいで、味覚なんてとてもとても……

 しかしテンパっていたのは勉だけのようで、茉莉花はしっかり勉を味わっている。


「た、立華……」


「ん〜?」


「その、もう一回……」


 躊躇いがちに求めると、茉莉花はあっさり頷いた。

 艶やかな黒髪がサラサラと肩を流れ落ちる。


「別に許可とかいらないし」


 甘やかなその声が引き金となった。

 勉は茉莉花を抱き寄せて、再び唇を重ねた。

 茉莉花から力が抜け、ふたりの身体がソファに倒れ込む。

 何がどうしてこうなったのか考えようとしたが、頭の中が桃色に霞んで思考が続かない。


「ね、しよっか」


 もはや返事をする余裕はなかった。 

 夢中になってキスを求めた。唇を割って蠢く舌が絡み合った。

 柔らかい肢体に覆い被さると、茉莉花はそっと勉の手を導いた。

 薄い夏服越しに茉莉花を感じた。熱い吐息、確かな体温、柔らかな感触。

 理性が蒸発し、原始的な欲求に勉の身体が突き動かされる。

 脳内が沸騰し、視界が狭窄し、世界から音が消え、ふたり以外のありとあらゆるものが遠く──







































































「何をしているんですか、義兄にいさん」


 声は、頭上そらから降ってきた。

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