第75話 初めてのデート その6


「新体操?」


 つとむの口から溢れた声には、強い疑念の意思が滲み出ていた。

 テーブルを挟んで向かい側に座っていた茉莉花まつりかは、パスタをフォークに巻きつけて口に運び──首を縦に振った。


「そ」


 ★



 水泳の特訓のために訪れたフィットネスクラブを後にしたふたりは、茉莉花の案内で近場のおしゃれなカフェに足を踏み入れた。

 普段の自分だったら絶対に訪れないような店内の様相に圧倒された勉は、茉莉花に手を引かれるままに奥まったテーブルに案内されて、ようやくひと息ついた。

 休日の繁華街は人通りが多く、夏らしい喧騒に包まれていたものの、冷房の効いた店内は静謐な雰囲気であり、勉たちのテーブルは街路からは見えない位置にあった。

 運ばれてきた冷水を喉に流し込みつつメニューを見れば、聞いたことのないような料理ばかりが並んでいた。

 悩むふりをしながら茉莉花の様子を伺ったところ、目があってニヤリと笑われた。完全に見透かされている。

 オーダーを取りに来た店員に『彼女と同じ物を……』と言いかけて、パスタだけ別のものを頼んだ。完全一致にしなかったのは、なんとなく負けた気分になったから。

 さりげなく金額をチェックすると思わず唸り声をあげたくなるような数字が並んでいたが、『これは必要経費』と心の中で何度も唱えた。


「こんなところに来て良かったのか?」


「ん? 狩谷かりや君、ずっと練習してたかった?」


 思わずこぼしてしまった声に反応された。

 ……異なる意味合いに取られていたが。


「いや、そんなことはないが……まだ泳げるようにはなっていないぞ」


 来るべき夏休みに向けて泳げるようになるために。

 そんな名目で朝も早よから慣れないプールで練習していたはずなのだが。

 眼鏡の位置を直しながら尋ねてみたところ、漆黒で大粒な瞳から呆れられた視線が返ってきた。


「あのね、せっかくの記念すべき私たちの初デートなのよ」


「そうだな」


 茉莉花は『初デート』にアクセントをつけた。

 勉も反射的に首を縦に振った。

 まったく持ってその通り。


「一日中ずっと練習してましたって……そんな黒歴史、嫌じゃない」


「……ああ」


 ちなみに勉にとっては生まれて初めてのデートだった。

 できれば苦手な水泳の特訓などではなく、もっとムードのあるところへ行きたかった。

 しかし夏の海にかける茉莉花の想いは強烈で、とてもではないが嫌とは言えない空気を醸し出していた。

 だから『まぁ、こう言うこともあるか』と内心でため息をつきつつ練習に勤しんでいたのだが……


「もしかして、私のこと鬼軍曹みたいに思ってない?」


「思ってない」


 食い気味に否定したけれど、実は想像してしまっていた。

 本音を悟られまいと強く反応してしまったが、逆効果だったかもしれない。

 平静を装いながら茉莉花の様子を伺うと、思いっきりジト目を向けられていた。

 ……正直、彼女に勝てる気がしなかった。下手したら一生勝てないかもしれないとさえ思った。


──これが『惚れた弱み』という奴なのかもな……


「そんなに練習したいんだったら、来週は朝から晩まで徹底的にやりましょうか」


「勘弁してくれ」


「はいはい、そんな声出さないの」


 窘められているうちにテーブルに料理が運ばれてきた。

 おしゃれに盛り付けられたパスタとパン、サラダ。

 鼻をくすぐる芳香が、激しい運動で消耗していた食欲を呼び覚ます。

 茉莉花に見つめられてドキドキしていた意識が、不意に別の方向に飛んだ。


「そういえば……」


「ん?」


「ああ、いや……汐見しおみのことなんだが」


 湯気が立ち上るイカスミパスタを見つめていると、プールで出会った後輩のことを思い出した。

 少しクセのあるショートカットの黒髪と、白の競泳水着に包まれたなだらかな曲線を描く肢体。

 どこか猫を彷彿とさせる図書委員の後輩『汐見 雫しおみ しずく』の濡れた姿が、いつの間にか目蓋に焼き付いていた。


「……」


立華たちばな、汐見と知り合いだったのか」


「……」


「立華?」


 眉を顰めると、茉莉花の手が伸びてきた。

 突然の動きに反応できない勉の鼻が白い指に摘ままれて、引っ張られる。痛い。


「狩谷く〜ん、可愛い彼女との初めてのデート中なのに他の女の子の名前を出すとか、どう言うことなのかな?」


「むぐっ」


 猫撫で声(激怒)が耳朶を打つと同時に失態を悟らされた。

 完全に自分のミスだった。しかも痛恨の。

 覆水盆に返らず。吐いた唾は飲み込めない。

 そんな諺が脳裏をよぎったが、諦めたら終わりだ。


「すまん、忘れてくれ」


「……はぁ、まあいいけど」


 狩谷君だし。

 付け加えられた言葉は、今までにも散々聞かされてきたものだった。

 一体どのような文脈で用いられているのかは、想像したくなかった。


「で、しーちゃんだっけ?」


「ああ、いや、無理にとは言わんが」


 自分で尋ねておいてなんだが、完全に地雷テーマだ。

 できれば穏当に話を逸らしたいところだった。


「別にいいし。知り合いってゆーか、同中の先輩と後輩だね」


「同じ中学出身? それだけか?」


 聞いた感じでは、赤の他人とほとんど変わらないように思えるのだが。

 それとも自分がことさらに酷薄なのだろうか? 

 自問したが答えは得られそうにない。


「同じ中学の先輩と後輩で、同じフィットネスクラブ。何度も顔合わせてたら話ぐらいするでしょ」


「するかなぁ」


 自分だったら絶対にしない。

 口にこそ出さなかったが、確信があった。

 はっきり言ってめんどくさい。


「まぁ、レベルは違えどお互いに結構顔は知られてるし……って狩谷君、本当にしーちゃんのこと知らないの?」


「……萩原の後輩という以外には知らんな」


「いや、狩谷君の後輩でもあるんだけど」


 げんなりした声だった。

 頷きかけて首を傾げた。

 そこまで言われるほどのことか、と。


「本当に知らないんだ。あの子はね──」



 ★



『汐見 雫』といえば、この辺りではかなり知られた新体操の選手だった、らしい。

 幼い頃から才覚を発揮し大会を総舐め、果ては未来の五輪選手かと期待を寄せられていた。

 テレビをはじめとしたマスコミにも何度となく取り上げられて、国内外に多数のファンを獲得していたと言う。


「新体操の選手?」


「そ」


 食後のコーヒーを飲みながら、茉莉花が説明してくれた。


「でも……うちの学校に新体操部なんてないし、そもそもあいつは図書委員だぞ」


「ん、そうみたいだね」


「立華」


 茉莉花の眼差しに翳りがあった。

 迷いが見受けられる。

 勉に伝えるべきか、否か。

 悩ましげな煩悶を感じた。

 でも、ほんの一瞬。


「……検索したら出てきちゃうか」


「立華?」


「しーちゃんね、競技中のアクシデントで演技ができなくなったの」


 周囲の温度が急に下がった気がした。

 思わずスッと息を飲み込んだ。


「それは……ひどい怪我を負って再起不能とか、そういう話か?」


 茉莉花は首を横に振った。


「大怪我はしたけど完治した。でも身体が動かないって」


「トラウマってやつか」


「さぁ、詳しくは知らないけど」


 周囲の反応は劇的だった。

『ただし、ネガティブな方向に』と茉莉花は付け加えた。

 あれほど熱狂的に雫を称えていた連中は、潮目が引くように姿を消した。

 学校、マスコミ、インターネット。誰も彼もがあっさりと雫を見捨てた。

 罵詈雑言や流言飛語の類が見られなかったことが救いだったと、茉莉花は力なく笑った。


「どんな気持ちだったんだろうね、しーちゃん」


 多感な中学生女子に、残酷な現実が突きつけられた。

 彼女の胸中を窺い知ることは、誰もできないだろう。


「立華……」


 勉から視線を外した茉莉花の眼差しは、ここではないどこかに向けられていた。


「……うん、いいかも」


「立華?」


 しばし瞑目ののちに開かれた漆黒の双眸が、再び勉に向けられた。

 その瞳の輝きは、いつになく真剣さを帯びていて、勉としては身構えざるを得ない。


「狩谷君、しーちゃんと仲良くしてあげてね」


「はぁ!?」


 変な声が出た。

 茉莉花の唇から放たれた言葉は、勉の想像を超えてきた。

 彼女と付き合っていれば、この手の超展開は稀にあるとは言え──何がどうなってその答えに辿り着いたのか、さっぱりわけがわからない。

 説明を要求しようとしたものの、頭が混乱してうまく言葉が出てこない。


「だって……あの子にとって、ありのままに接してくれる狩谷君は救いになると思うの」


 かつての新体操のスーパースターとしての『汐見 雫』も。

 落伍者として見放されて苦しむ『汐見 雫』も、勉は何も知らない。

『だが、それがいい』と茉莉花は言う。


「そんなヘヴィな話を聞かされて、今までどおりの対応ができると思うか?」


 顔を顰めた。

 状況が特殊すぎる。

 問題がデリケートにすぎる。

 人の心の機微に疎い自覚のある勉にとっては重すぎる期待だ。


──でもなぁ……


 目蓋を閉じて雫を思い出す。

 これまでほとんど接点のなかった後輩。

 小生意気なところがあり、掴みどころがない。

 でも──知ってしまった以上は放って置けない。

 いつの間にかそんな気にさせられていることが、勉自身にとっても意外だった。


「できるよ。だって狩谷君だもん」


 茉莉花が自信ありげに微笑んだ。

 春に蕾が綻ぶ花を思わせる、暖かくて柔らかい笑みだった。

 ひどい買い被りだとは思ったが、首を横に振ることはできなかった。

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