第74話 初めてのデート その5


 プールから上がろうとしたら頭上から名前を呼ばれた。知己が少ないつとむにとっては珍しいことだ。

 内心の驚きを隠しつつ声のした方を見上げてみれば、すらりとした白い脚。これまた白い競泳水着が続き、なだらかな曲線の奥に漆黒の瞳が煌めいていた。

 どこか猫を思わせる眼差しと、白い手が掻き上げるショートカットの黒い髪。いずれも見覚えがあるのに──どこか違和感が拭い去れない。


「……汐見しおみ?」


「はい、汐見です」


 眼前に立つ少女が、もう一度頷いた。


汐見 雫しおみ しずく


 友人である『萩原 穂奈美はぎわら ほなみ』の後輩。

 学校の図書室で出会ったひとつ年下の少女。

 ……なのだが、


──なんだ?


 何度か顔を合わせたし、連絡先も交換した。

 知らない間柄というわけでもないのに、これまでの記憶と何かしらの齟齬を感じる。


「どうかしましたか、先輩?」


 ゴーグル越しの視線の先で、雫が小首を傾げている。

 短く整えられた髪から落ちた水滴が、なだらかな肩を経て腕を伝って流れ落ちた。

 雫の腕をまじまじと見るのは初めてだった。ほっそりした腕だが、華奢ではない。


──なんだ?


 雫を見つめたまま、勉もまた首を傾げた。

 自分が一体何に引っかかっているのか、自分でもよく分からないのだ。 


「どうかしましたか、先輩?」


 先ほどと全く同じ響きでもう一度。表情まで全く同じ。

 ここだけ時間が止まっている、あるいは繰り返しているような妙な感覚に囚われる。


「あ、いや、なんでもない」


「なんでもないようには見えませんよ」


 口ぶりは穏やかで、表情は静謐。

 あくまで淡々と詰めてくる後輩から、言葉にし難い力を感じる。

 気圧されていると自覚して、勉は胸の内に溜まった息を吐き出した。

 適当に取り繕うのは諦め、ゴーグルを外しつつ口を開く。


「すまん、自分でもよく分からん」


「なんですか、それ」


 雫はクスリと笑った。

 やはり見覚えのない表情だった。

 希望的観測に過ぎないが、機嫌を害しているわけではない模様。

 ……他人の心の内を窺い知ることなんてできないから、確信はなかった。


「それで、先輩はここで何をされているんですか?」


 問われてようやく違和感の正体に気がついた。

 

「敬語」


「え?」


「今日は敬語なんだな」


 付け加えるならば、いつも彼女が纏っている気怠げな雰囲気も今は見受けられない。

 でも『お前はいつもダルそうにしているな』などと直接口にするのは憚られた。

 流石にそれは失礼に当たるだろうと思ったから。

 口を閉ざした勉の前では、雫が喉元を押さえていた。


「そう言えば、そうですね」


「なんで他人事みたいに言う?」


「なんでと言われても……まぁ、先輩と後輩ですし?」


「そういうものか?」


「そう言うものじゃないんですか?」


 問いかけてみれば、逆に問われた。

 

──どうなんだろうな?


 水面に体を沈めたまま自問した。

 先輩と後輩。自分と雫の関係を最も端的に表現していると言って差し支えない。

 ただし、勉と雫に直接の関わりはない。あくまで学年の上下を鑑みただけに過ぎない。

 目の前の少女が自分の後輩であると言う感覚はなかった。

 違うと言うならばどのような関係なのかと問われると、それはそれで困るのだが。

 人と人との関わりとは難しいものだと嘆息せざるを得ない。


「ふむ」


 腕を組み、顎を撫でつつ考える。

 穂奈美と雫が一緒にいるところは何度か見た。

 目の前の後輩は、その時に敬語を使っていただろうか?

 記憶にない。なんとなく『ああ、そういう関係なのだな』と思った……はず。

 では、自分と彼女の間ではどうだっただろう?

 あまり敬意を払われていた覚えがない。


「まぁ、いいか」


『友人』と呼ぶほどには近しくないし。

 面と向かって『知人』と呼ぶのは違う気がする。

『先輩』と『後輩』ぐらいが差し障りがなさそうではある。


「ひとりで納得されても困るんですが」


「すまん、別に大したことじゃない」


「そうですか。それで?」


「それで、とは?」


 お互いに首を傾げたまま見つめあった。

 なんの話をしてたのだったか。

 雫のペースに巻き込まれてしまい、当初の目的がどこかにすっ飛んでしまっていた。


「なんだったかな?」


「さぁ? 思い出せないなら、別に大したことじゃなかったのでは?」


「……そうかもしれん」


 雫は肩をすくめている。

 勉も水中で肩をすくめた。


「まぁ、それはともかくとして……汐見の方から声をかけて来るのは珍しいな」


「そうでしたっけ? 珍しい人を珍しいところで見たので思わず……と言ったと感じですが」


 言うなり雫はあたりを見渡した。勉も水に浸かったまま見回してみた。

 人工的な照明が眩しいフィットネスクラブの温水プール。

 ……確かに自分には似つかわしくない場所だった。自覚もある。


「汐見の言うとおりだな。俺には似合わない場所だ」


「あっさり認められると、どう反応すればいいのかわかりません」


「だろうな」


「ですよね」


 真顔で頷いた。

 雫も頷いている。


「泳ぐの、好きなんですか?」

 

 雫の問いに、勉は首を横に振った。


「実は泳げないんだ」


「……なんでこんなところにいるんですか?」


 雫の眼差しが実に表現し難い感情を滲ませていた。

 呆れと戸惑いと疑問と。好奇心も混じっているように見える。


「それは……」


 口を開きかけた瞬間、背筋に震えが走った。

 水の冷たさに震えたのではない。

 もっと、本能的あるいは霊的な感覚だった。


狩谷かりや君、ビート板借りてきた……よ?」


 疑問系な語尾の声がした方に顔を向けた。

 腰まで届くストレートの黒髪と、シンプルなデザインの競泳水着に包まれたメリハリの効いた肢体。

 そこに立っていたのは神がかった造形の顔立ちを誇る美少女が。『立華 茉莉花たちばな まつりか』という。勉の彼女である。

 茉莉花の瞳は大きく見開いていて、勉と雫を行ったり来たりしている。彼女もまた、言語化し難い表情を浮かべていた。


 

 ★



 勉は未だ水の中。

 見上げれば、プールサイド。自分を挟む形で向かい合う茉莉花と雫。

 沈黙が降りた。空気が重い。この場にいるのは危険だと、勉の直感が囁いている。


 この場から逃げる自分を妄想した。

 無理だと首を振った。心の中で。

 勉は泳げない。茉莉花は泳げる。

 つまり、逃げられない。


──なんで俺は泳げないんだ……


 泳げない自分を、今ほど呪ったことはない。

 小学校中学校と、水泳の授業をもっと真面目に受けておくべきだった。

 今さら悔やんでも、もう手遅れなわけだが。


「えっと、何やってるのかな、ふたりとも」


──ん?


 茉莉花の声に違和感を覚えた。

『今日は違和感だらけだな』と現実逃避気味な思考が脳裏をよぎる。

 何がどのように作用して自分の中で齟齬が生じているのか、唐突に混乱のるつぼに放り込まれた勉は答えに辿り着けそうにない。


「立華先輩……ひょっとして、デートでしたか?」


「ひょっとしなくてもデート」


 腰に手を当てたまま即答する茉莉花。

 胸を張って堂々と。やや食い気味に。

 対する雫は……こちらも全く臆した様子がない。

 学園の元アイドルあるいはカリスマである茉莉花相手に堂々たる態度。珍しいと思った。


「なるほど。つまり私はお邪魔虫ですね」


「そうだね」


 ふいに期末試験前の図書室を思い出した。

 茉莉花に穂奈美を紹介したときのことを。

 震え上がるようなひりついた空気を。


──そういえば……あの時、汐見はいなかったはずだが……


「今日もひとり?」


「はい」


 茉莉花が問い、雫が頷いた。

『今日も』と言った。

 つまり──


「立華、汐見を知っているのか?」


 水の中から尋ねてみると、茉莉花から信じられないものを見る目を向けられた。

 その眼差し、実に解せない。


「狩谷君、しーちゃんのこと知らないの?」

 

「……図書委員だろう? 萩原の後輩の」


「萩原って……ああ」


 茉莉花の顔が微妙に強張った。

 

「他に何かあるのか?」


「……」


 茉莉花はジーッと勉を見つめている。

 その視線を正面から受け止めると、耳朶を軽いため息がうった。雫だ。


「私は馬に蹴られるのはごめんですので、あっちで泳いでますね」


「……うん、なんかごめんね」


 大袈裟なため息。茉莉花だ。

 彼女を取り巻いていた空気が一気に弛緩した。


「いえ。私が不用意でした」


 軽く頭を下げた雫は、そのまま遠ざかっていく。こちらを振り返ることはなかった。

 茉莉花はその背中を見送った後に、いまだ水中の勉の頭を軽くビート板で叩く。


「立華、わけがわからないんだが」


「……うん、まぁ、狩谷君だしね」


 茉莉花はうんうんと頷いている。

 それほど怒っているわけではなさそうだった。

 

「納得してくれたのなら、叩くのをやめてほしいんだが」


「それはそれ、これはこれ」

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