第71話 初めてのデート その2


 茉莉花まつりかつとむとの初めてのデートにチョイスしたのは『ゴールデンフィットネスクラブ』だった。

 事前に調べたところによると、アメリカに本拠地に世界展開している超有名な総合スポーツ施設で、ここは日本に展開している中の一支店とのこと。

 生まれてこの方16年と少々ずっとインドア派だった勉にとっては、全く縁のない施設であった。

 何故に彼女がこんなところを選んだかといえば──夏休みまでに勉を泳げるようにするため。ひいては一緒に海に行くため。

 一学期の期末試験も終わった7月である。高校2年生の夏休みは目前に迫っている。

 勉の感覚では間に合わない気がするのだが、茉莉花的には何がなんでも泳げるようにするつもりなのだろう。

 本人曰く『特訓』とのことで、ちょっと非日常に足を突っ込んだ響きに嫌な予感しかしない勉であった。

 なお、穂奈美ほなみたちに勧められた漫画のうちいくつかを昨晩読み返してみたが……初デートの行き先がスポーツクラブという例は見当たらなかった。


──本当にここで大丈夫なのか?


 眼前に聳え立つ5階丸ごとフィットネスなビルを見上げ、隣で鼻歌を歌っている茉莉花を見やり、心の中で首を傾げた。

 色々な意味で先行きが不安にすぎる。だからといって今から別の場所を提案することもできない。

 そもそも気の利いたデートスポットなんて、まるで心当たりがなかった。圧倒的なまでの経験不足である。

 自分と茉莉花が彼氏彼女の関係になったという事実が、今さらになって重くのしかかってくる。


「どうしたの、狩谷かりや君?」


「いや……立華たちばなはずいぶん慣れているな、と思った」


 エネルギッシュでアクティブにすぎる空間を前に、勉はまったく落ち着けない。

 ここは自分の居場所ではないと、普段はあまり仕事をしない本能が囁いている。

 では、どこがいいのかと言われると……これもまた返答に窮する。

 茉莉花の興味を引くところを〜と考えるにしても、実は彼女の趣味嗜好については、あまり情報がない。

 元学園のアイドル『立華 茉莉花』はオールラウンダーなスーパーヒロイン。

 なんでもできる少女であるが故に、逆にどういうものを特に好むのか、よくわかっていない。

 勉が茉莉花について知っていることといえば、その複雑な家庭環境を除けばエロいことぐらいな気がした。

 

──だからって、そんなところには絶対に誘えんしなぁ。


 ある意味で非常に重要な情報ではあるのだが。

 ごく一般的な高校生の男女交際という観点にあっては、まるで役に立たない類のものだった。

 生まれて初めて彼女ができた勉にとっては、デートスポットの選択ひとつとっても難題どころの騒ぎではないのだ。

 

──まぁ、後のことはひとまず置くとするか。


 慣れない空気に臆したか、思考が散漫になりがちになっている。

 今は目の前の、今日のデートに専心すべきだと思い直した。

 流石にデート中に他のことを考えていては茉莉花に失礼に過ぎる。

 そう判断した勉は、眼鏡の位置を直して茉莉花に目を向けた。


「まーねー、私は会員だし常連だし?」


「そうなのか?」


「そうなのです」


 カラッとした声でサラッと返ってきた答えは、少し意外な気がした。

 勉の知る限り──情報通の友人である『天草 史郎あまくさ しろう』から教わったものも含めて──茉莉花が特定の競技に専念していたなどという話は聞いたことがなく、そもそも積極的に運動するタイプでもなかったはずだ。勉ほどではないにしても、茉莉花とフィットネスクラブも微妙にイメージが噛み合わない。


「あのねぇ狩谷君」


 茉莉花は自らの胸に手を当てた。

 薄手のシャツを内側から大きく盛り上げる柔らかさの塊。

 白い手が僅かに沈むさまに、思わず目を引き寄せられる。

 ひとつひとつの些細な仕草が、イチイチ勉をドキリとさせる。

 

「私のこの身体が何の努力もなしに出来上がってると思ったら、それは大きな間違いだよ」


 ここ最近はおとなしくしているものの、彼女は学園の男女から尊敬やら羨望やら嫉妬やらをかき集めるカリスマであった。

 同時にツイッター界隈を賑わせていたエロ系人気自撮り裏垢主『RIKA』でもあった。

 茉莉花の最大の魅力がビジュアルすなわち神がかった造りの美貌であり完璧なスタイルであることは多くの生徒に異論を待たない。

 ……そのあたりのアレコレについて彼女自身が自覚している分だけ、余計にタチが悪いとも言えなくもない。

 

「努力してるんだな」


「当然。『ローマは一日にして成らず』って言うでしょ」


 自分をローマに例えるあたり、相当な自信が伺える。

 それが過信と取られないのが茉莉花の茉莉花たるところだ。


「ちなみにどれくらい行ってるんだ?」


「ん〜、週2か週3ぐらいかな」


 茉莉花は白い顎に指を当て、天井を見上げながら答えた。

 想像よりも頻度が高かった。

 眼鏡の奥で目を丸くしてしまう。


「……そんなにか?」


 高校生がルックスに磨きをかけることについて『学生の本分に外れる』なんて野暮なことを言うつもりはなかった。

 ただ、大概は学生相応の衣服やメイク、食事制限中心のダイエットあたりが精々で、わざわざフィットネスクラブに足繁く通うなんて聞かされると驚きを禁じ得ない。

『そこまでやるか?』という驚きと『そこまでやるかもしれない、立華なら』という妙な納得が入り混じった奇妙な思いに囚われてしまう。


「うん。お化粧とか服も大事だけど、そもそも基本になる身体がだらしなかったら意味ないし」


『身体は基本。そして何をおいても大事なのは基本。勉強だってそうでしょ?』などと問い返されると、専用のノートを作って学業に励んでいる勉としては頷くしかない。

 学年主席であり全国模試の上位常連である『狩谷 勉』の勉強法は、有名な進学予備校に通うでもなく、山ほど参考書を積み上げるでもない。

 コツコツなどと言う表現では足りないほどに、ただひたすら地道に自作ノートを積み上げて、同じ参考書を擦り切れるまで繰り返す。

『一を聞いて十を知る』的な天才ではない勉には、基礎を固めることの重要性は十分に理解できた。

 勉強とおしゃれでカテゴリーこそ違えど、茉莉花も似たり寄ったりの思考なのだと考えれば違和感もなくなる。

 自分の恋人はデフォルトで十分すぎるほどに美少女だとは思うが、さらに努力を積み重ねていることを否定する気にはなれない。

 しかも──彼女の努力は自身のためだけでなく、勉のためだとも言える。彼氏としては、ありがたいことこの上ない。


「なるほど」


 短く頷いて自動ドアをくぐり、清潔感漂うカウンターに向かう。

 建物の中は冷房が効いていて、夏の炎天下にさらされていた肌に心地よい。

 ほっと一息ついている間に茉莉花の手続きが終わった。

 もともと会員だったせいか、あまり手間がかからなかったようだ。


「狩谷君、普段あまり運動してないでしょ? 私と一緒にどう?」


 受付からもらった入会申込書をひらひらさせながら、茉莉花がそんなことを言ってくる。

 口元は緩み、漆黒の瞳を煌めかせている。本音かジョークか判断し難い。

 

──無理だ。いや、そうでもないのか?


 反射的に否定しかけて、踏みとどまった。

 運動とは縁のない勉にしてみれば、入会しても長続きする展望がない。

 申込書に目を通してみると、年間会員の費用は決して安くはなかった。むしろ高かった。

 茉莉花のように頻繁に利用していれば余裕で元が取れるのだろうが……


 でも──茉莉花と一緒だったらどうだろう?


 全世界に胸を張って断言できるが、茉莉花は自分にはもったいないほどの素晴らしい恋人だ。

 ひとりだったら辛いだけの世のもろごとも彼女と一緒なら楽しめる。『立華 茉莉花』はそう言うレベルの美少女だった。

 学校帰りに、あるいは休日に恋人とともに汗を流す。その妄想は実にたぎるものがあった。色々捗ること間違いなし。


「……少し考えさせてくれ」


「だね。勧めといてなんだけど年会費安くないし、狩谷君の都合もあるだろうしね」


 などと言いつつも、茉莉花は少し寂しそうだった。

 かなり本気で勉と一緒に運動したかったらしい。

 

「すまんな」


「ううん、気にしないで」


 保留しつつも、できれば前向きに考えようと心に誓う勉だった。


「それじゃ、次はこっち」


 いつの間にやら絡みついていた白い手に引かれた先は──水着売り場だった。

 展示されている商品を見る限り、かなり地味なデザインのものばかり。

 どの水着にもフィットネスクラブのロゴがワンポイントで入っている。


「うん? 立華は『すごい水着』とやらを買ったと言っていなかったか?」


 さりげなく眼鏡の位置を直しつつ尋ねる。

 実はメチャクチャ楽しみにしていたのだが。

 ド直球な勉の期待に茉莉花は大袈裟に肩を竦めて見せた。


「あのね狩谷君。いくら私でも、こんなところでそんな水着なんて着ないから。TPOくらい弁えてますから」


「そうなのか?」


「そうなのです。自分の彼女が露出狂呼ばわりされたらどうするの?」


 ジト目で諭されても、反応に困る。

『前に露出癖があるとか言ってなかったか?』と返すべきだろうか?

『露出狂って……どんな水着を買ったんだ、お前は?』の方がいいかもしれない。

 

「ふふ、泳げるようになったら、ちゃんと見せてあげるからね」


「ああ、楽しみにしておこう」


 そんなやりとりを交わしながらも、茉莉花は自分の水着だけでなく勉の水着も選んでいた。


「む? 水着なら持ってきてるが」


「え、狩谷君も水着買ったの?」


「いや、中学の時に使っていた奴を……」


「却下。学校用の奴とか論外だから。狩谷君こそTPO考えて」


 かなり食い気味にダメ出しされた。

 茉莉花の表情が今日イチで冷たい。


「ダメなのか?」


「ダメです」


「なら俺が……」


「ダメ、私が選ぶの。お揃いのやつにしよ〜っと」


「おい、ちょっと待て立華!」


「彼氏に自分が選んだ水着を着させるって、なんかエロくない?」


「俺が選んだ水着をお前に着させたくなってきたんだが」


「今年はもう買っちゃったから、来年ね」


 この反応、さすがは茉莉花と言うべきだろうか。

 恥ずかしがるどころか『楽しみにしてるから』なんて、最高の笑顔が返ってくる。

 そんなことを言われてしまうと、勉としては引っ込みがつかなくなってしまった。

 俄に頬が熱を持ち、視線を合わせていられなくなる。

 思わず額に手を当てて天井を仰ぐと、じっとり汗が滲んだ首筋を人工の涼風が撫でた。

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