第70話 初めてのデート その1


「どうしてこうなった」


 への字に引き結ばれていたつとむの口から漏れたのは、なんとも生産性のない言葉だった。

 一学期の期末試験を終え、夏休みを間近に控えた日曜日。

 スマートフォンのディスプレイに表示されている時刻は午前10時。

 青空に輝く太陽は本日も絶好調。昨夜の天気予報では気温30度を超える見込み。

 突っ立っているだけで熱中症の心配をしなければならない空の下、目の前にはとあるビルディングが聳え立っていた。

 外から見える受付には爽やかな笑顔の女性スタッフがふたり。これまでの自分には全く縁のない類の施設であったからか違和感が凄い。


狩谷かりや君、おはよー」


 背後から聞き慣れた声。透き通るような美声。

 振り返ればそこにいたのは──とびきりの美少女。

 腰まで届く艶やかなストレートの黒髪。

 大粒の瞳が印象的な神がかった造形の顔立ち。

 薄手のTシャツの胸元は柔らかそうな大ボリューム。

 きゅっとくびれたウエストからハーフパンツの腰周りを経て、黒のタイツに包まれた長くしなやかな脚に続いている。


立華 茉莉花たちばな まつりか

 誰あろう、勉の彼女であった。

 今日は珍しく肩から大きめのバッグを下げている。


「……」


 その美貌は見慣れたものの、見飽きることは決してない。

 時折目を奪われて、意識を飛ばされる。


「どうしたの? まだ寝ぼけてる?」


「ああ、いや」


 胡乱げな眼差しと怪訝な声に我に返った。

 ずり落ちていた眼鏡の位置をなおしつつ口を開く。


「その……立華の私服を見るのは初めてだな、と」


「そうだっけ?」


 茉莉花が首を傾げると、肩にかかっていた黒髪がサラサラと流れた。

 この少女の一挙一動は、道征く人の視線をナチュラルに引き寄せる。


「結構色々着てたような気がするけど」


「裏垢は除いてだ。普通の私服というか」


「なるほど、それなら初めてかもね」


 寄せられていた眉が緩む。納得が行ったようだった。

 茉莉花は故あってひと月ほど前までエロ系自撮り投稿裏垢で様々な衣装を身にまとった写真を世界中に披露していた。

 そのほぼ全てを勉は網羅していたが、記憶にある限り普通の私服を普通のシチュエーションで……的なものはなかった。

 あとは学校指定の制服や体操服、勉の家に泊まりにきた際のワイシャツぐらいのもの。


「なぁ、立華」


「ん、何?」


「本当に行くのか?」


 物思いに耽り続けるわけにも行かなかった。

 往生際が悪いと自覚しつつも万が一の可能性に賭けたかった。

 だから──つい今しがたまで眺めていた建物に視線を向けて問いかけたのだ。


「行くに決まってるでしょ。今さら何言ってんの?」


「まぁ、それはそうだな」


「狩谷君、私とデートするの嫌なの?」


「そうじゃない。そうじゃないんだが……別にここでなくても良くないか?」


 前半部分は即答で、後半部分は一瞬の間があいた。

 勉の微妙な心理が、そのまま表に出た形になる。


「良くない。前に言ったとおりよ」


 茉莉花の決意は硬そうだ。漆黒の瞳に強い輝きが宿っている。

 思わず空を仰いだ。勉には彼女を翻意させる理屈が思いつかなかった。

 するりと右手に茉莉花の左手が絡み付いた。もう逃げられない。

 

「ほら、行くわよ」


「……ああ」


 覚悟を決めて歩みを進める。

 勉たちが足を踏み入れた建物の名は──『ゴールデンフィットネスクラブ』という。



 ★



『夏休みになったらさ、海に行こうよ!』


 発端は期末考査の勉強のために図書室を訪れた帰り道に茉莉花が放ったこのひと言だった。

 テストが終われば夏休み。高校2年生の夏休み。

 3年生になれば大学受験を意識せざるを得ないことを思えば、高校時代最後の長期休暇と言えるだろう。

 それも、夏。暑い夏。圧倒的な開放感。海やら山やら花火やら夏祭りやら、イベントも盛りだくさん。

 勉と茉莉花は彼氏彼女の関係になったばかり。海といえば水着。これはもう色々な意味でテンション大爆発間違いなし。

 なのだが──勉は首を横に振った。


『すまん立華、海はダメだ』


『え、なんで? 私、すっごい水着買ったよ。見たくないの?」


 茉莉花の眼差しが今まで目にしたこともないモノになっていた。

 断られる可能性をまるで考慮していなかったとしか思えない。


『それは見たい』


『だったら海行こうよ』


『海はダメだ。水着は……そうだな、俺の部屋で見せてくれないか?』


 海には行きたくない。

 でも茉莉花のすごい水着姿は見たい。

 両方の要件を満たすグッドアイデアを提示したつもりだったのだが、茉莉花の眼差しはひどく冷たかった。


『狩谷君、それは引くわ。本気で言ってるのがわかっちゃうから凄く引く』


『なぜだ!? 水着を見るだけなら、別に海に行く必要なんてないはずだ』


『いやいやいや、それは流石に変態すぎるっていうか』


『室内でそういう服を着るの、慣れてるだろう』


 茉莉花の裏垢に投稿されていた写真は、いずれも彼女の自宅で撮影されたものだった。

 中にはかなり際どいものもあった。水着ぐらいどうということもないはずだ。


『それはそれ、これはこれ』


『しかしだな……夏は暑いし、海なんて人が多過ぎて』


 尚も食い下がる勉をジト目で睨んでいた茉莉花は、ため息の後にひと言。


『狩谷君、泳げないんだね』


『……!?』


 全身が大きく揺れた。

 いきなり図星を突かれて息が止まった。

 

『そ、そんなことはないが』


『……』


『……』


『……』


『……すまん、泳げない』


 どうにか誤魔化せないかと脳内で言い訳を拵えようとしたものの……無言の圧力に耐えきれなかった。

 こういう時の『立華 茉莉花』は無敵で最強だ。

 

『よかった』


『む?』


 茉莉花はほっと息を吐き出して、胸を撫で下ろした。

 不誠実な彼氏に怒りを覚えると言った様子ではない。


『腹が立つとか、情けないとか思わないか?』


『え、なんで? 誰だって苦手なことのひとつやふたつはあると思うけど』


『でも、『よかった』というのは……』


『狩谷君は泳げないから海に行きたくないってだけで、私と海に行くのが嫌ってわけじゃないんでしょ』


『それはまぁ、そうだな』


 素直に頷いた。

 もし泳げるのなら、ナイスバディな超絶可愛い彼女がいて海に行かないなんて選択肢はない。プールでもいい。

 せっかくの夏なのだから茉莉花の水着姿が見たい。冬は温泉がいい。

 貞操観念ガチガチのお嬢様が相手なら、欲求を直球で表明すべきか悩ましいところだが、茉莉花はその辺にかなり鷹揚な性格だ。

 

『だったら……特訓だね』


『特訓?』


 今度は素直に頷けなかった。わけがわからなかったからだ。

 茉莉花が突拍子もない言動を繰り出すことは、まぁ割と良くある。

 ……とは言うものの、ごくごく一般的な高校生活の中で『特訓』なんて単語はなかなか縁があるものではない。

 

『そう、特訓。夏休みに入る前に狩谷君を泳げるようにします』


 言い回しが微妙に変だった。


『いや、無理しなくてもいいぞ』


『無理じゃありません』


 決定事項になっていた。しかも断言された。

 勉は学力面では突出している反面、運動面は平凡だ。

 特段悪いというわけではないが、良くもない。

 夏休みまでの短期間で泳げるようになって……などと楽観的に考えることはできなかった。


『た、立華? 俺は別に泳げなくても困らないぞ』


『ダメです。私が困ります』


 勉が泳げないと茉莉花が困る。

 目の前で仁王立ちしている少女の脳内でどのような論理展開が行われているのだろうか。

 まったくもって理解し難い。説明されても頷けない気がした。


『さっきも言ったが、水着を見るだけなら俺の部屋でいいじゃないか』


『それだけじゃないし』


『じゃあ、なんなんだ?』


『……海外に行く時困るじゃん』


 海外。海外旅行。

 随分と話が飛んだ。

 今のところ、勉に海外へ旅行する予定はない。

 戸惑いを覚えつつも、茉莉花の真意を探る。


『海外って……どうしてそうなる?』


『飛行機が海に墜落した時とか、船がタイタニックした時とか』


 茉莉花から返ってきた反応は、微妙にピントがズレていた。


『どちらも普通に助からないと思うが』


『泳げたら助かるかもしれないって思わない?』


 ずいっと茉莉花に詰め寄られて、勉がのけ反らされる。


『飛行機とか船に乗らなければいいんじゃないか?』


『……新婚旅行とか、どうするつもりなの?』


 新婚旅行。

 茉莉花の口から飛び出してきたのは、想像を絶するワードだった。

 勉は茉莉花と付き合い始めたばかり。もちろん別れるつもりはない。

 ならばふたりの交際が結婚につながるという発想は正しい。

 そして結婚するならば新婚旅行という発想も正しい。

 ただ、そこまで発想が及ばなかっただけ。

 自分の意識が低いとは思わない。茉莉花が色々すっ飛ばして気味なのだ。

 そうは言っても、この状況で首を横に振るわけには行かない。

 人の心の機微に疎い勉でも、それくらいはわかる。


『国内は──』


『却下。私、海外派』

 

 あまりにも即答。

 反論を許す雰囲気ではなかった。


──そんな派閥があるのか?


 脳裏に浮かんだ疑問はひとまず置く。

 目の前で加速度的に機嫌が急降下している茉莉花への対応を間違えると、危機に陥ることは間違いなかったから。

 全国トップレベルの頭脳をフル回転させた結果──勉は首を縦に振った。一発大逆転なナイスアイデアなんて思いつかなかった。


『わかった。泳げないよりは泳げたほうがいいのは間違いない』


『うんうん。ビシバシ行くから覚悟しててね!』


 茉莉花は満面の笑みを浮かべながら前を向いて足を踏み出した。

 黒髪がステップに合わせて揺れる。白い脚とのコントラストが眩しい。

 程なくして耳に心地よい鼻歌が勉の耳朶を掠めていった。

 

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