第69話 図書室にて遭遇する その2


『ねぇ狩谷かりや君、その子、誰?』


 茉莉花まつりかの声を耳にした瞬間、つとむの背筋が震え上がった。

 足元から頭の天辺まで悪寒が駆け抜ける。


「た、立華たちばな?」


「……」


 勉の視線の先では茉莉花がいつもと変わらない笑顔を浮かべている。

 否、整いすぎた顔立ちに浮かぶ表情は、いつもとはまるで異なっていた。

 具体的には口元が微妙に引き攣っているし、漆黒の瞳からは輝きが消えている。

 裏垢暴露騒動の際に彼女の家で見た顔に似ているが、少し違う。威圧感が半端ない。


──なんだ、これは?


 いったいどうしてこうなった?

 いつの間にこんなことになった?

 不思議に思いはするものの、首を傾げることすらままならない。

『友人の萩原はぎわらだ。図書委員をしている』と答えればいいだけなのに、口が動かない。


「……」


「……」


 向かい合うふたりが醸し出す異様な雰囲気に耐えられなくなって、ついつい視線を逸らしてしまった。

 常日頃とは異なるざわめきに覆われていた試験直前の図書室は、いつしか無音の世界へと変じていた。

 生徒たちは誰もが俯いて手元のノートにペンを走らせ、あるいは教科書や参考書に目を走らせている。

 一心不乱に勉強しているように見えるが、要するに彼らは勉たちに関わりたくないと全身で主張していた。


「……」


「……」


 茉莉花たちに向き直ると、相も変わらず無言の対峙が続いている。

 眼前の現実から逃避しても、何も始まらないことだけは明白だった。


──さて、どうやって割り込んだものか……


 思い倦ねる勉の目の前で──ハッと茉莉花の表情が動いた。

 消失していた瞳のハイライトが戻り、目蓋をパチパチと上下させた。

 視線が中空を彷徨い、ゴホンと咳払い。両手で頬を挟んで軽く叩く。


「ごめん、ちょっと動揺した。で、狩谷くん……その子は?」


「あ、ああ……こちらは萩原だ。図書委員」


「えっと初めまして……でいいのかな、『萩原 穂奈美はぎわら ほなみ』です」


 何事もなかったかのように訪ねてくる茉莉花。

 先ほどまでの妙な空白タイムは気になったものの、名指しで水を向けられたからには放っては置けない。

 強張っていた唇と喉を無理くり動かして紹介すると、穂奈美は穏やかな笑みを浮かべたまま軽く頭を下げてくる。


「ぐっ」


 なぜか茉莉花が大きくのけぞった。

 挙動不審すぎて意味がわからない。


「そ、そう? こちらこそ初めまして。私は『立華 茉莉花』よ」


「はい。お名前はかねがね」


 ふたりともごく普通に挨拶しているだけだ。どちらも笑顔だ。何もおかしいところはない。

 ……はずなのだが、勉の脳内では過去最大級の警鐘がガンガンと打ち鳴らされている。

『今すぐここから逃げろ』と本能が全力で叫んでいる。

 しかしその一方で『背を向けるな、死ぬぞ』と頭のどこかから声がする。

 矛盾したふたつの命令が脳内で交錯し、勉はその場から動くことができなくなってしまった。


「おふたりも試験勉強ですよね」


「……そのつもりだ」


 そのとおり、自分たちは試験勉強をしに来たのだ。

 静かに、心穏やかに。望むことはただそれだけ。

 なのに──どうしてこうなった?


「奥の方がまだ空いていると思います。くれぐれもお静かにお願いしますね」


「わかった。行こう、立華」


「え、ええ。萩原さん、それじゃ」


「はい。また」


 颯爽と──颯爽と(?)茉莉花が奥の机に向かっていく。

 笑顔を貼り付けたまま、腰まで届く艶やかな黒髪を靡かせて。

 図書室に張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

 


 ★



「あ〜」


 下校のチャイムに促されて図書室を後にするなり、茉莉花が喉を震わせた。

 彼女にしては珍しい、なんとも形容し難い声だった。

 反応に困る。


「今日はあまり捗らなかったな」


「……わかってるし」

 

 ぷーっと頬を膨らませ、つんとそっぽを向いた。

 非常にご機嫌斜めのご様子だった。

 茉莉花は人の目があるところでは表情を作りがちなのに。


「立華にしては珍しいが……何かあったのか?」


 茉莉花が試験勉強に集中できていなかったことには、すぐに気づいた。

 様子がおかしくなったのは穂奈美と顔を合わせてから。それくらいはわかる。

 しかし、穂奈美は茉莉花の機嫌を損ねるようなことは何もしていない。

 だからこそ尋ねざるを得なかった。流石に図書室で聞く勇気はなかった。


「何かっていうか……」


「立華?」


「……怒らない?」


 ナチュラルにあざとい。

 下目遣いで尋ねられると断れない。


「内容による」


「だよね。はぁ」


 茉莉花はそれっきり口を閉ざしてしまった。

 重苦しい空気が続いている。


──これは……困ったな。


 靴を履き替えて学校を後にする。

 ふたりともひと言も口を聞かないまま、最寄駅に向かって歩みを進めた。

 いよいよ夏が近づいてきただけあって、まだまだ周囲は明るく道行く人も多い。

 まとわりつくような熱に首筋から汗が吹き出してくる。


「……狩谷君に女子の友達がいたのが意外だったというか」


 ぽつりと、茉莉花がそんなことを口にした。


「ん?」


「だから、さっきの話」


「ああ」


『狩谷 勉』の人間関係が非常に希薄であることは、今さら誰かに指摘されるまでもない。

 男子で友人と呼べるのは同じクラスの『天草 史郎あまくさ しろう』ぐらいのもの。

 同性の友人がほとんどいないのであれば、異性の友人はもっと少ないのではないか。

 率直に言えば自分以外に近しい女子はいないのではないかと、茉莉花はそのように考えていたらしい。


「言われてみれば確かに」


「納得されても困るってゆーか」


「事実だからな」


「あ、そう……ね、狩谷君はあの萩原さんとどういう風に知り合ったの?」


 茉莉花にしては珍しく歯切れの悪い口ぶりだった。

 不審に思いつつも、勉は過去の記憶を掘り返す。


「萩原と? どうだったかな?」


「いや、別に無理して教えてくれなくてもいいんだけど。ほんと、別にいいんだけど」


 腕を組んで顎に手を添える。

 しばしの黙考ののち、勉は首を横に振った。


「……すまん、よく覚えていない。ただ、萩原は去年も図書委員だったから」


「から?」


「俺は他の生徒よりは図書室を利用していたから、それで何となく……だと思う」


「それだけ?」


 尚も食い下がってくる茉莉花の瞳に真剣な光が宿っている。

 剣呑な光と表現した方がおそらく適切だろうと思われた。

 当然そんなことを本人の前で指摘したりはしない。


「それだけだ」


「ふ〜ん」


 前を向いた茉莉花の口から、気のない返事が零れた。


「萩原がどうかしたのか?」


「どうって……ううん、狩谷君の友達なのに……私、感じ悪かったなって」


「確かに立華にしては珍しい反応だったな」


 勉が知る限り『立華 茉莉花』と言う少女は誰に対しても愛想がいい。

 学園のアイドルであった頃も、その仮面を脱ぎ捨てた今も。

 ……なぜか史郎だけは例外で、ふたりは互いに牽制しあっている、或いは意図的に距離をとっている節が見受けられた。

 こちらも理由はよくわからないままだったが、お互いに納得しあっているようだから口は挟まないようにしている。


「ごめんね。萩原さん見てると凄く変な気分になったの。自分でもどうしたらいいかわからなくって」


「立華にもわからないことがあるのか」


 豊かに膨らんだ胸を白い手で押さえながらの告白に、隣を歩いていた勉は素直に驚いた。

 こと対人というシチュエーションにおいて『立華 茉莉花』は百戦錬磨の猛者ではなかったのか。

 初めて出会った人間相手でも、大体なんとなく上手く立ち回るイメージがあったのだが。


「当たり前じゃん。狩谷君の目には私ってどういう風に見えてるの?」


「う、うむ?」


 ジト目で見つめられて言葉に詰まる。

 眼前でくるくる表情を変化させる茉莉花は、どんな言葉を求めているのだろう?

 正解らしき選択肢が見えてこない。

 

「ほんっとごめん、次からちゃんとするから」


「あ、ああ。萩原は別に怒ってはいないだろうし、それでいいんじゃないか」


「……狩谷君、萩原さんのこと、詳しいんだね?」


 問われた瞬間、ヒヤリとした汗が背筋を流れ落ちた。

 茉莉花の瞳から、先ほどと同じように光が失われていた。


「どうだろうな? 立華が想像しているほどではないと思うが」

 

「ふぅん、そうなんだ」


「そうだ。一年以上の付き合いになるが、萩原のことはほとんど何も知らない」


 同じ歳の図書委員。

 趣味は読書で運動は苦手。

 性格は穏やかで面倒見が良く、後輩にも慕われている。

 勉が知っているのは、それくらいだ。


「そっかそっか」


 何度も頷いた茉莉花は、ようやく機嫌を直してくれたようだった。

 漆黒の瞳に輝きが戻り、調子外れの鼻歌が勉の耳朶を打った。

 眼鏡の位置を直しながら、そっとため息ひとつ。


「ねぇ、狩谷君」


「なんだ?」


「夏休みになったらさ、海に行こうよ!」


 屈託のない笑顔で、突拍子もないことを言い出した。

 こういうところは、勉が良く知る『立華 茉莉花』であった。

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