第72話 初めてのデート その3
「ふむ……」
プールサイドに仁王立ちした
ひとりだった。
『一緒に着替えよっか?』なんて言われたが、揶揄われているのが見え見えだったので却下した。
水着を身につけてプールサイドへやってきたはいいものの……実のところ、所在なさげに立ち尽くしていたと表現するのが正しい有様だった。
首を意味もなくコキコキ鳴らし、眼鏡の位置を直そうとした指が、そのまま眉間に押し当てられる。
当たり前と言えば当たり前の話だが、今の勉は眼鏡をつけていない。プールだから仕方がない。
代わりに売店で買ったばかりの度入りのゴーグルがおでこに引っかかっている。
厳密に視力と合わせたわけではないが、まぁプール限定なら問題はないだろう。
ただ……おそらく錯覚ではあると思うのだが、なんとなくゴーグルをかけると圧迫感があった。
よって今はゴーグルを外しており、おかげで視界は曖昧で何が何やらさっぱりわからない。
ふと身体を見下ろすと、生白い腹部が目に入った。自分の腹だった。
決して弛んでいるわけではないが、殊更に鍛えているわけでもない。
普段は衣服の下に隠されているので人目に触れることもないが、ここではそういうわけにはいかない。
更衣室で着替える最中にチラチラと見回した範囲内では、他の客の体はそれなりに引き締まっていた。
わざわざフィットネスクラブに通うような人たちなので、相応のトレーニングを積み重ねているのだろう。
──う〜む。
腕を組んでひとり唸る。
茉莉花が頻繁にここを訪れていると聞いた時は驚いた。
自身の美貌に磨きをかけるためと聞いて『さすがは
そして今、こうしてライトアップされたプールサイドに立ってみると──自分の身体が気になって仕方がなかった。
これは勉にとってかなり意外なことだった。生まれてこの方、ずっと気にしたことなんてなかったくせに。
『立華から見て、今の自分はみっともなくないだろうか?』
そんなことを考えてしまう。
まったくもって今さらな話。
つい自嘲の笑みを浮かべてしまう。
「
煩悶していたところに背後から声をかけられた。
耳慣れた心地よい声は茉莉花で間違いない。
慌てて振り向くと──
「……」
「……」
勉は慌ててゴーグルをかけた。
視界がぼやけすぎていてよく見えなかったから。
再び向き直ると、そこには笑みを浮かべる茉莉花がいた。
腰まで届く黒髪を後ろでひとまとめにしている姿、特にあまりお目にかかれないうなじがちょっと新鮮で感動した。
「眼鏡、大丈夫?」
勉の奇行に思い当たったらしい。
それ以上は思い当たらないでほしかった。
「ああ。問題ないが……いや、ゴーグルがないと視界が厳しいな」
「そんなに悪かったんだ。考えてみたら、狩谷君が眼鏡外したところって見たことなかった」
「そうだな。人前というか、外では極力外さないようにしている」
「だよね。結構眼鏡のフレームいじってること多いし。サイズあってないんじゃない?」
「ふむ、久しぶりに眼鏡屋に行った方がいいかもしれんな」
最後にレンズを変えたのはいつだっただろうか?
ずっと近眼のままなので、微妙な視界でも『まぁ、こんなものか』と適当に流しがちだ。
夏休みはちょうどいいタイミングかもしれない。
「ま、それはまた今度ってことで。ところで狩谷君」
「な、なんだ?」
とびきりの美少女が、いきなり間合いを詰めてきて、上目遣いで見上げてくる。
至近距離。大粒の瞳がキラキラと輝いていて、桃色の唇が艶めいていて。
奇襲を喰らって思わず仰け反らされてしまう。動揺を隠せないままに上擦った声で尋ねると──
「私に何か言うことは?」
茉莉花はニヤリと笑みを浮かべたままバックステップ。
その場でくるりとひと回り。軽やかな舞が目を惹いた。
彼女が身に纏っているのは、勉とお揃いの水着。
このスポーツクラブのロゴが胸元に入った黒の競泳水着なのだが……背中が大きく開いているし、足の付け根の部分はかなり鋭角にカットされている。
コレを『スポーティー』のひと言で表現するのは、相当に無理があると言わざるを得ない。
デザインは一応シンプルではあるが、身に付けている茉莉花は全然シンプルな存在ではない。
いつもは制服の内側から存在を主張してくる大ボリュームのバスト。
コルセットでもつけているのかと疑いたくなるほどにキュッとくびれたウエスト。
柔らかい膨らみを経て長い脚に続く曲線が露わになっていて、視覚的な暴力が半端ない。
──競泳水着でこれとなると、『すごい水着』とやらを着たらどうなるんだ……
想像しただけで心臓の鼓動が乱雑なビートを刻み始める。
喉は渇きを覚え、思わずゴクリと唾を飲み込む。
「え〜っと、狩谷君。私の声、聞こえてますか〜?」
視界を塞ぐように手のひらが振られる。
見慣れた感のある茉莉花の手だった。
見飽きた感はない。
「あ、ああ」
「本当に何ともない? 風邪とか引いてる? 昨日はちゃんと寝た?」
「大丈夫だ。何もない」
「そう? ま、いいけど」
あっさり引こうとする茉莉花にひと言。
「その……似合ってるぞ、立華」
コレだけは言っておかねばならない。
未だとっ散らかったままの頭の片隅で、強い意志が働いた。
慣れない言葉を口にしたせいで、頬が熱を持って落ち着かない。
茉莉花がジーッと見つめてくるものだから、なおさら落ち着かない。
しばしのにらめっこを経て、
「うん。ありがと、狩谷君」
茉莉花は綻ぶような笑顔を浮かべた。
★
「なあ、立華」
「ん? どうかした、狩谷君?」
ふたりは今、準備運動の真っ最中だ。
茉莉花が口ずさむ歌に合わせてラジオ体操。
その後に柔軟体操。
「いや、その……俺の身体、おかしくないか?」
彼女にそんなことを尋ねてしまったのは、服を着ずに生で身体を見られているせいかもしれないし、周りにも半裸の人間だらけだからかもしれない。
努力を怠ってきた自覚がある勉としては、茉莉花から自分がどのように見られているか、どうにも気になって仕方がない。
率直に言えば自信がなかった。
「ん〜、そうだね。ちょっと硬いかも。柔軟体操はお風呂上がりに毎日やった方がいいと思う」
尋ねられた茉莉花は、そんなことを言いながら勉の身体を前に倒すために押してくる。
背中に直接触れる滑らかな手のひらの感触がくすぐったい。
無理矢理開かれる股関節の痛みで相殺されるおかげで、正気を保っていられる。
「いや、そうじゃなくてだな」
「じゃあ……こっち?」
背後から脇腹を掠めて前に回ってきた茉莉花の白い手が、すす……っと腹を撫でる。
「ああ。そっち」
「狩谷君のえっち」
「待て、何の話をしている」
「え? あ、お腹の話?」
「腹というか、全体的にだな……」
いつの間にか茉莉花の唇が耳元に迫っていた。
距離が近い。ほとんど重なっている。
衆人環視の中でこんなことをしていていいのだろうか。
今の今まで気にしないように努めてきたが、カウンターでもここでも茉莉花に向けられる視線の圧が尋常ではない。
自分の恋人が注目を集めるキャラクターであることは重々承知の上であったはずなのに、茉莉花は想定を軽く超えてくる。
美味しいシチュエーションのはずなのに、罪悪感に似た妙な感情に押し潰されそうになる。とりあえず心臓に悪かった。
「う〜ん、普通だと思うけど」
「そうか? 変じゃないか?」
「狩谷君って、そういうの気にするタイプだったっけ?」
「……自分でも意外だが、こういうところに来ると日頃の不摂生を見せつけられている気がしてな」
「ああ、そういうこと」
「そういうことだ」
どうも茉莉花と自分が不釣り合い……なんて直接的には言わない。
勉が茉莉花を選び、茉莉花が勉を選んでくれた。
ふたりはそういう関係だったから、自分を下げる言葉はおいそれとは口にできない。
それは相手の信頼を損ねる結果に繋がりかねないから。
だけど、気になる。微妙な心の綾だった。
「単に自分のフィールドじゃないから居心地悪くなってるんじゃないかな」
「自分のフィールドか」
「うん。私も図書室とかいくと背筋がざわざわするし」
茉莉花が学校の図書室に足を運ぶのは、試験前のみ。
あの場所はあのタイミングで勉強オーラが最高潮に達する。
慣れていない人間にとっては、さぞや居た堪れない空気が蔓延しているだろう。
「そうなのか? 全然そんな風には見えないが」
首を傾げて後ろの恋人に視線を送った。
迂闊に身じろぎすると茉莉花の柔らかい肢体に触れてしまうので、慎重に。
……それはともかく、勉の目から見ても茉莉花は基本的に努力家のカテゴリーに含まれている。
学園のカリスマのひとりである彼女が試験勉強に汲々としていても、別におかしいとは思わない。
背後の少女は見栄っ張りでもあるから『余人にそういう姿を見せたがらないだろうな』とは思うが。
「そうなの。あそこに行くと、『私って勉強してないな〜』って思っちゃう」
「そんなことはないだろう」
「だよね。だから、狩谷君も『そんなことない』よ」
図書室の話がどれほど真に迫っていたのかはわからない。
ただ……茉莉花の懸念を鼻で笑うのならば、勉がいま感じている奇妙な感覚もその程度のものだと、快刀乱麻に切って捨てた。
こういう鮮やかな切り返しを見せられると、つくづく敵わないと思い知らされる。
「立華が彼女でよかったよ」
「何、いきなり。否定はしないけど」
「そういうところも好ましいと思ってる」
「む〜、いきなりマジで言われると照れるんですが」
「いいぞ、存分に照れてくれ。オレばかり一方的にやられっぱなしじゃ堪らんからな」
「あら、お気づきでしたか」
「流石に気づく」
背中を押す指の力が強くなった。
茉莉花のスキンシップは割と大胆な方だが、今日は度を越している。
理由は判然としないのだが……こうして話をしている最中も精神攻撃は続いていて、先ほどからずっと戦々恐々である。
「立華、何かあったのか?」
「別に。何にもないし」
「……本当か?」
「本当」
顔を見ることはできなかったが、声を聞く限り『何もない』ということはなさそうなのだが。
……ここで突っ込んだところで、色良い返事は返ってこないだろうことは想像に難くない。
──ままならんな。
すぐ側にいるのに、全貌を掴むことは容易ではなかった。
一筋縄ではいかない恋人を思い、そっとため息をついた。
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