第64話 離れていても近いふたり


 図書室で穂奈美ほなみたちに相談した数日後のことであった。

 授業を終えてアルバイトへ向かい、夕食と諸々の家事を終え、予定していた勉強も片付けた。

 首をゴキゴキ鳴らし、肩をグルグル回しつつ、壁にかけられた時計に目を走らせる。

 まだ時間に余裕があることを確認したつとむは、机を離れてリビングのソファに腰を下ろした。


「さて、と」


 スマートフォンを操作して、送られてきたリストを元に漫画をいくつか購入。

 麦茶を啜りながら、ダウンロードされた漫画に目を通し始めた。

 この場に誰かがいたとしたら『漫画読んでる目じゃねーな』と笑ったかもしれない。

 勉にとっては単純に内容を楽しむための読書ではない。これは歴とした勉強なのだ。


「ふむ……」


 穂奈美のリストは、勉が現在置かれている状況に即した現実世界を舞台にした漫画が多かった。

 しずくのリストには、その手の配慮は一切見られなかった。SFやら歴史もの、ゾンビものなど節操がない。

 黒髪ショートの一年女子の『イタズラ成功!』と言わんばかりの笑顔が脳裏に浮かぶ。

 思わずイラッとしたものの、それでも……面白いことには間違いないところが余計に悔しい。

 そして──読み始めたら止まらない。夜中のリビングに、時計が時を刻む音だけが響く。

 ややあって、ほうっと勉は大きく息を吐き出した。


「漫画なんて今まで読んだこともなかったが、これは馬鹿にしたものじゃないな」


 これまでは食わず嫌いじみたところがあったが、実際に目を通してなお自説を頑迷に押し通すことはなかった。

 頑固で融通が効かないという自覚はあるとは言え、面白いものは面白いと素直に認めることぐらいはできる。

 いつしか『恋愛の勉強のため』と言うお題目はどこかへすっ飛んで、すっかり漫画にハマり込んでしまった。


「これは……ほどほどにしておかないとマズイぞ」


 世のお父さんお母さんが目を吊り上げて怒るだけのことはある。

 あまりに漫画ばかり読み耽っていては、日々の勉強すらままならない。

 穂奈美たちがお勧めしてきた作品には、恐れを抱くほどの中毒性があった。


 テーブルの上に置かれたまま汗をかいていたコップを口に傾ける。

 流れ込んでくる麦茶のぬるさに眉を顰め、冷凍庫から氷を出して放り込んだ。

 静かすぎるリビングに物寂しさを覚え、テレビのスイッチを入れる。

 モニターに映し出されたのは──アイドルが出演している歌番組だった。

 司会によると『WINKLE』と称する3人組のユニットが歌を披露するところのようだ。


『さて瑞稀みずきちゃん、一曲どうぞ』


『はい。みなさま、聞いてください。『WINKLE』で『ラブ・イズ・デストロイ』です!』


 涼やかな目元のクールなアイドルの声と共に前奏が響く。

 セミロングの黒髪を靡かせた雰囲気のある美少女だった。

 

──恋愛禁止のアイドルがラブソングだなんて、矛盾してるな……


 奇妙な物思いに囚われながら、再び漫画に目を向ける。

 不意にスマートフォンが震えた。茉莉花まつりかからの着信だ。

 端末を耳に寄せると、聞きなれた甘やかな声が耳朶をうった。


『もしもし、狩谷君。今、いいかな?』


「ああ、問題ない」


『ほんと? だったら、ちょっとお話しようよ』


 茉莉花の声が明るく弾んだ。

 きっとスマホの向こう側では花のような笑顔が咲いているだろう。

 

「最近忙しそうだが、大丈夫か?」


『うん。ま〜引っ越すって決めたの自分だし、色々走り回るのは大変だけど仕方ないかな』


 こうして電話で話している時も、学校で顔を合わせても茉莉花に疲労の翳りは見当たらない。

 裏垢騒動のせいで陰口を叩かれることもあるだろうに、決して弱みを表に出さない。

立華 茉莉花たちばな まつりか』は意地っ張りもといプライドの高い少女だ。その誇りを尊重したい。


「そちらの状況が全然把握できてないんだが、引っ越す先は見つかったのか?」


『探してる途中。できれば夏休み中には引っ越したいんだけど、いい物件は埋まってるんだよねぇ』


「それはそうだろうな」


 進学、就職、人事異動など、引っ越しを要するイベントは、いずれも春に集中している。

 夏を間近に控えたこの季節に、茉莉花が希望するような物件が残っているとは考えにくい。


『学校から近くてセキュリティのいいところ。お金に糸目はつけないつもりなんだけど』


 などと口走っているが、実際に支払うのは彼女の父親だ。

 幼少の頃より娘を放置し、ひたすら金銭だけを与えてきた親。

 エロ自撮り裏垢が発覚しても『娘の自主性を尊重する』なんて美辞麗句だけをよこすような親のことを、茉莉花はもはや限度額なしのATMとしか見ていない。

 その是非について異論を持つ者がいるかもしれないが……打ちのめされて伏せってしまうよりも、彼らを利用して前に進もうとする強かさが頼もしく感じられる。

 もしも彼女に何らかのトラブルが発生した場合は、恋人として協力することは吝かではない。

 今の茉莉花はひとりであっても孤独ではないのだ。そう胸を張れる彼氏になりたい勉だった。


「事前にシミュレートしておくことは大切だが、実際に暮らしてみないとわからないこともあるぞ」


『そうなの? そっか、狩谷君は高校入ってからひとり暮らしを始めたんだっけ。そんなに違う?』


「ああ。もっと上手くできると思ってたことが、そうでもなかった。まぁ、日常茶飯事だな」


『マジか〜、聞きたいような聞きたくないような』


 茉莉花との会話の大半は、他愛のないものばかり。

 話題もあっちに飛んだりこっちに飛んだりで、取り留めない。

 耳に当てたスマホからは茉莉花の声が、空いた耳にはテレビからアイドルソングが聞こえている。

 先ほど写っていた『WINKLE』なるユニットの特集らしく、今は録画と思われるインタビューがデカデカと映し出されていた。


「『片桐 瑞稀かたぎり みずき』か……」


『え、いきなりどうしたの、狩谷君?』


 テロップをそのまま口にしてしまった。

 案の定スマホの向こうから茉莉花が怪訝な声をあげる。

『しまった』と声に出さずに頭を抱えた。

 彼女との会話中に他の女の名前を出すのは厳禁と、読んだばかりの漫画に描いてあったのに。


「あ、いや……今、テレビで歌番組を見ていた」


『『Mステージ』? 狩谷君が歌番組見るなんて、ちょっと意外』


『Mステージ』は全国放送の有名な音楽番組だ。

 一介の高校生である勉が見ていても別におかしくはない。

 ……と反論しかけたが、その答えがあまりに説得力を欠いていることは、他ならぬ勉自身が一番理解できている。


「ああ。たまたま付けただけだが、この歌は悪くないな」


『出た、謎の上から目線』


「純粋に褒めただけなんだがなぁ」


 口をついて出た言葉を『上から目線』と評されて密かにショックだった。

 別に茉莉花が悪いわけではない。勉の態度がよろしくないのだ。


『これは失敬。期末試験が終わったら、私の『WINKLE』メドレー聴く?』


 そのひと言で期末考査が近い事を思い出した。

 勉は毎日の予習復習を欠かさない人間で、試験前だからと言って特に勉強の時間を増やしたり減らしたりはしない。

 茉莉花は……中間考査の時は勉と一緒に放課後の図書室で勉強していた。

 流石に試験直前まで引越しの物件探しに奔走するなんてことはないだろうが──


「立華、試験勉強はどうするんだ?」


『う〜ん、実は最近あんまり勉強できてなくって。助けて欲しいかも』


「わかった。テストに出そうなところをチェックしておく。場所は図書室でいいか?」


『ありがと。ごめんね、変な気を遣わせちゃって』


「気にするな。好きでやっていることだ」


『愛されすぎちゃってます、私?』


「そうだな」


 そういう文脈の『好き』ではなかったが、茉莉花のことはそういう『好き』だった。


『はっきり言う。んもう、ご褒美期待しててね!』


「ああ。期待させてもらう」


『……狩谷君が言うと、なんかエロいね』


「そっくりそのまま返す」


『確かにね。そっちも乞うご期待!』


 あっさり帰ってきた答えに思わずガッツポーズ。

 先日聞かされた茉莉花の懸念は理解できる。

 彼女の境遇を思えば、おいそれと事を運ぶことは躊躇われる。

 だからと言って、恋愛の手順を知るために漫画を読み漁っても、すぐに身につくものではない。

 それでも──自分たちの関係を進めることに否やはない。要は準備を怠らなければいいのだ。


──買っておくか、コンドーム。


 彼女がイメージする『ご褒美』がどれほどのものかは判然としないが、以前この家に泊めた夜のことを思えば、用意しておくに越したことはない。

 避妊具の類は、あの時の自分には過ぎたものだったが、今は大きく状況が変わっている。

 茉莉花は茉莉花で持参しそうな気がするとは言え、自分も意識していると見せつけておくことは有意義だろう。


『もしもし、狩谷君?』


「あ、ああ。すまん、どうかしたか?」


『いや、別に何もないけど。いきなり黙っちゃうしどうしたのかな〜って』


「悪い、テレビで新曲が流れていたから、つい」


『狩谷君、そんなにファンなんだ。じゃあお礼は『WINKLE』のフルコースで』


「別のもので頼む」


 茉莉花の歌声が嫌なわけではないが、せっかくの『ご褒美』を適当なもので潰されては困る。

 期待させてくれるのなら、それなりのものを頂きたい。

 矢継ぎ早やに告げると、茉莉花はスマホの彼方で大袈裟にため息をついた。


『ガチすぎて引くわ、狩谷君』


 同意せざるを得なかった。

 さっきまで読んでいた漫画には、ヒロイン相手にそんなことを熱弁する主人公はいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る