第60話 恋愛を勉強する方法 その1


 

 知らないことは学べば良い。

 それは『狩谷 勉かりや つとむ』の人生における基本ルールのひとつだった。

 たとえ恋愛というこれまで経験のない畑違いの分野であっても、根本原則は変わらない……はずだ。

 今回もまたいつもと同じようにすれば良いと思い立って、放課後にひとり図書室へ足を向けた。

 彼女ができたばかりのくせに『ひとりきり』である。最近の茉莉花まつりかは授業が終わると、すぐに帰ってしまうのだ。

 気になって理由を聞いてみたところ、あの牢獄じみた豪邸を出るために色々と動き回っているとのこと。

 家を出る件については以前に聞かされていたし、茉莉花の事情を知る勉としては否やはなかった。

『期待しててね』などと笑顔を向けてくる茉莉花には何も言えなかった。

立華たちばなのその笑顔を見ていると、物凄く不安になるんだが』なんて、とてもではないが言えなかった。

 いくら勉でも、そこまで空気が読めないわけではないし、命知らずなわけでもない。


 試験前になると慌てて勉強を始める生徒たちで溢れかえる図書室も、今はまだ人影が少ない。

 静謐で平穏で知的な雰囲気が漂っている。足を踏み入れると、身が引き締まると同時に心が落ち着く。

 室内は冷房が効いていて、湿度も抑えられている。校内で最も快適な空間と言っても、決して過言ではない。

 

──これだけの図書室がもったいないな。


 校内で最も有益な施設は図書室だと『狩谷 勉』は断言する。

 書架に並ぶ蔵書は豊富でバラエティも多彩。夏は冷房、冬は暖房を完備。

 飲食禁止であることは残念だが……紙の本を扱っている以上、これは致し方ないと受け入れざるを得ない。

 人気がないことを口惜しく思う反面、ホットスポットになると快適性が失われることを厭ってしまう。

 流行って欲しいけれど、そっとしておいて欲しい。愛用者としては悩ましいところであった。


「さて、どこにあるんだ?」


 校内でも数少ない利用者のひとりであっても、何の理由もなく辺境領域たる図書室に足を運ぶことはない。

 まぁ、図書室を訪れる用事なんて、本を探すくらいしかないわけだが。そこで書店へ直行しないのは貧乏性ゆえのこと。

 そんなこんなで普段あまり読まない類の本を求めてやってきたはいいものの、目当てのブツのありかがわからない。

 入り口近くで突っ立ったまま後頭部を掻きつつ室内を見回し、どうやって探したものかと思案しかけたところ──

 

「こんにちは、狩谷君」


 カウンター越しに名前を呼ばれた。

 聞き慣れた声だ。温かみのある声だった。


萩原はぎわらか。図書委員も毎日大変そうだな」


 振り向くと、ひとりの女子生徒が座っていた。

 首筋が見える程度の長さに整えられたショートボブの黒髪。

 あまり外出していないと思われる日に焼けていない白い肌。

 ノンフレームの眼鏡の奥に鎮座する、知性的な光を湛えた瞳。

 全体的に飾り気のない『THE・文学少女』と言った佇まい。


萩原 穂奈美はぎわら ほなみ


 同じクラスになったことはないが、顔見知りの少女である。きっかけは忘れた。

 今年度も昨年度に続き図書委員に従事していると聞いている。

 勉が校内で顔と名前が一致する数少ない女子のひとりであった。


「まぁ、私の場合は半分趣味みたいなものだから」


 切り揃えられた前髪を軽く指で払いながら、柔らかい微笑みを向けてくる。

 裏表のない誠実さが際立った笑顔だった。

 彼女との会話には、わざわざ腹の中を探りあったりするようなめんどくささがない。

 それはきっと穂奈美の得難い資質だと思わされる。


「それで、今日はどう言った本をお探しですか?」


「む?」


 益体もないことをつらつらと考えていると、いつの間にか席を立っていた穂奈美が尋ねてくる。

 対する勉は、いきなり水を向けられて咄嗟に口籠ってしまった。

 教師すら面と向かうのは尻込みしがちな学年主席兼問題児『狩谷 勉』を前にしても、穂奈美は怯んだり身構えたりしない。

 勉が知る限りではあるが、彼女は概ね泰然自若としている。あくまで自然体であった。


「違いました? いつもすぐに本棚に向かう狩谷君が立ち止まっているから、普段読まない本を探してるのかと思ったんですが」


 軽く小首を傾げて告げられた言葉は、今の勉の状況を端的に示していた。

 さすが図書委員として日頃から図書室に詰めているだけのことはある。

 頻繁に訪れるわけでもない生徒のことも、よく見ているなと感心させられる。

 同時に、あまり周囲の人間に注意を払わない自分とは大違いだと唸らされる。

 ……まぁ、それは今のところあまり関係はない。彼女の言うとおり、今日は本を探しに来たのだ。


──俺ではよくわからんし、聞いてみるのもありか。


『百聞は一見にしかず』『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』という。

 門外漢の勉が本棚の間をウロチョロするよりも、ここは専門家の意見を聞いてみるほうがいいのではないか。

 なんの根拠もないが、そんな気がした。あまり深くも考えていない。


「そうだな。この部屋の主人である萩原の方が詳しいか。実は探している本がある」


「前置きが気になるけど……要件は承ります。それで、お探しのタイトルは?」


「……」


「狩谷君?」


 自分から尋ねておいて情けないことに……一瞬、口が固まってしまった。

 このまま彼女に相談することが正解か否か、にわかに不安が押し寄せて来たのだ。

 ギリギリのタイミングでチキン気質が顔を覗かせたわけだが、なんとか気合で押さえ込んだ。

 落ち着きなさげに眼鏡の位置を直し、軽く呼吸を整える。再び口を開くのに、若干の勇気を要した。

 

「あ、いや、何でもない。特定の本を探しているわけじゃないんだ。ジャンルというか」


 しかし、口から出たのはどうにも締まらない言い回しだった。

 割とストレートに物事を口にしがちな勉にしては、かなり珍しいことだ。

 本人も心の中で『何をやっているんだ、俺は?』などと呆れていたりする。


「大丈夫ですよ。本棚まで案内しますから」


「そ、そうか」


 落ち着き払った笑顔を向けられると、余計に気が急かされてしまう。

 いったいどうして心が騒めくのか、我が事ながら勉にはサッパリわからなかった。

 こんな風に自分が自分でなくなるような不思議な感覚に、最近しばしば囚われる。


──ま、まぁいい。


 気を取り直して室内を見回した。

 今、この図書室を利用している他の生徒はいない。

 その事実を確認し、勉は頭を寄せて声を潜めた。

 穏やかな表情を浮かべていた穂奈美が、訝しげに眉を寄せる。


「実は……恋愛小説を探しているんだが」

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