第61話 恋愛を勉強する方法 その2


「ブフォッ!」


 意を決して『恋愛小説を探している』と穂奈美ほなみに告げた次の瞬間、豪快に吹き出す音が静謐な図書室に響き渡った。

 穂奈美ではない。彼女の後ろから聞こえた。気づかなかったのは、声の主が寝そべっていて陰になっていたからだ。

 次いでゴホゴホと咳き込む声が、やけに癇に障る。

 穂奈美の背後のカウンターに目を向けると──そこには、もうひとりの女子生徒が突っ伏していた。

 ショートカットの黒髪に吊り目気味の大粒な瞳と目があった。ニヤリと口角を釣り上げている。

 人前にだらしない姿を晒しているが、よく見ると顔立ちは整っていた。

 記憶にない面構えだったが……制服を見る限りでは、どうやら一年生の模様。

 運動部系を彷彿とさせる活発なイメージを持っているけれど、ここにいると言うことは図書委員ということになる。

 わざわざ口にはしなかったが、どことなくミスマッチな印象を受けた。


「ちょっと、しーちゃん! 失礼よ!」


「だ、だって……あのガリ勉先輩が恋愛小説って、ちょーウケるんですけど」


『しーちゃん』と呼ばれた一年生は穂奈美に嗜められても、まるで懲りた様子がない。

 ひと言物申してやろうかと口を開きかけたところで、穂奈美が後輩の頭にポカリとゲンコツを落とした。

 温厚を極めたような少女である図書委員の意外な速攻に、つとむが口を差し挟むいとまもなかった。

 人は見た目によらないらしい。別に驚くことでもないのだろうが、実際に目の当たりにすると呆気に取られてしまう。


「うう……ちょっと茶化しただけなのに……穂奈美先輩、痛いです」


「しーちゃんにとっては軽いジョークでも、相手がそう受け取ってくれるとは限らないのよ」


「それはそうですけど、絶対このガリ勉先輩」


「その呼び方も失礼だと思わない?」


「あ、はい」


 もう一度拳を握りしめた穂奈美を目にして『しーちゃん』は素直に頭を下げた。

 ショートカットの黒髪と白いうなじのコントラストが眩しい。


「ごめんね、狩谷かりや君。この子、悪気はないんだけど……時々口が滑ることあって」


「いや、別に萩原はぎわらに謝ってもらわなくても構わんが」


 じろりと一年生を一瞥し、『俺には謝れ』と無言で威圧する。

 ここまでのやり取りで物怖じしない少女であることは見て取れた。

 それどころか──


「うわ、器ちっさ」


「何か言ったか?」


 勉の言葉と穂奈美の拳が同時に出た。

 再び頭を押さえた『しーちゃん』は肩をすくめて謝罪の言葉を口にする。


「いたた、あ、自分は一年の『汐見 雫しおみ しずく』と言います。名前は別に覚えてもらわなくても結構です」


 不思議な女子だった。弾む滑舌が耳に心地よい。

 全然悪びれないその態度が、なぜか絶妙に似合っている。

 他の人間がやったら苛立ちを募らせてしまいそうなものだが、勉は逆に毒気を抜かれてしまった。

 計算尽くでやっているなら大したものだ。どことなく茉莉花まつりかに通じるものを感じる。


「で、手遅れ先輩、今さら小説でお勉強ですか?」


「萩原、もう一発欲しいそうだ」


「そうみたいね」


 穂奈美はすぐさま拳を固めた。

 そのたおやかな制裁が振り下ろされる前に、雫は頭を押さえながら少しだけ後ずさって間合いをとった。

 上目遣いで見上げてくる後輩に、先輩からの追撃はなかった。穂奈美も本気で憤っているという雰囲気ではない。

 はたからは、可愛らしい女子がふたりしてじゃれあっているような微笑ましさすら見受けられた。


「ちょ、ちょっと待って。図星指されたからって、穂奈美先輩をけしかけるのはズルくないですか?」


「図星とはどういうことだ?」


『ズルくない』と言い返そうとしたが、口から出たのは別の問いだった。

 よりにもよって『図星』とは。

 前後の脈絡がないにも関わらず、どうにも引っかかるワードだった。

 今の自分は余人からはどのように見られているのだろう?

 以前は全く気にも留めなかったことだが、今はそうも言っていられない。


──『どうでもいい』は止めると決めたからな。


 裏垢暴露騒動の後で茉莉花と話した際、彼女に『どうでもいいは良くない』的なことを伝えた。

 傷ついていた彼女に大見栄切っておいて、自分は前と変わらずというのは彼氏として格好がつかない。

 

「え? だって立華たちばな先輩にフラれないように勉強するんですよね? ふつー付き合う前にやりません、そーゆーのって」


 キョトンとした顔で返されて、非常に居心地が悪くなった。

 完全に図星だった。

 なまじ雫の眼差しに邪気の類が見当たらない分、余計にダメージが大きい。


「……そう見えるか」


「それ以外にどう見えると思ってたんですか?」


 即答してくる雫の方が、むしろ戸惑い気味だった。

 居た堪れなくなってチラリと穂奈美に視線を向けると、こちらからも苦笑が返ってきた。

 どうやら彼女も同意見らしい。自分から聞いておいてアレな言い草だが、なんとも複雑が気分だ。


「立華さんと上手くいってないんですか?」


「いや、そう言うわけではないんだが……そもそも恋愛とか、付き合うとか、根本的にわからん」


「えっと……狩谷君は、これまでにそういう経験はなかった、と言うこと?」


 口籠もりつつも控え目に尋ねてくる穂奈美に無言で頷いた。

『ダメダメじゃないですか』などと失礼なことを呟く雫はスルーした。


「幼稚園の先生とか、近所のお姉さんとかに憧れたりとか?」


「なかったな」


「親戚とかテレビのアイドルとかは、どうですか?」


 勉は首を横に振った。

 どれもこれも全く記憶にない。


「重症ですね、これは」


 先ほどまで茶化す気配をみなぎらせていた雫が真顔で呟いた。

 猫っぽい輝きを宿す黒い瞳に、今は沈痛な感情が見え隠れしている。

 こういう時は小粋なジョークで返してくれないと立場がない。


「ま、まぁ……遅すぎると言うことはないと思いますよ。狩谷君がちゃんと考えてくれていると知ったら、立華さんもきっと喜んでくれるはずです」


「できれば立華には知られたくないんだが」


「……」「……」


 労うような笑顔を浮かべていた穂奈美が、頬を引き攣らせてしまった。

『これだから男は』と雫がため息をついている。

 あまりと言えばあまりな反応で、勉の精神を俄に不安が苛んでくる。


「そ、そんなに変か?」


「変です」


 雫が即答した。

 穂奈美は沈黙。

 放課後の図書館に、言葉にし難い空気が満ちた。

 ややあって──


「気持ちはわかります」


「わかるのか?」


「ええ、その……弟が、前にそんな感じでした」


 硬直から復帰した穂奈美が、ほうっと息を吐き出した。

 聞き捨てならない単語が混じっている。


「弟か」


「弟です」


──つまり俺は……弟レベルか。


 穂奈美の弟が高校生という話は聞いたことがなかった。ならば中学生か、あるいは……

 ふたりから向けられる生暖かい眼差しに耐えられなくなって、そっと視線を外した。

 不躾な態度をとっていたことに気づいた穂奈美が、こほんと軽く咳払いをひとつ。


「狩谷君が焦る気持ちは……わからなくもないです。立華さん、きれいになりましたからね」


「ですね。あの人、まだ変身を残していたとは……この私の目を以ってしても見破れなかったです」


 どちらも『無理もない』的なニュアンスで頷き合っている。

 焦っている点を指摘されてグッと怯みかけたが、踏みとどまった。

 ちょうどいい感じに話題が動いたので、前から聞きたいと思っていたことを口にした。


「萩原の目には立華がそういう風に見えているのか?」


 学園の元アイドル『立華 茉莉花』は、今や勉の恋人である。

 授業中に学校を飛び出した茉莉花を勉が追いかけ、翌日ふたりで手に手を取って教室に足を踏み入れた。

 あの日以来、勉も茉莉花も関係を特に隠してはいない。

 彼女を駅まで迎えに行くのも、手を繋いで登校するのも、もはや日常茶飯事である。

 

 自作自演で仕掛けたエロ自撮り裏垢暴露騒動以降、彼女を取り巻く空気は大きく変わった。

 本人は勉とふたりきりの時以外は強気な姿勢を崩さないが、周りがどのように見ているのかは気になっていた。

 男子である勉にとって、特に女子が何を考えているのかは想像の埒外であった。もともと人の心の機微に疎い点を差し引いても、だ。

 その辺りを聞きたくて尋ねてみたのだが……穂奈美の口から出てきたのは、少々ピントのズレた答えだった。


「ええ。『恋をすると女の子はきれいになる』って言いますけど……今の立華さん、本当に凄いです」


 真顔でそんなことを言われると、彼氏としてはどうにも面映い。

 眉間に力を入れて顔を引き締めつつ、わざとらしく眼鏡の位置を直した。

 

「立華さん、本当に素敵ですね」


 どこか遠くを見つめるような眼差し。

 感極まったような穂奈美の小さな吐息が、勉の耳を掠めた。

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