第58話 茉莉花の懸念


『私たち、付き合いを考え直した方がいいと思うの』


 確かに茉莉花まつりかはそう言った。断じてつとむの聞き間違いではない。

 言葉を耳にして、反芻して、意味を咀嚼して、頭の中が真っ白に吹っ飛んだ。

 男女の関係はおろか人の心の機微に疎い勉でも、すぐさま最悪な展開が脳裏によぎった。


──これから別れを切り出されるみたいじゃないか!?


 想像するだけで身震いがする。ふらつきかけて足元に目を落とした。

 足首を不吉な悪魔に掴まれて、奈落に引きずり込まれそうな錯覚すら覚えた。

 屋上にやってくるまでの浮かれた気持ちなんて、あっという間にどこかへ吹っ飛んでしまった。

 甘い夢から辛い現実への直滑降。人生ジェットコースター。落差が激しすぎて死ねそうだ。

 それでも……認めたくないという強烈な思いが湧き上がり、どうにかこうにか喉を震わせた。


立華たちばな……その、理由を聞いてもいいか?」


 衝撃から立ち直れないままに、とりも直さず彼女の真意を尋ねた。

 顔を上げて、正面から茉莉花の漆黒の瞳と向かい合って。


 ことが事だけに、些細な行き違いがあってはシャレにならない。

 彼女が口にした言葉は断じて聞き捨てならない。

『付き合いを考え直す』だなんて物騒極まりない。

 そもそも正式に彼氏彼女の関係になってまだ一週間も経っていないのに、いったい何を考え直すというのだろう。


「……」

 

 茉莉花は身体をもじもじさせたまま口を閉ざしており、視線はゆらゆらと定まらない。

 仄白く輝いている肌は朱に染まって、うっすらと汗をかいているように見える。

『立華 茉莉花』と言う少女は、ヒロイン然とした外面と、からかい上手な内面を併せ持っている。

 そんな彼女にしては意外な姿であったが、決してネガティブな雰囲気ではない。


——なんだ?


 今も大ボリュームを誇る胸の前で左右の手の指を絡め、テシテシとぶつけ合っている。

 見た目とは裏腹な幼さを感じさせるイメージ、日頃とのギャップがクソ可愛い。

 人前では立居振る舞いまでパーフェクトな彼女が、彼氏である自分の前でだけ見せる仕草。

 感無量だった。勉はシリアスな顔のまま心の中でガッツポーズを決めた。


──ではなくてだな……


 少しだけ心を落ち着かせて観察してみると、奇妙な違和感があった。

 口から放たれた爆弾発言と、彼女が纏っている空気がまるで一致していないのだ。

 色々と問いただしたくなるところをグッと我慢して、勉は茉莉花の言葉を待った。

 しばしの間、お互いに顔を見合わせたまま、無言。

 ややあって──桃色に艶めく唇が開かれた。


「えっとね、この前の金曜日のこと、覚えてる?」


「もちろん覚えている。立華をうちに泊めた日だ」


 梅雨と台風のタッグに日本列島が襲われたあの日、通学電車の路線が運休してしまって帰れなくなった茉莉花を家に泊めた。

 あれからまだほとんど日にちが経過していないことに驚きを覚える。この短期間に、ふたりの関係は良好な方向へ激変した。


「そう。あの日。私さぁ、狩谷かりや君に押し倒されたじゃない?」


「……その言い方には語弊がないか? どちらかと言うと俺が立華に誘惑されたような記憶があるんだが」


 あの日の茉莉花はどこかおかしかった。

 後々判明した事実を鑑みれば、彼女がしばしば情緒不安定に陥るのも無理はないと納得はできたのだが、当時は立華家の家庭事情など知らされていなかった。

 それなりの関係を構築していたとはいえ……同い年の男子、それもひとり暮らしの男子の家に泊まると言い出す時点で、彼女は勉の常識を大きく逸脱していた。

 シャワーの時も、食事の後も、非常識と言っていいレベルの言動が目立っていたように思う。

 挙げ句の果てには、勉の前で服を脱いでツイッターにアップするためのエロ自撮りを始める始末。

 勉だって健全な思春期の男子だ。目の前でそんなことをされて平静でいられるほど枯れ果ててはいない。

 揶揄に対する反駁と衝動的な欲求のままに茉莉花に迫り、押し倒し、そして……あと一歩のところで正気に返った。

 反省すべき点は多々あれど、どちらかと言うと茉莉花に非があると考えるのは、決して責任逃れの類ではないと思える。


「んもう、ばか! それはどうでもいいでしょ!」


 茉莉花は勉の答えに満足いかなかった模様。

 頬を大きく膨らませて威嚇してくる。教室では決して見せない表情のひとつだ。

 自分だけが目にすることができるそんな顔も可愛らしいと思うのは、惚気にすぎるだろうか。


「……まぁいい、それで?」


「えっとね、それで……あの時、狩谷君、その……我慢できなかったじゃない?」


「それは認める。義妹からの電話がなかったら止まらなかっただろうな」


「うん、私も止まらなかったと思う」


 即答されると、なんとも言い難いモヤモヤが胸中に膨れ上がる。

『お前が言うな』と反論できたら、どんなにスッキリするだろう。

 昔の自分なら即座に口にしていたはずだ。今は、もうできない。


「あっさり肯定されるのは心外だな」


「え? ああ、そうじゃなくって……私も止まらなかっただろうなって」


「む? あの時、立華は確か『ダメ』とか言ってなかったか?」


 話の流れとは正反対の反応が返ってきた。

 茉莉花が思い描いている展開が、いまいちよくわからない。

 彼女はいつもそんな感じだが、さっきの『考え直そう』発言がある。

 ひとつひとつの言葉に、どうにも過敏に反応してしまう。


「あ、あれは、その……そう『嫌よ嫌よも好きのうち』とか『口ではなんと言ってても身体の方は正直だな』とか、そっち系」


「……それはどっちもおれのセリフだ」


『立華 茉莉花』はエロい。見た目はパーフェクトなヒロインそのものなのだが、これは厳然たる事実だった。

 性的な興味について箍が外れた……もとい奔放な性格でなけれは、裏垢でエロ自撮りを投稿しようなんて考えたりしなかったはずだ。

 そして彼女がエロ自撮りの投稿をしなければ、自分たちが交際に至ることはなかった。縁が不思議すぎる。


「狩谷くん、女の子に幻想ゆめ見過ぎじゃない?」


 ウンザリした眼差しと呆れた声。

 内容も含めて、全くもって心外だった。


「なんでそうなる?」


「なんでって……あのね、女の子にだって性欲はありますから。それが普通ですから」


「そんなことを赤裸々に告白されて、俺にどうしろと」


「それでね、確認のために聞いておきたいんだけど……狩谷君、あの時ゴムって用意してた?」


 茉莉花は勉の問いを華麗にスルーした。

 これ以上突っ込んでくれるなと無言の声が聞こえた気がしたので、素直に口を噤む。

 話せば話すほどドツボにハマりそうな予感があったから。

 それに、今この場で言及すべき問題はそこではない。ゴムだ。

 ゴムといっても、輪ゴムのようなどこにでもあるものではない。

 茉莉花が言及しているのは、いわゆる避妊具のことに相違ない。

 いくら勉でも、それくらいはわかる。


「そんなものあるわけないだろう」


 ため息と共に答えた。

『狩谷 勉』16歳。

 つい先日まで年齢=彼女いない歴だった男だ。

 異性どころか同性の友人もほとんどいないし、自分の家に他人をあげたこともない。

 そんな男が自宅に避妊具を常備しているはずがないではないか。なんて残酷な問いだ。

 

「だよね。ちなみに私も準備してなかった」


「コンビニに寄った時に買っておけばよかったんじゃないのか?」


「あ、あの時はその、するつもりなんてなかったし」


 上擦った声で茉莉花が抗弁してくる。

 対する勉は眉を顰めた。

 別に責められているわけではないようだが……この会話の終着点が見えない。

 明朗快活を旨とする茉莉花にしては、ずいぶん迂遠な話ぶりだ。


「俺にも理解できるよう、要点をたのむ」


 このままではいつまで経っても核心に辿り着けそうにない。

 先程の発言以来ドキドキさせられっぱなしなのだ。

 喉はカラカラで、こめかみからは冷や汗が伝っている。

 心臓は爆発寸前でありながら停止寸前でもある。

 我慢の限界が来る前に、話の先を促すことにした。


「だから、その……私たち、そういうのがなくってもヤっちゃいそうだったじゃない?」


 グッと言葉に詰まった茉莉花は、一瞬の間を置いて一気に言い放った。

 漆黒の瞳は真正面から勉を捉えている。

 白い肌は耳元まで真っ赤。決して暑さのせいではない。


「それは……否定できない」


「いや、狩谷君めちゃくちゃヤる気だったでしょ」


「立華もな」


 反射的に言葉を返した。

 黙っていると一方的に悪者にされそうだった。


「はい、そーです。だって私ってえっちだもん。認めます。認めればいいんでしょ?」


「そこまでは言ってない」


「それでね……勢い任せにそーゆーことを続けてると、その、できちゃいそうじゃない?」


「何が?」


「赤ちゃん」


 何を言われたのか理解できなかった。

 声は確かに耳に届いたはずなのに。

 軽く首を傾げ、おもむろに眼鏡を外し、目元をマッサージ。

 眼鏡を元の位置に戻し、レンズ越しに茉莉花を見つめ直す。

 彼女は下腹部を押さえながら、上目遣いで勉を見返してくる。

 固唾を飲んで見守る中、妖艶さすら漂わせる唇が再び同じ単語を紡いだ。

 

「赤ちゃん。高校卒業する前に、できちゃいそうな気がするの」

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