第41話『立華 茉莉花』の言葉には力がある


「お義父とうさんとちゃんと話をした方がいいんじゃないかな?」


 茉莉花まつりかの言葉に、つとむは思わず目をしばたたかせた。

 隣に目をやると、漆黒の瞳は真剣な輝きを宿していた。

 やらかしで照れ隠し気味だった先ほどまでの雰囲気は、もはや微塵も残っていない。


「いや、これは俺がおかしいのであって、直接義父ちちに何か言うのは違うだろ?」


 咄嗟に否定の言葉が口をついた。

 義父と対話するという提案に素直に頷けなかったからだ。


「でも、狩谷かりや君は苦しんでるんでしょ?」


「……別に苦しんでなんかいない」


「ウソ」


 一方的な決めつけに反論したかった。

 でも、できなかった。

 茉莉花の提案には、おそらく何の根拠も理屈もない。

 しかし、その言葉には抗いがたい説得力があった。

 彼女が纏っているシリアスな空気がそう思わせるのかもしれない。


――クソッ……


 高校に入って始めたひとり暮らしは、決して楽なものではなかった。

 幼いころから家事をこなしていたおかげか、ひとつひとつの作業に違和感はなかった。

 そんな勉でも、毎日毎日朝から晩まで24時間、自分の面倒をすべて自分ひとりで見るのは心身ともに疲労が激しかった。

 病気になったときやら忘れ物をしたときなど、万が一とも言えない想定外のトラブルに見舞われる可能性にも神経を尖らせなければならない。

 困ったことがあっても傍に親がおらず、すぐさま頼ることができない状況は、子どもとしては厳しい環境だ。

『これまでとあまり変わらない』という当初の見通しがどれほど甘いものであったのか、この一年で散々に思い知らされた。

 それでも、何度となく義妹から家に顔を出すように言われても、帰ろうとは思わなかった。


 家に帰ることが、いつしか億劫になっていた。

 自分がいない方が家庭が上手く回っているという事実を突きつけられるのが辛い。

 心の中にモヤモヤと蟠る思いを吐き出せなくて苦しいし、吐き出したら吐き出したで家族関係にひびが入りそうで怖い。

 自分が疎まれるだけならまだマシだけど、こんな風に息子を育ててしまったなどと母が悪く思われることには耐えられない。


「今、ウチは上手くいってるんだ。波風は立てたくない」


 口から漏れた言葉は苦かった。

 喉を通るときに、言い知れない不快感が纏わりついてくる。

 実際に言葉にしてしまうと、本音でないことを自覚させられてしまう。

 茉莉花は、そんな勉を間近でじっと見ていた。わずかな表情の変化すら見逃すまいという意思を感じた。

 そして――キッと引き締められていた可愛らしい唇が開かれる。


「狩谷君に辛い役割を押し付けてる時点で、上手くいってるとは言わない」


 紡ぎ出された言葉は、すーっと勉の胸の中心に分け入ってきた。

 いつもの抗いがたい魅力を放つ茉莉花の声とは異なる、凛とした響きだった。

 素直に頷いてしまう力があった。その力の源に心当たりはなかった。

 彼女の持つカリスマ性のひと言では済ませられないナニカを感じた。


「困ってることがあるなら口に出して言う。言ってくれないとお義父さんもお母さんもわかんないじゃん」


 本当に大切な想いはちゃんと言葉にすべき。

 まぁ、家族だからこそ話したくないこともあるだろうけれど。

 そのあたりの線引きは常識的に考えればわかるよね?

 沈黙してしまった勉に、更に茉莉花は言葉を重ねてくる。


「……」


「ひとりで思い悩んだ挙句に取り返しのつかないことになったら、後でご家族が可愛そうだよ」


 勉が無理に我慢を重ねてきたことが発覚したら、義父や義妹は立場がない。

 母親だって自分を責めるだろう。『どうして気付いてやれなかったのか』と。

 本人が口を閉ざしていたのだから、気付けというのが土台無理な話なのだが。

 何のために人間には口がついているのか。会話するために決まっている。

 言葉が過ぎて喧嘩することになっても、仲直りすればいい。それが家族だ。

 家族というものは血のつながりで形成されるものではない。心のつながりで形作られていくものだ。


「……ああ」


「でしょ? お義父さんやお母さんのことをいい人だって思ってるのなら、なおさら相談した方がいいって」


 相手を信頼するって、そういうことだと思う。

 迷惑かけたっていい。遠慮する必要なんてない。

 だって勉は子どもで、相手は大人だ。付け加えるならば親子でもある。

 独りよがりに納得して距離を置くなんて、それが最良だなんて寂しいことを言わないで。


「だって……ちゃんと話せるんでしょ? ちゃんと話を聞いてくれるんでしょ?」


 茉莉花の悲痛な訴えが心に響くと、自然と目頭が熱くなった。

 眼鏡を外して頭を抱え、ソファに腰を下ろしたまま蹲った。

 目蓋を強く閉じた。気を抜くと眦から液体がこぼれ落ちそうになる。


「……そうだな、立華たちばなの言うとおりかもしれない」


 ここまではっきりと誰かに心情を吐露したことはなかった。

 家族には言えないのに、茉莉花には言えた。何故かはわからないが、別に構わない。

 茉莉花は――真剣に、真摯に勉のためを思って語り掛けてくれる。

 不興を買って雨中に放り出されるかもしれないという可能性を踏まえたうえで。

 その優しさと気高さが、覚悟が心に染みた。


 頭の後ろに暖かいものが触れた。茉莉花の掌だった。

 すべらかな白い手が勉の頭をゆっくりと撫でている。

 胸の奥にずっと燻っていた昏い感情が洗い流されていく。


「ごめんね、立ち入ったこと言っちゃって。でも、黙っていられなかったってゆーか」


 茉莉花の声は暖かい音色だった。

 勉は黙って彼女の掌を受け入れていた。

 柔らかくて、優しい手だった。恥ずかしいという思いはなかった。

 顔を下に向けたままだったから、表情を見られていないことは幸いだった。

 それでも、肩が震えるところまでは止めることができなかった。

 窓の外から雨音と風の音だけが聞こえてくる。

 どこまでも静かで、どこまでも穏やかな時間が流れていく。


「狩谷君ひとりを犠牲にした家族なんておかしいし……お義父さんもお母さんも、そんなこと望んでないと思う」


「そうだろうか?」


「おふたりとも、素敵な方たちなんでしょ?」


「ああ」


「だったら話してほしいんじゃないかな。ひとりで抱え込んで悩んでるよりも、そっちの方が絶対いい」


 勉は何度も何度も大きく息を吸って吐いて……そっと眦を拭ってから浮上した。

 テーブルに置かれていた眼鏡をかけ直した目は少し潤んでいたものの、先ほどまでとあまり変わらないように見えた。


「ありがとう、立華」


「ん」


「口に出せてよかった。言葉にできてよかった」


 隣にずっといてくれた茉莉花と向かい合った。

 相変わらず真剣な眼差しだった。月のない夜の海を思わせる静謐があった。

 見つめていると、吸い込まれそうな錯覚に囚われる。

 整い過ぎた顔が至近距離にあることに驚きはない。

 慣れたわけではないのだが、今は性的な欲求に追い立てられることはなかった。


「こら、そこで満足しない」


 ぽかりと握りこぶしが勉の胸を叩いた。

 まったく痛みはないが、衝撃は深く深く響いた。


「手厳しいな。でも、そうだな……今度帰ったら話してみるか」


「何なら今ここで電話すれば良くない?」


 茉莉花の提案は何気ない口振りであり、もっともな内容であった。

 だからと言って素直に受け入れられるかは、また別の問題であった。


「勘弁してくれ。まだ気持ちの整理がついていないし、こういうことは直に顔を合わせて話したい」


「そう? 勢い任せの方がいい気がするけど」


「むぐ……」


 茉莉花の瞳はキラキラと輝いている。さながら晴天の夜空のように。

 いつの間にかシリアスぶりはどこかへ消えて、今度はいたずらっ子のような眼差しを向けてくる。

 その光を受けて――勉は余計に電話する気が失せた。さすがに本人に面と向かっては言わないが。


「……まいっか。狩谷君が前向きになってくれたのなら」


 ん~っと茉莉花が大きく背筋を伸ばした。

 柔らかな胸のふくらみが大きく揺れる。

 下はともかく上は下着を付けていない。

 それはさっき確認した。だから揺れる。盛大に。

 見せつけるように。事実、勉の両眼は釘付けになった。

 色々と台無しな感じはするが、凝り固まっていた緊張が解されていくのは悪いことではない……と言うことにしておく。


「立華は、その、大きいな」


 とても同い年とは思えない。人としての器が違う。

 カリスマとして多くの生徒たちに頼られるだけのことはある。

 脱帽せざるを得ない。心の底から感嘆せざるを得ない。


「そういうことは胸見て言わない方がいいと思うよ。ん~、でも……うん、凄く狩谷君らしい」


 元気になったね。

 茉莉花はクスリと笑った。魅力的で蠱惑的な笑みだった。

 勝てる気がしないなと、勉は内心で白旗を挙げた。

 何に勝つのかはわからないが、とにかく茉莉花には勝てない。

 圧倒的なまでの敗北を感じても、不思議と胸中は晴れやかだった。

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