第42話 ふたりきりの夜
雨の中をふたりで歩いて、家に入れて風呂に入って。
夕食を食べたら
普段は煩わしく感じていた義妹からの電話に助けられて。
実家から距離を取っている心の内を茉莉花に吐露して発破をかけられて。
――色々あったもんだ。
ソファの背もたれに身体を預けて思い返してみれば、学校を出てから半日も経っていない。
にもかかわらず、これだけ情緒のアップダウンを繰り返してしまうと、精神的に疲労感がヤバい。
「
隣に腰を下ろしていた茉莉花がすっと立ち上がって、テーブルの上に置かれていたからのコップを掴んでいた。
ワイシャツの裾から伸びる肉付きのいい白い脚に見惚れながら『頼む』とだけ口にした。
「了解」
一言いい置いてキッチンに向かう学園のアイドルの姿は、妙に馴染んで見えた。
彼女に限らず異性をこの家に招いたことは一度もないし、異性以前に同性すら呼んだことはない。
自分以外の人間がここにいることは異常事態以外の何物でもないはずなのに、違和感はまるでなかった。
茉莉花の方もすっかり慣れた風に冷蔵庫を開けて麦茶を取り出してコップに注ぎ、再びリビングに戻ってくる。
下着を付けていない胸元が歩みに合わせて上下に揺れる。眼福すぎてたまらなかった。
「ねぇ、いつもの狩谷君ってこれくらいの時間は何してるの?」
「ん?」
時計を見ると9時近く。
義妹との電話や茉莉花とのトークのおかげで、意外と時間が経過している。
「そうだな。この時間帯はだいたい勉強している頃合いだ」
「うわ、真面目か」
「他に何かすることがあるか?」
「え~、テレビ見たり友だちと話したり?」
「どちらもほとんど縁がないな」
「う~ん、そう言うところが狩谷君」
「どういう意味だ?」
「言わなきゃダメ?」
「……いや、別にいい」
コップに口をつけると、冷たい麦茶が流れ込む。
話し込んでいたせいか、やたらと喉が渇いていた。
作り置きの麦茶がいつもよりもずっと美味い。
茉莉花はソファではなく床に腰を下ろしている。
ペタンとお尻をついた姿が、やけに艶めかしい。
「ひとり暮らしって大変?」
「藪から棒にどうした?」
いきなり茉莉花に尋ねられて面食らう。
ここまでの話の流れとまるで関係がない。
「私だって高校生だし、ひとり暮らしに興味があってもおかしくなくない?」
「……そういうものか」
「そういうものです。それで、どう?」
興味津々といった体で尋ねてくる。
今日は散々世話になったところであるし、別に隠すようなことでもない。
「まぁ、大変といえば大変だ。何から何まで自分でやらなきゃならんし、後回しにすると仕事が溜まる一方になる」
学校の勉強があって、アルバイトがあって。
それに加えて家事をこなすのは容易ではない。
体調を崩したりすると、一気に状況が悪化する。
誰かの助けを期待できない点も難易度を引き上げている。
「ふ~ん。ね、私でもできると思う?」
「どうだろうな……」
腕を組んで考えてみる。
茉莉花は頭脳明晰・容姿端麗・運動神経抜群の完璧少女。
それが学校における一般的なイメージだ。
しかし、その長所はいずれもひとり暮らしにはあまり役に立たない。
炊事や洗濯、掃除などなど、家事を普段からできているのなら問題はないと思うのだが……
「
「……ほとんどトメさん、えっとハウスキーパーさんに任せてる」
「ハウスキーパー? 今度は俺の方が突っ込んだことを聞くが、立華の家は裕福なのか?」
普通の家庭ではハウスキーパーを雇うだなんて話は聞かない。
義父や義妹は上流家庭といっても差支えない暮らしをしていたそうだが、そんなことはひと言も口にしていなかった。
となると……立華家は相当にランクの高いご家庭ということになるのだが。
茉莉花にまつわる話題で、実家がどうこうという話は聞いた覚えがなかった。
「え……まぁ、お金持ちな方じゃないかな」
何とも歯切れの悪い口振りだった。
視線も宙に彷徨わせている。
いずれも彼女らしくない仕草だ。
――あまり触れてほしくない部分なのか。
プライバシーにかかわる話題なんてそうそう人にするものではない。
だから、特に追及しようとは思わなかった。
「何とかなるんじゃないか」
「そう?」
「俺が何とかできているんだから、立華に出来ないことはないと思う」
「狩谷君が基準になってるところが、そこはかとなく不安なんですが」
「だったら俺に聞くな」
「それもそうね……ふぁ」
ふふっと茉莉花は微笑み、ついで小さなあくびをひとつ。
まだ寝るには早い時間帯に思えたけれど、雨中の行軍ののちシリアストーク。
付け加えれば、同年代の男の部屋にいるというだけで気疲れしそうなものだ。
茉莉花だって年頃の少女なのだ。体力・気力共に消耗していてもおかしくはない。
勉もまた微妙に倦怠感を覚えている。知らず知らずのうちに疲労が蓄積していたらしい。
「早いけど、そろそろ寝るか」
「ん……もうちょっとお話していたいかも」
「話はいつでもできるだろう?」
スマートフォンを掲げて見せると、少しだけ頬を膨らませた茉莉花は、もう一度あくびをして渋々頷いた。
「それじゃ……あ」
軽く腰を上げかけて、変な声が出た。
ここにきて、考えてもみなかった問題に思い当たってしまった。
「どうしたの、狩谷君?」
「……布団がない」
「え?」
茉莉花がコテリと首をかしげている。
勉はもともとこの部屋に誰かを呼ぶつもりなんてなかった。
だから来客用の布団なんて用意していない。
ベッドは勉の部屋にひとつだけ。
他に寝られそうな場所と言えば……今まで座っていたリビングのソファぐらいしか見当たらない。
「俺がソファで寝るから、立華はベッドを使ってくれ」
「何でそうなるの。私がお邪魔してるんだから狩谷君はベッドで寝なさい」
「この状況で女子をソファで寝かせられるか!」
「む~」
穏やかだった雰囲気が一変し、ふたりして睨み合う。
勉は己の意見を譲るつもりはない。客人、それも女子なのだ。粗雑には扱えない。
茉莉花もそのあたりは察したようで、僅かな抵抗の後に不承不承ではあったが折れてくれた。
「ちなみに一緒に寝るというのは」
「いいのか? 何をするかわからんぞ?」
「ごめん、妊娠しそうだからなしで」
「……いや、やらないからな、多分」
「そこは言い切ってほしかった」
ジト目で睨み付けられると、理不尽な思いで胸がいっぱいになる。
魅力的な肢体を薄いワイシャツ(とパンツ)だけで隠した同い年の美少女と同じベッドで寝る。
これで何もせずに我慢していられると断言できるほど、勉は自分に自信が持てなかった。
――俺は別におかしくない。この状況で大人しくしていられる男がいるかよ……
ボヤキは心の中で留めておく。
あまりこの手の猥談を他の男子としたことがないから、『ひょっとして』と言う疑問が拭いきれなかった。
「じゃあ、申し訳ないけどベッド借りるね」
「気にするな。あと、鍵もかけてくれ」
「ねぇ、ホントに大丈夫? 朝起きたら私の処女がなくなってるとか、そういう展開になったりしない?」
「そうならないために鍵をかけろと言っているんだが!」
「……わざと鍵を開けておいたらどうなるかな?」
「保証はできない」
「ハッキリ言う……鍵かけるね」
「そうしてくれ」
後ずさりしながら勉の部屋に茉莉花が足を踏み入れた。
程なくして扉が閉まり、鍵がかかる音がする。
安心したような残念なような複雑な気分にため息ひとつ。
――寝るか。
リビングの電気を消して、テーブルに眼鏡を置いた。
ソファに横になって目を閉じる。
「立華、処女なんだな」
その呟きは小声であるにもかかわらず、やけに大きく響いた。
咄嗟に勉は自室のドアを見てしまった。茉莉花に聞かれていたら色々とヤバい。
何の反応もなかったので、ホッとした。再びソファに身を預ける。
これまでに何人も彼氏を取っ換え引っ換えしてきた茉莉花の交際遍歴を思えば、意外な気がした。
でも、そう考えること自体が彼女に対する侮辱にも思える。
雨と風の音が響く闇の中、目を閉じれば目蓋の裏に茉莉花の裸体が浮かび上がる。
そのすべてを目にしたわけではないが、かなりの領域が目に焼き付いていた。
柔らかそうな肢体。すべらかな肌。かぐわしい香りと体温。五感フル活用で再生は容易だった。
肢体をくねらせる茉莉花の幻影と、蕩けるような甘やかな声の記憶が勉の理性を苛んでくる。
身体が自然と火照り、高い湿度と相まって寝苦しいことこの上ない。
――立華は、ちゃんと寝られているのだろうか?
自室のベッドに横たわっているであろう少女を思うと、怪しい気持ちが加速する。
耳を澄ませても、勉の部屋から物音は聞こえてこない。きっと眠っているのだろう。
どのみち鍵が掛けられているのだから、確かめようはない。頭を振って不埒な妄想を追い払う。
それでも、勉だって健全な高校生男子だ。一度火がついた情欲は早々消えてなくならない。
壁一枚隔てた向こうに茉莉花がいると思うと、処理することもままならない。
悶々とした思いを抱えながらも時は過ぎゆき、いつしか意識は闇に溶けていってくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます