第40話『狩谷 勉』は途方に暮れている


 物心ついたころには、すでに父はいなかった。

 

『なぜ我が家には父親がいないのか?』


 子ども心にそんな疑問を抱くのは当然のことで、特に深く考えることもなく母に尋ねた。

 つとむの疑問に母は眦の端に涙を浮かべながら『仕事の最中に亡くなった』と答えてくれた。

 彼女はその点について嘘や誤魔化しで自分の息子をはぐらかそうとはしなかった。

 代わりにたくさんの写真や動画を見せてくれた。

 そこには在りし日の仲睦まじい父と母の姿があった。



 ☆



「お父さんを覚えていないって……寂しくなかったの?」


 茉莉花まつりかの問いに、勉は首を横に振った。


「寂しいという気持ちはなかったな。元からいないと存外気にならないものだ」


 我ながら薄情だとは思うものの、予想されたこの問いに自嘲混じりの笑みを浮かべざるを得ない。

 母は真実を語ると同時に、息子の心を慮ってたくさんの『父の記録』を見せてくれた。

 しかし……彼女の努力とは裏腹に、当の息子の心にはまるで刺さっていなかった。

 人の心の機微に疎い勉でも母の気遣いを感じ取ることはできたから、本音を口にすることはなかった。


「写真も動画もたくさん見せられたが……正直そこに写っている男性が自分の父親だと言われてもピンとこなかったな」


「……」


狩谷 勉かりや つとむ』の中には明確な『父親』のイメージが存在しない。

 そう続けると、茉莉花は眉を寄せて複雑な表情を浮かべた。



 ☆



 父親不在の母子家庭で育った。

 決して暮らし向きは良くはなかった。

 端的に言えば、やや貧しかった。


 母は朝早くから夜遅くまで働いていた。

 年若い女ひとりで子どもを一人前に育てなければならないのだ。その労苦は想像を絶する。

 あとから考えれば、なぜ実家を頼らなかったのかという疑問が湧いたが、当時の勉はそこまで考えが及ばなかった。


 家にひとり残された勉は、子どもらしく寂しさを感じることもあった。

 父を覚えていないことよりも、母が傍にいてくれないことが寂しかった。

 同時に、自分のために頑張ってくれている母を助けたいという気持ちがムクムクと沸き上がってきた。

 できることは何でもやった。洗濯や掃除など家事は率先して行った。

 母の許可を得て簡単な料理も作るようになった。

 ひたむきに何かをしている間は寂しさを忘れることができたし、疲労困憊で帰ってくる母が浮かべる笑顔を思えば……多少の苦労なんて、どうということはなかった。


 それでも年端もいかない子どもにできることは限られている。

 身を粉にして働いている母に報いる方法はないか、ずっと考えていた。

 まだ若いうちから才能を発揮してプロの世界に足を踏み入れ、大金を稼いでいる者がいることを知った。

『これだ』と思った。将棋・囲碁・スポーツ・芸能……なんでもよかった。

 自分にも何かひとつでも才能があれば、母の負担を減らすことができる。

 ままならない環境の中で、できる限り試してみた。

 結果としてわかったのは、自分には何の才能もないという事実だった。


 嘆いている暇なんてなかった。

 無能な自分にできることは何かないだろうか?

 どれだけ悩んでも答えが見つからなかった。

 結局、勉強することにした。きっかけは覚えていない。

 たくさん勉強して、いい学校に行って、いい会社に入って。

 そしてたくさん給料をもらって母に楽をさせてやる。

 それが勉の目指す未来となった。



 ☆



「それでずっと勉強頑張ってたんだ」


「前にも言ったが、他にできることもなかったからな」


「いやいや、狩谷君は色々やりすぎだと思うよ」


「そうか?」


「ええ。家に帰ってきたら息子が家事をしてくれてるだけでも十分だし。きっとお母さん大喜びだったんじゃないかな」



 ☆



 ずっと母ひとり子ひとりで過ごしてきた。

 順風満帆とは言い難かったが、さりとて神様や運命に文句を言うほどでもない。

 そんな勉の人生に大きく想定外の方向へ舵を切るイベントが発生した。

 本人の意思とは何の関係もない理由で。前兆らしきものはなかった。

 中学2年生になって、神妙な顔をした母から唐突に告げられたのだ。


『お母さん、再婚しようと思ってるの』


 再婚という言葉の意味は知っていた。

 夫を失って久しい母が、新しい男性と夫婦になるということだ。

 母の口ぶりは何とも申し訳なさそうなものだったが、実際のところ彼女が何故そんな顔をしているのか、わからなかった。

 再婚の是非を問われたが『否』と口にする気はなかった。

 母がひとり身になって10年以上の月日が経過していた。亡父に操を立てるにしても十分すぎるし、自分を含め誰かに遠慮する必要はないと思った。

 そして母は再婚し、新しい家族ができた。ひとつ年下の妹の存在には驚かされたが……何はともあれ、こうして『狩谷 勉』の新しい生活が始まった。



 ★



「新しいお義父とうさんが嫌な人だったとか?」


 茉莉花の問いに勉は首を横に振った。


「まさか。いい人だよ。穏やかで優しくて、それでも叱るべき時はちゃんと叱ってくれる。人間としての度量が大きいというか、そういう人だ」


「だったら、何でそんな顔してるの?」


「そんな顔?」


「ええ、凄く渋い顔になってる」


 言われて眼鏡を外し、右手で顔を覆う。

 確かに、表情筋が強張っている感じがした。


「いいお義父さんができて、義妹いもうとさんができて。でも、めでたしめでたしって話じゃないよね。狩谷君は何か我慢してるみたい」


 痛いところを突かれたと思った。やはり茉莉花は鋭い。一筋縄ではいかない相手だ。

 まぁ、至近距離で顔を見られていたから、誤魔化しようはなかったかもしれない。


「いい義父ちちだと思う。人間的にできた人で……そして財力に恵まれた人でもあった」


 ため息とともに、胸中に蟠っていたものを吐き出した。

 つくづく人の縁とは不思議なものと思い知らされる。

 あの義父と母がどのように知り合って結ばれたのか。

 一応説明はされたけれど、まったく理解できていない。


 義妹もできた人間だと思う。とても年下とは思えない。

 彼女だって父の再婚に戸惑いや不満もあるだろう。

 それでも彼女は積極的に新しい義母との関係を構築しようとしていた。

 表には出さないものの、義妹の社交性や精神的なタフネスぶりは密かに尊敬している。

 ……まぁ、何かにつけて口うるさい点は置いておくとして。


 義父と母と義妹と。

 新しい家族による新しい生活は、輝かしい未来へ向かっていく予感がした。

 勉を除いて。


「目指していた夢が失われた。誰が悪いわけでもないから、愚痴を言うこともできない」


 母を幸せにすることが人生の目的だった。

 それは自分の役割だと思っていた。

 でも――現実には勉がやらなくとも何の問題もなかった。

 勉が大人になるまでには時間がかかるし、なったところで母を幸せにできる保証もない。

 再婚相手を見つけて自力で幸せを掴んだ母は凄いと誇るべきなのだ。

 でも、それができなかった。心の奥にモヤモヤした感情が渦巻いていた。

 誰が悪いのか? 何が悪いのか?

 あえて言うならば、小さなことにグダグダと拘っている勉が悪い。

 他人に指摘されるまでもなく、自分自身でよくわかっている。


「そしてお袋に言われた。『無理しなくていい。これからは自由に将来を考えてほしい』とな」


 無理をしていると思われていたことがショックだったし、そんなことを今さら言われても困る。

 咄嗟に自分は好きなように生きていると強がって見せたものの、上手く表情や声を作れていたかはわからない。

 一事が万事そんな有様だったから、勉だけが新しい狩谷家に馴染めなかった。

 義父のことを認めつつも、鬱屈した感情を払しょくできなかった。

 だから、高校進学を機に家を出ることにした。

 義父もまた勉の胸の内を見抜いていたのかもしれない。

 血の繋がらない年頃の男女がひとつ屋根の下に暮らす不安云々を理由に、快く勉のためにこのマンションを用意してくれた。

 ここでもまた義父の世話にならなければならないのかと忸怩たる思いを抱きながらも、ひとり暮らしを始めてみれば、ネガティブな感情が少し軽くなったことも事実だった。


「まぁ、俺の事情なんてこんなものだ」


 高校に入ってからも進むべき道筋が見えなかった。

 幼いころからの流れで勉強を続けて、大学進学を目標に据えてはいる。

 その一方で勉強以外にもアルバイトを始めている。資金的には問題ないのに。

 たまたま食べた料理が美味かったというのは理由のひとつではあるが、これまでとは違うことを始めてみたかったという理由の方が大きい。


「バイトする理由はそれだけ?」


 茉莉花の問いが勉の心の深いところに突き刺さった。

 彼女の漆黒の瞳からは逃げられそうにない。

 勉に散財する傾向はない。室内を見回した茉莉花も気づいている。

 再婚によって家計の問題も解決している。

 大学進学にしたって、別に金銭的な障害はない。

 にもかかわらずアルバイトをしている。解せない。

 茉莉花の桃色の唇から、そんな風に言葉が続いた。


「……高校を卒業したら、ここの家賃を義父に返そうと思っている」


「それは、やらない方がいいと思うけど」


「そういうものか?」


「そういうものです」


 厚意を素直に受け取るのも度量のひとつ。

 相手は親らしいことをしたがっているのだから、勉は子どもらしくしていればいい。

 余計な気遣いは却って家庭内の不和を生む。と言うよりも、それは喧嘩を売っているようなものだ。

 茉莉花の解説は筋が通っていて、勉は自分の反抗がいかに幼稚であるか思い知らされた。

 誰にも相談したことがなかったから、傍からどう見えているのか意識できていなかった。


――話してみてよかったな……


「教師やほかの生徒に対して厳しく見えているのも、八つ当たりみたいなものかもしれん」


 茉莉花とこんな関係になったきっかけである生徒指導教諭とのバチバチも、そのひとつだ。

 母が再婚するまでは、もっと我慢強かったような記憶がある。

 最近は癇に障ることがあると食ってかかることが多くなった。

 素直な感情が出せるようになったと言えば聞こえが良いが……それを成長と呼んでいいかは迷うところだ。


「ねぇ狩谷君」


 黙って聞き手に回っていた茉莉花が、ゆっくりと口を開いた。

 静かで落ち着いた、それでいて悲痛な声が勉の耳朶を打った。


「お義父さんとちゃんと話をした方がいいんじゃないかな?」

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