第39話 スマートフォンの彼方には
遠くから雨と風の音が聞こえてくる。手に持ったスマートフォンが震えている。
無機質なディスプレイには
着信はずいぶん長く続いているが、一向に諦める様子がない。
何が何でも通話するという強い意志を感じて、ため息ひとつ。
『もしもし、
「俺だが……どうかしたのか?」
スマホから聞こえるのは、やはり聞き飽きたもとい聞き慣れた義妹の声だった。
『ああよかった。全然出ないから何かあったのかと思いました』
「大袈裟だな」
苦笑を浮かべながらソファに腰を下ろし、そっと中指で眼鏡のフレームを押し上げる。
レンズの向こうには、
腰まで届く艶やかな黒髪は、少し乱れたまま。
ワイシャツの前を抑えて、きょとんとした表情を浮かべている。
彼女の頬はまだ真っ赤に染まっている。勉も顔の熱が引いていない。
『その……今日はこんな天気でしょう? 心配するのはそんなにおかしいですか?』
「おかしくはないだろうな。ただ仰々しいってだけだ」
『もう!』
口では適当なことを言いながら、内心では逆ではないかという気がした。
差別的な思想を持っているわけではないが、こういう時は男が女を心配するべきではないのか、と。
……まぁ、勉はつい今しがたまで義妹のことなど完全に忘れていたわけだが。
『あの、義兄さん?』
「どうした?」
『その……なんだか息が荒いようなのですが』
「そ、そうか!?」
ギクリとさせられる。確かに呼吸は正常に戻ってはいない。
先ほどまでの茉莉花との異常接近の余韻がまだ残っている。
取り落としそうになったスマホを右手で握りしめ、左手で胸を強く押さえる。
バクバクと心臓の鼓動が感じられた。指摘されると余計にドキドキする。
『ひょっとして、風邪を召されているとか?』
「いや、そういうことはないと思うが……」
『傘は持って行かれているのですよね?』
「ああ」
『濡れた服を着たままということはありませんよね?』
「ちゃんと着替えた」
『お風呂には入られましたか?』
「はいった」
これは嘘である。シャワーを浴びただけだ。
それも茉莉花の残り香にあてられて適当に済ませてしまった。
身体の芯から暖まったかと問われれば首を横に振るしかない。
いずれにせよ、電話の向こうにいる義妹には顔が見えないから、誤魔化してもバレはしない。
「そっちこそどうなんだ?」
『私ですか? こちらはいつものとおりです』
「……だったらいいが、こんな天気だ。電車も止まってるから無茶するなよ」
『そんなこと言われるまでもありません。義兄さんこそ、こんな日もアルバイトに行こうとされてるのではないかと気になりまして』
割と図星だった。
店長に何も言われなければ、今日も普通にアルバイトに顔を出していたはずだ。
移動範囲は徒歩圏内だから大きな問題にはならないだろうが、疲労困憊&全身ずぶ濡れのコンボは体調不良一直線の予感がある。
にもかかわらず、勉はそんな自分の未来をありありと想像することができた。『なるほど心配するわけだ』と頷かされてしまう。
『だいたい義兄さんは……』
ひとり納得する勉をよそに、義妹の小言は延々と続いた。
・
・
・
『聞いていますか、義兄さん?』
「聞いているが、そろそろ切っていいか? こっちはまだやることが残ってるんだ」
『あ、すみません。もうこんな時間! では、また連絡しますね』
「……別にしなくていいぞ」
『もう!』
義妹は少し怒りを載せた声を最後に通話を切ってくれた。
最後につけ足したひと言が余計だったかもしれないと、スマホを見つめてため息をつく。
機嫌の悪いときなら、あそこからもう一回火がついてクドクドと続く流れだった。
「ふぅ……」
スマートフォンをソファに投げ捨てる。
義妹との通話は思いのほか長くなり、全身に疲労感を覚える。
良いこともあった。時間を置いたせいか、落ち着きを取り戻すことができていた。
「はい」
コトリとテーブルにコップが置かれた。なみなみと麦茶が注がれている。茉莉花が入れてくれたものだ。
軽く頭を上げると、彼女自身も立ったまま自分用に入れた麦茶を口に運んでいる。
勉が義妹と通話している最中に、彼女はワイシャツのボタンをきっちり留めていた。
相変わらず下には何も履いておらず、ほんのりと色づいた白い脚は大胆に晒されたまま。
それだけでも十分に目の保養……ではなく目の毒なのだが、知ってか知らずか隠そうとはしなかった。
いや、聡明な茉莉花が勉の視線に気づいていないはずはない。意図は掴めないが、意地になっているだけのような気がする。
通話していた勉の様子を興味深げに窺っていた茉莉花だが、長すぎたせいか途中で飽きようで、すっと立ち上がって台所に向かっていった。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、洗ったばかりのコップに注いで氷を放り込むと、カランと涼しげな音が室内に響いた。
スマホ越しに義妹と対話しながら、勉はその一部始終を見ていた。通話中だったから止めようもなかった。
止める理由はなかったし、別に問題もなかったから、一向にかまわないのだが。
さっきのことがあって身体は火照っていたし、そうでなくとも梅雨の季節だけあって蒸し暑い。
喉が渇いたとしても無理はない。勉も喉はカラカラだった。
「今の電話、誰から?」
勉の隣に腰を下ろした茉莉花が尋ねてくる。
電話直前の狂おしいほどの熱は引いているものの、彼女の体温を隣に感じるとどうにも居心地が悪い。
だからと言ってわざとらしく距離を開けるのも情けなく思える。麦茶で喉を潤しながら、その場で踏ん張った。
「義妹からだ」
「妹さん?
茉莉花の整い過ぎた顔には、純粋な驚きが広がっている。
「俺に義妹がいたらそんなにおかしいか?」
「ううん、おかしくはないけど……何だろう、何か引っかかるの」
コップに口を突けながら、茉莉花はしきりに首をかしげている。
「さっき、料理は子どものころからやってるって言ってたよね?」
「ああ」
「妹さんは手伝ってくれなかったの?」
「ん?」
今度は勉が首をかしげる番だった。
子どもの頃に義妹なんているはずがない。
どうにも話が噛み合わない。
ふたりの認識に食い違いがあるようだと気づかされた。
眼鏡の位置を直し、顎に手を当てて考えること暫し、
「ああ、そういうことか。
「勘違い?」
「そうだ。『いもうと』といっても血は繋がっていない。義理の妹だぞ」
「義理の妹?」
「そうだ。俺が中学2年の時にお袋が再婚したんだ」
義妹は義父の連れ子だった。
勉が母の連れ子だったとも言う。
「ウチは物心ついたころからずっと母子家庭でな。家のことはほとんど俺がやっていたんだ」
「ああ、それで」
茉莉花は『マズいことを聞いたかな?』と表情で語りながら頷いた。
同時に納得もしたようだった。
そんな彼女を心配させたくなくて、勉は言葉を続けた。
「別に気にすることでもない」
「そう……なの? えっと、もうちょっと突っ込んだこと聞いてもいい?」
ワザとらしく事もなさげに語ってみせたら、茉莉花が食い付いてきた。
興味を隠すことができていない茉莉花の瞳は、キラキラと輝いている。
どこがツボだったのかは判然としないが……『まぁ、構うまい』と苦笑した。
「どうぞ」
「あ、いや、その……狩谷君って、ご家族と上手くいってないのかなって」
茉莉花らしくないおずおずとした態度から出てきたのは、意外な言葉だった。
『何だか距離を感じた』と付け加えてきたものだから、奇妙な違和感に囚われてしまった。
疑問自体はそこまで不思議なものではないし、決して不快というわけではないのだが……
――なんだ、この感覚は?
口が動かなくなった。
憐れまれているわけではない。そういう顔は幼いころから何度も見てきた。
同情されているわけでもない。もちろん馬鹿にされているわけでもない。
――期待、か?
根拠はないが、そんな気がした。おそらく、それほど的を外してはいない。
勉の成績を喜ばしげに語る母や義父、教師たちから向けられる意思に近いと思えた。
でも、勉が元母子家庭で両親が再婚したというエピソードに、茉莉花はいったい何を期待しているのだろう?
手の中のコップに冷たさを感じた。揺れる茶色の水面をじっと見つめて、答えるべき言葉を探す。
「……そうだな、上手くいってはいないと思う」
仲が悪いわけじゃないんだがな。
自嘲気味にそう続けると、隣からハッと息を呑む音が聞こえた。
しかし、止められることはなかった。むしろ茉莉花は一層前のめり気味になっている。
肩口からサラサラと黒髪が流れ、ボタンが外されている襟口から覗く鎖骨と谷間が生々しい。
桃色の唇は引き締められたままだが、茉莉花は話を聞きたがっているように見える。
――話しても……別に良いか。
これまで誰にも話したことはなかった。
ずっと胸の内に秘めておこうかとも思った。
でも、誰かに聞いてほしいとも思っていた。
茉莉花が相手なら話してもいいと思った。
理由は、自分でもよくわかっていない。
「まぁ、その……な」
ザァザァと騒めく風雨の音に紛れて、ポツリポツリと、勉の口から今まで胸の奥に封じていた言葉が漏れ始めた。
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