第38話 限界の果てに


 決死の覚悟で目蓋を開けた。

 暗闇から解放されたつとむの目の前は白かった。

 さながら誰も足跡を付けていない新雪を思わせる白。

 シミひとつないすべらかな肌と――飾り気のなさすぎる純白の下着。

 つい先日友人になったばかりの学園のアイドル『立華 茉莉花たちばな まつりか』が、お腹と下着を見せつけている。

 勉の部屋で。ふたりきりで。お互いの息遣いすら感じられる距離で。

 その事実に意識が遠のきかける。あらゆる情動が漂白されていく。


「ざ~んね~んでした! 期待した? ねぇ、期待した?」


 眼前の光景に目を灼かれた勉の頭上から、茉莉花が囃し立ててくる。

 見上げると『イタズラ成功』と言わんばかりのキラキラした漆黒の瞳があった。

 彼女の顔には満面の笑顔が浮かんでいる。心の底から楽しそうだ。


「あ……いや、その……」


 対する勉には、ずり落ちた眼鏡の位置を直す余裕すらなくて、舌も上手く回らない。

 想像していたものとは異なるとはいえ、これはこれで衝撃的なヴィジョンだ。

 いずれにせよ、茉莉花のテンションにはついていけない。


「『何で下着履いてるんだ』って思ったでしょ?」


「まぁ、それは、そうだな……」


 それは素直に疑問だった。

 全身濡れ鼠の茉莉花と一緒に帰ってきた。

 勉の下着は沁み込んできた雨水でグショグショだった。

 ならば茉莉花だって同じ状況のはずだ。


――まさか、学校に替えを持って行っているのか?


 そんな考えが頭に浮かんだが、すぐにかき消した。

 目の前の少女は傘を忘れてきたのだ。

 傘を忘れたかわりに替えの下着を持ってくるJKは、さすがにいないと思う。

 常備しているという可能性もなくはない……のだろうか? いや、多分ない。


「ここに来る途中にコンビニに寄ったでしょ。あそこで買ったの」


「ああ、そうなのか」


「私が何を買ったと思ってたのかな、狩谷かりや君?」


「何って……」


 混乱のるつぼに叩き込まれた勉の思考はまともに仕事をしない。

 脳内サボタージュ続行のまま、おかしなシミュレーションだけが淡々と進む。

 男と女がふたりきりのシチュエーションとコンビニでの買い物。

 このふたつの点を線で結ぶとするならば、その答えは……ひとつしかない。


「待て、違うぞ。そんなことは考えていない!」


「そんなことってどんなこと?」


 慌てて疑惑を打ち消そうとするも、さらに追撃が続く。


――コイツ絶対にわかって言ってるだろ!?


 腹立たしさで胸がいっぱいになるも、そんな無念はあっという間に霧散する。

 それほどに――『立華 茉莉花』は絶景に過ぎた。

 明かりに照らされて透け気味の白いワイシャツと微かに色づいた白い肌。

 南半球どころか角度によっては北半球まで見えるアングル。

 先端部分が絶妙に隠されているのが残念なような、ホッとするような。

 頭の中はとっ散らかったままだが、しっかり目に焼き付けた。一生忘れない。

 重力の影響を受けて撓む胸のさらに向こう、漆黒の瞳と視線がかち合った。

 勉の全身が妙な昂りに飲み込まれる。でも、目を逸らそうとは思わなかった。


「……」


「……」


 しばしふたりで見つめ合い――茉莉花の頬が燃えた。

 慌てて前を隠して距離を取ろうとして、足をもつれさせて後ろに転んだ。

 お尻が丸見え。ラッキースケベどころか完全な自爆だった。


「いたた……ちょ、ちょっと待って。やっぱ今のなしで」


――やっと正気に戻ったか。


 痛みで涙目の茉莉花から、ようやく制止の声がかかった。

 安堵を覚える自分のチキンぶりに悲しみを覚える勉だった。


「こんなダサい下着見せつけるとか、私、バカみたいじゃん」


「違う、そうじゃない」


 ダサかろうがダサくなかろうが、男に下着を見せつける時点でおかしい。

 彼女の羞恥心がどこを向いているのか、さっぱりわからない。


「勘違いしないように言っておくけど」


「……ああ」


「ちゃんとセクシーな下着も持ってるからね」


「……それ、どう答えればいいんだ?」


「……」


「……」


「えっと、見たい?」


「いい加減にしろッ!」


 我慢の限界だった。

 決して茉莉花を怖がらせたいわけではなかったのだが、冷静さを失ったあまり思わず声を荒げてしまった。

 勢い良く立ち上がって曇ったレンズ越しに睨み付けると、羞恥心に(今さら)頬を赤らめた少女は、ギョッとした風に目を見開いている。

 常ならぬ勉の様子に驚きが隠せない模様。無理もないと他人事のように思った。


 梅雨と台風のせいで電車が止まって帰れない。

 全身ずぶ濡れで風邪を引きそう。行くところがない。

 どうしようもなく困っていたからこそ、仕方なく――そう、仕方なく茉莉花を家に招いたのだ。

 シャワーを浴びている時も我慢した。ず~っと我慢してきた。あくまで友人としての節度を守ってきたのだ。

 

――だと言うのに……ッ!

 

 でも……勉だって男だ。思春期の男子だ。

 茉莉花にはバレているが、エロい事が大好きなどこにでもいる高校生だ。

 ここまで露骨に挑発されて、理性を保っていられるわけがなかった。


 湧き上がる衝動のままに歩みを進める。

 対する茉莉花は尻もちをついたまま後ずさっていく。

 前を抑えていた手を床について、少しずつ間合いを取ろうとする。

 無駄なことだ。勉の方が歩幅が大きい。互いの距離はみる見る間に縮まって、あっという間に目と鼻の先。

 勉が膝をついて顔を寄せると、茉莉花がゴクリと唾を飲む音が聞こえた。

 

「か、狩谷君……近いよ」


「誰のせいだと思ってるんだ」


 声が震えた。

 怒りのせいではない。

 昂ぶりが抑えられない。

 下半身が痛いほどにいきり立っている。

 

 鼻先をくすぐる香りに違和感があった。

 いつもの茉莉花が纏っている匂いではなかった。


――立華から、俺の匂いがする。


 年頃の少女として、シャワーを浴びて湯船につかってハイ終わりというわけには行かなかったのだろう。

 身ぎれいにするために浴室にあったシャンプーやボディーソープに手を伸ばしたことは想像に難くない。

 どちらも普段から勉が使っているものだ。だから勉と同じ匂いがする、

 否、厳密には同じ匂いではなかった。

 今の茉莉花が放つ匂いは、彼女自身の匂いと勉の匂いがブレンドされているものだ。

 いつもの茉莉花の匂いと、いつもの勉の匂いが混じった新しい匂い。

 どちらにも似て、どちらとも異なる匂い。ふたりを繋ぐ匂いだった。

 ワイシャツのボタンは外されたままで、前ははだけられている。

 ほんのり桜色に染まった肌が大胆に晒されていて、刻一刻と芳香が強まっている。

 そのかぐわしい匂いが勉の理性を焦がしてやまない。


 さらにずいっと身体を寄せると、ついに茉莉花は仰向けに寝転んでしまった。

 自慢の黒髪が床に広がって、その上に勉の身体が圧し掛かった。

 自分で自分が何をしているのかよくわからない。

 わからないままに本能に突き動かされている。

 目の前にある肢体から体温を感じる。まだ触れてもいないのに。

 少女の唇から漏れる吐息を感じた。甘い香りだった。頭がクラクラする。


「すまん立華。お前は悪くない。俺が悪い。止まらないんだ」


「狩谷君……だめだよ」


 茉莉花の声は掠れていた。

 いつもの強気は鳴りを潜めて、弱々しくて。思わず抱きしめたくなる。

 勉を止めようと胸に這わされた茉莉花の白い手に、力は籠っていない。

 瞳は濡れて妖しくきらめき、かすかに開いた唇と覗く舌に心惹かれる。

 拒絶しているのか、誘っているのか。

 それを判断する理性は、もう勉の脳裏に残されていなかった。

 ふたりの距離がゼロになって……影が、そして肌が重なりあって――


 ぶるるるるるッ


 机の上に置きっぱなしになっていたスマートフォンが震えた。

 硬質の物体が揺れてぶつかり合う音が室内に鳴り響き、勉はハッと身体を跳ねあげた。

 眼下と茉莉花と暫し見つめ合う。

 彼女もまた呆然と勉を見上げている。

 ふたり揃って頷きあって、そろりそろりと距離を開けていく。


「はぁ……はぁ」


 茉莉花の吐息が荒い。勉の吐息も荒い。

 茉莉花の声が耳に届くだけで、勉の脳が激しく揺さぶられる。

 それでも、激しく燃え上がっていたはずの身体からは、すーっと熱が引いていく。

 

――俺はいったい何を……


 状況を把握し直すと、どっと罪悪感が押し寄せてくる。

 踏みとどまった安堵と、残念な心持ちも入り混じっている。

 矛盾したいくつもの感情は複雑に絡み合って、とてもではないが勉の手には余る。


 チラリと茉莉花に視線を送ると、そっと目を逸らされた。彼女は耳まで真っ赤になっていた。

 指はワイシャツのボタンを留めようとしているものの、震えて上手く動いてくれないようだ。

 やがて諦めたのか、両手で前を抑えるだけにとどめてしまった。

 わざとらしい深呼吸で大きく膨らんだ胸に、白い掌が沈み込んでいる。


「……電話、出たら?」


「あ、ああ……」


 茉莉花に促されて、震えっ放しのスマートフォンに手を伸ばした。

 ディスプレイに表示されていたのは――義妹の名前だった。

『ヘタレ』と小さな声が聞こえた気がした。

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