第37話 振り回されて、限界


「う~ん」


 スマートフォンを構えながら茉莉花まつりかが悩んでいる。

 頭の動きに合わせて、腰まで届く艶やかな髪が揺れていた。

 黙って様子を見ていると、いきなりワイシャツのボタンを外し始めた。

 上から順にひとつずつ。踊るような指の動きに見惚れてしまう。

 胸元の拘束が緩み、重力を感じさせる揺れが生まれた。

 お腹の中ほどまでボタンが外されたところで、あることに気づかされた。


――ブラジャー着けてないな。


 当たり前と言えば当たり前だった。

 ずぶ濡れになった茉莉花の服は全て洗濯中。

 風呂上がりの身体に冷たい下着をつけるはずもない。

 納得して、生唾を飲み込んだ。落ち着いている場合ではない。

 写真撮影には合意したものの、ここまであっさり茉莉花が肌を晒すとは思っていなかった。

 裏垢投稿で裸体を晒すことに抵抗がなくなっているのかもしれないが……ここにはつとむがいるのに、この脱ぎっぷりは想定外。


――それとも、男慣れしているのか?


 頭のどこかから、そんな声が聞こえた。

 耳を塞いでも聞こえてくる、イヤな声だった。

 学園のアイドル『立華 茉莉花たちばな まつりか』に関する噂は多い。

 その中でも男女の交際にまつわるものは最多と言っても過言ではない。

 熱く激しく華々しい彼女の恋愛遍歴は、噂に疎い勉すら耳にしている。

 つい先日まで、勉と茉莉花にはほとんど関わりがなかった。

 だからこそ噂の真偽なんて意識せずにすんだ。

 今は違う。

 勉と茉莉花は『友だち』だ。無関係とは言い難い。


 茉莉花の人間関係に口を挟むなんて烏滸がましい。

 たとえ友人であっても他人の恋愛をどうこう言える筋合いではない。


――知りたい。


 知的欲求などとカッコつけるつもりはない。

 勉は、ただ茉莉花のことを知りたかった。決して純粋な想いではない。

 そこに嫉妬に近い感情があることを、認めざるを得ない。


「ねぇ狩谷かりや君」


「……」


「か・り・や、くん!」


「うおっ、な、なんだ!?」


 胸中で煩悶していると、茉莉花が再び目の前にいた。

 先ほどと同じ仁王立ちのポーズからの前傾姿勢で覗き込んでくる。

 前のボタンが外れているおかげで破壊力が凄まじいことになっている。


「私を前に余所見とか、それどういう了見なわけ?」


「いや、別に余所見をしていたわけではないぞ」


「じゃあ何なの」


「……なんでもない」


「うそ」


「うそじゃない」


 まさか噂に出てくる元カレにヤキモチを焼いていたとは言えない。

 いつもの、あるいは以前の自分なら堂々と口にできたかもしれない。

 今の自分には無理だ。それは……そんな自分は、あまりにカッコ悪い。

 ゆえに見え透いているとしても、つまらない意地を張らざるを得ない。


「ふ~ん」


「……」


 互いに至近距離で睨み合う。

 茉莉花の吐息が、勉の頬を撫でる。

 甘くて、蠱惑的で、アブナイ香りがした。


「……ま、いっか」


 ひとり納得したらしい茉莉花の顔から、険が取れた。

 あとに残るのは、いつものチャーミングな彼女の姿。


「それで、いったい何の用なんだ?」


「ああ、うん。ねぇ、狩谷君……ボタン、全部外した方がいいかな?」


「は?」


 意識が復活すると、今度は眼前に広がる茉莉花の肌から目が離せなくなった。

 迫り来る視界的幸福に溺れかけて、何を言われているのか理解できなかった。


――外す? 何を? 全部?


「だ~か~ら~、ボタン!」


「お、おう、外した方がいいんじゃないか」


 付けるか外すかなら外す。

 ほとんど本能的に勉は答えていた。

 答えた後で『ボタン?』と心の中で反芻し、驚愕のあまりパニックになりかけた。

 あまり仕事をしない自分の表情筋に、この時ほど感謝したことはない。

 ギリギリで理性的な『狩谷 勉』像を守ることができた……と本人だけが思っていた。


「やっぱり? えっちな狩谷君だったらそう言うんじゃないかと思ったけど」


「いや……男なら、誰だって同じだぞ」


「えっちだ」


 くすくす笑う茉莉花の指が、肌をなぞるように下に降りていくさまを目で追っていたが……


「ちょ、ちょっと待て!」


「なに?」


「何でそこで不機嫌になるのかわからんのだが。立華、お前下着……って外すな!」


「ん~」


 茉莉花は下着を身につけていない。

 そんな彼女がワイシャツのボタンを全部外したら――


「『RIKA』さんのアカウントは全年齢向けだろ。見えたら運営に削除されるぞ!」


「ふふ……見えたらって、何が?」


「な、何って……その」


 咄嗟に目を閉じて首を曲げた。

 ショート寸前の理性が最後の最後で仕事をしてくれた。


「ねぇ、狩谷君」


「なんだ」


「見て」


「……断る」


 蕩けるような誘惑の声に歯を食いしばって耐えた。

 そんな勉の左右の頬にすべらかな感触が這わされる。

 それが茉莉花の掌だと気がついて、全身がビクリと跳ねた。

 目は開けていない。開けていないが、それがよくない。

 視界が塞がっているおかげで、耳の付け根からつつっと顎を撫でる指の動きが鮮明に感じられる。

 まるで直接頭の中をかき回されているような錯覚に支配される。緊張しすぎて、振り払うことなどできはしない。

 顔の間近に温度を感じた。茉莉花の身体が発する熱だ。甘やかな芳香が鼻腔を通って脳に侵入してくる。


「何で……何でこんなことをする?」


「『RIKA』へのリプ見たでしょ。みんなを失望させたくないの」


「それなら、俺がいないところでやればいいだろ」


「ふふっ、リアルの男子がどんな感じなのか見たくなったってのはどうかな?」


「冗談にしては笑えないな」


「冗談じゃないしね。どんな写真が受けるのか~とか生の感想が聞きたいし」


「そんなに大切か?」


『何が?』とは言わなかった。

 あえて付け加えるならば裏垢に絡むすべてである。

 裏垢にハマる人間は、孤独であったり承認欲求に振り回されたりしていると聞いた。

 いずれも『立華 茉莉花』と言う人間には似つかわしくない。

『なぜ?』と首をかしげたことは一度や二度ではない。

 さらに男の目の前で服を脱ぎ出すのだ。そして『意見が聞きたい』などと言う。

 どう考えても尋常ではない。いったいどうして茉莉花がここまで裏垢に入れ込むのか、その理由を知りたかった。


「うん、大切」


 茉莉花の答えは簡潔を極めていた。

 勉の問いには答えていなかった。

 はぐらかされたことに、かすかな不満を覚える。


「……立華の趣味について、俺からどうこう言うつもりはない。でも、これは、やりすぎだろ?」


 裏垢についてあれこれケチをつけないのは、勉の趣味であった。精一杯の強がりでもあった。

 茉莉花が嫌々やっているのなら意地でも止めるが、この状況はどう考えても彼女自身が楽しんでいる。

 強制されているわけでもないのに勉が翻意を求めるのは、お門違いと言う気もする。

 その一方で『エロ系の裏垢はフォロワーの要求に応じてどんどんエスカレートする』という記事を思い出してしまう。

『RIKA』は、茉莉花は現在進行形で真っ最中なのかもしれない。

 状況はひたすら加速を続けているのに、どの選択肢が正解なのか判断できないまま、ここまで来てしまったが……さすがにこれは見過ごせない。


「やりすぎって……お礼のつもりなんだけど」


 途切れ途切れに放った問いに即答された。

 茉莉花の声からは動揺なんて欠片も感じ取れない。


「お礼って、俺はこんなことを望んではいない」


 ウソだった。

 本心では望んでいる。憧れの裸体を見たくないはずがない。

 ただ、それでも……ありのままを答えるわけには行かなかった。

 人間関係に疎い勉でもわかる。言われなくったってわかる。

 茉莉花の誘いは明らかに『友だち』の領域を超えている。

 ここで目を開けてしまったら、これまでの関係が破壊されてしまう。

 それが、それこそが、ただひたすらに怖かった。


「でも、私にできることってこれくらいしかないし」


「そんなことないだろ。よく考えろ」


「狩谷君、お願い……私に恥をかかせないで」


遠い雨音に混じって切実に響く茉莉花の声が耳朶を打った。

 ここまで言っても止まらないとは、何か自分では及びのつかない事情があるのだろうか。

 そんな都合のいい考えが脳裏によぎって、視界を封印する力が弱まってしまった。

 兎にも角にもわけがわからない。茉莉花が何を考えているのか、さっぱりわからないが……いずれにせよ、このまま永遠に目を閉じ続けているわけには行かない。閉じ続けることはできない。もう限界だった。


「どうなっても知らんぞ」


「……うん。大丈夫。だから見て、ほら」


 その声が最後の一押しだった。

 理性が沸騰し、欲望が決壊する。

 どれだけ理屈を並べてみても、本能には勝てなかった。

 抗いがたい性欲が、これまで茉莉花と築き上げてきた関係を崩壊させるかもしれないという恐怖すら上回った。


――クソッ、俺って奴はッ!!


 覚悟を決めて、目蓋をあげる。

 そして――眼前に広がる光景に、勉は絶句した。

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