第6話 昔の人はいいことを言う その2



立華たちばなさんがメイクに気合を入れることには理由があります。なぜなら……生徒たちの手本となるべき教師の方々が、毎日毎日実に熱心に化粧をして来られるからです」


 つとむの発言に、職員室の空気が凍る。

 3人に注視していた者だけではない。

 興味なさげにしていた者たちも身体をビクリと震わせている。


「……アンタ、マジで何言ってんの?」


「まったくだ。教師は関係ないだろう」


 呆れた茉莉花まつりかに教師が同調した。

 ふたりは互いに顔を見合わせ、そして互いにそっぽを向いた。

 騒動の渦中にいるはずの茉莉花たちだけが、職員室の異変に気がついていないことに苦笑せざるを得ない。


「そんなに変でしょうか? 立華さんは生徒です。『教師が化粧をしているのなら自分も……』と考えるのはおかしな話ではありません」


「いや、そういう話ではなくてだな。そもそも我々教師は大人だ。校則が適用されるのは、お前たち生徒に対してだけだぞ」


「大人か子どもかは関係ありません。校則の問題でもありません」


 すでに述べた通り、勉は入学して早々に生徒手帳に目を通している。

『校則が生徒のみを対象とする』なんてことは言われなくともわかっている。

 でも……学校という場所で生活するのは生徒だけではない。教師だって含まれている。


「校則は守られるべきです。ルールが守られなければ学生生活の秩序が乱されます。統制を失えば、あとは荒廃あるのみです」


 心にもないことを、聞き取りやすいように一言一句わざわざ大袈裟に語った。

 生徒指導の金看板である『校則』をあえて持ち上げて見せる。

 年配の教師は眉を顰めつつも頷いた。


「ですが……学校には我々生徒だけでなく教師のみなさまもおられます」


「当たり前じゃん」


「ああ。教師は校則を持って生徒たちを拘束している」


「……それ、上手いこと言ったつもり?」


――たまたまだよ。そんなつもりじゃねぇよ。今、茶化すところじゃねーよ!


 別に『校則』と『拘束』をかけたわけではない。

 イチイチ口を挟んでくる茉莉花に、心の中でツッコミを入れる。

 表面上は、ずり落ちた眼鏡の位置を直すだけにとどまった。


「想像してみてください。生徒たちは『自分たちは抑圧されている』と感じている。抑圧しているのは教師だと考える。そして……教師は自由な服を着て化粧も制限がない。同じ学校で時間を共にしているにも関わらず」


「そ、それは……」


 生徒指導が口ごもる。

 勉の弁舌の行き先に思い当たったらしい。


「学校という空間は我々生徒だけで作られているわけではありません。生徒と教師が共に作り上げているのです。ならば、秩序だって共に作り上げられるべきです」


 食事に例えるとわかりやすいかもしれない。

 何らかの理由で断食を強いられている人間の前で、美味そうに飯を食う人間がいると仮定する。

 そこに秩序が生まれるだろうか。黙々と『ルールだから仕方がない』と服従するだろうか。

 ありえない。両者は対立するに違いない。それこそ抗争に発展するかもしれない。

 同じことだ。化粧を禁じられている生徒の前で、教師が化粧を見せつけたら……


「確か担当は古文と漢文でしたよね?」


 唐突に話の流れを変える。

 50過ぎの教師は、躊躇いがちに頷いた。


「……それがどうした」


「では『かいより始めよ』という故事成語もご存じのはず」


『隗より始めよ』とは、中国の戦国時代に端を発する故事成語だ。

 要約すると『大事業をするには身近なことから、物事は言い出した者から始めよ』という意味合いである。

 今回の場合なら……生徒に校則を強制するならば、まず教師から身を慎むべきだと勉は言っている。


 校則で禁止されている菓子の持ち込みを見過ごすな。

 校則で禁止されているスマホを取り締まれ。

 校則で禁止されている化粧を認めるな。


 勉の発言に、固唾をのんで見守っていた教師たちが身体を震わせる。

 誰も彼も、身に覚えがあることばかりだから。

 茉莉花を吊し上げることについては『お好きにすれば』というスタンスでいられるかもしれないが……自分たちの生活スタイルが脅かされるとなると、黙ってはいられない。

 生徒指導教諭は服装こそいつもジャージで体つきはみっともないが、職務には忠実な人間ではある。

 だからこそ――同僚たちの心の動きに気がつかなかった。


『身を慎めなどと言われても困る』


『そんなに本気になってどうするの?』


『流れ弾を飛ばすのはやめろ。迷惑だ』


 口にこそ出さないものの、誰もが目でそう語っている。

 教師は聖職者ではない。ただのサラリーマンにすぎない。

 それも何十年と勤め上げることが前提となっている。

 たった3年で関係が切れる生徒のために、延々と清廉実直を続けるなんて土台無理な話。

 グレーゾーンに見て見ぬ振りして、楽して給料を頂く方が効率的だ。

 職員室の旗色があっという間に塗り替わった。同僚たちは今や生徒指導の敵に回ってしまっている。


「せ、先生……ちょっといいですか」


 声をかけてきたのは教頭だった。

 生徒指導と似たり寄ったりの年齢の――女性。

 上品なスーツに丁寧な化粧。

 いつも穏やかな笑みを浮かべている顔に、今は渋い表情が刻まれている。

 この問題をこのまま見過ごしていたら、職員室の空気は最悪なものになる。

 事なかれ主義の巣窟である学校の幹部としては見過ごせまい。出世にも影響しかねない。


「い、いや、待ってください、教頭先生。我々は教師として……」


「そうはおっしゃいますが……ねぇ」


 教頭が水を向けると、躊躇いがちに頷く教師が数名。

 いずれも女性だった。勉たちの担任も頷いている。

 他の教師たちも、誰ひとりとして生徒指導の味方には回らない。


狩谷かりや君、それに立華さん。この話はひとまず預かります。あなたたちはもう行きなさい」

 

「そうですか」


「……」


 勉は眼鏡の位置を直し、ひと言だけ。

 チラリと時計に目をやると、昼休みはもう終わる寸前。

 担任に呼び出されて何も実りのない時間の浪費になるはずだったが……なかなかどうして気分は悪くない。

 当事者であった茉莉花は、置いてきぼりにされて憮然とした表情を見せている。

『ひと言物申してやりたい』と眼差しが語っているが、そういうタイミングではない。

 教室ではあまり目にしない表情は何とも珍しく、意外なことに魅力的であった。


「立華」


「……わかってるわよ」


 勉が軽く袖を引いて耳元で囁くと、学園のヒロインは我に返って頭を左右に振った。

 頭の動きに合わせて、艶やかな黒髪がきれいな円弧を描く。

 ひとつひとつの所作が輝きを放つ、とかく目を惹く少女だった。

 漂ってくる芳香が鼻先をくすぐって、酷く落ち着かない気持ちになる。

 

「それでは失礼します」


「失礼します」


 余計なことを口にすることなく、勉たちは職員室を後にした。

 閉じられたドアの向こうから何やら大きな声が聞こえてくるが、まったくもって知ったことではなかった。

 

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