二、鬼神 4
荘園内でただ一つ、劉備の文に返事を寄越した里があった。故郷の
劉備は手下の全てを伴うと、半日かけて楼桑村へ向かった。文には荘園の再建についての言及は無く、ただ戻れとのみ綴られていた。苛立ちはあったが撥ね付けはできぬ。族父と母からの呼び出しである。儒の教えに背けば生きていけない世の中だ。
里の中心の広場に手下を待たせた。元々は土地の鬼神の宿る霊木を祀るための場だったが、今では彩りもなく寂れている。その隣に建つ、一際大きな二階建ての屋敷の、険しい塀と漆塗りの門とを劉備はくぐった。県では著名な家である。前漢の末、二百年以上前に興ったという話もあるが、今では名家とは云い難い。
古きを良きとする家柄であった。腐敗を嫌い仁侠を旨とし人に施し続けた結果、嘗ては他家の麾下に入り戸籍が途切れたこともあったという。故に出自は定かではなく、高祖の血を引く証もない。祖父は同じ琢郡の、武帝の長子
迎えは無い。閑散とした客間へ足を踏み入れ、上座に座る母と族父へ形だけ
「久しいな。面を上げよ」
侘しげな屋敷にしんと声が響く。正座し族父の顔を拝んでからも、劉備は黙っていた。族父は叔父の一人である。本来家を継ぐはずは無かったが、長子の父が早世し祖父も死ぬと幼い劉備に代わって族父となった。
荘園を含む祖父の遺品の多くを手放したこの叔父と劉備は昔から折合いが悪く、仲を取り持っていた
「商いも耕作もせず、長く家を開けておいて云うことはないのか」
叔父が云った。清廉を装い孝廉に通るためか、祖父が死んで以降、一族は筵を織り畑を耕すようになった。
「私は商家の生れではなく、ましてや農夫の倅でもありませぬ」
「お前という奴は……!」
「そんな話をなさるために、叔父上は私を呼ばれましたか」
叔父は睨んだ。劉備は身動ぎひとつしなかった。誇りを忘れた叔父のことを、
「里を出る。お前も来るのだ」
と云った。
「は?」
「黄巾の折には幽州の
「荘園は」劉備は前のめりになって叫んだ。「この荘園はいかがなされる、地主の務めは!」
「我らはもう荘園を持たぬ。務めは無い。第一、お前に何ができるのだ。財も基盤も、何ひとつ持たぬお前に」
「強さは在ります。この二年、黄巾や烏丸から馬を守り続けて参りました。先日の烏丸も私が討って退かせたのです。壁さえ取り戻せば、どれほど来ようと——」
「黙れ‼︎」叔父が立ち上がって喚いた。「お前はまだ、ごろつきの真似事などやっているのか‼︎」
「ごろつきと豪侠の区別も付かぬほど耄碌されたか、叔父上!」
劉備も立ち上がった。剣に手をかけそうになるのをどうにか抑えていた。暫く睨み合って肩で息をしていると、叔父がやがて、こめかみを震わせながら
「仁が死んだ」
と云った。元起の倅で、共に遊学に出たこともある男の名だった。
「
「そうだ。烏丸に殺されたのだ。知っての通り、父上が亡くなり、財も減り、多くの遺産を手放した我ら一族は離散した。黄巾でも、此度の乱でも更に出て行った。若い者は、お前と仁しか残っていなかった。その仁が死ねば、死せる我らを葬い祭祀を行えるのは、お前しかいないのだ。阿備」
聞くや——劉備はとうとう、剣を抜き払った。込み上げてきたのは怒りだった。
人は死ねば鬼神となり、魂と肉体とが別たれる。魂は天に昇り、肉体は地下の死者世界で暮らす。先祖を祀りそれをもう一度繋ぎ合わせることを、再生といった。再生によって、死人はこの世に蘇ることができる。つまり叔父は、自分達が死後蘇る道が、無くなることを恐れているのだ。
どの口で、と思った。父や祖父の生きた証を踏み躙ったのは、叔父を含めた一族の方ではないか。財を失い困窮した途端、土地や
劉備は剣を、有りっ丈の力で床に突き立てた。叩き斬ってやろうとしたが、できなかったのだ。痛み、肉が裂ける感触。歯を食いしばった。肩の傷が開いている。腕を通して、赤黒い血がぽたりと滴り落ちた。
「何をしている!」叔父の声。心底耳障りだと思った。「族父に刃を向けるも、親から貰った身体に傷を付けるも、儒に叛く不孝の極みであるぞ! 兄上や父上に顔向けできるのか‼︎」
「爺さんや親父に顔向けできないのは、あんた達の方でしょう。誇りは何処へ行ったんです、侠の誇りは‼︎」
「いつまで昔の話をしている、お前は」
「
劉備は剣を引き抜き、黙って屋敷を去った。そのまま駆けて里を出ようと思ったが、門を出たところで視界の端に映り込むものがあり、ふと立ち止まって見下ろした。
路傍に転がる回り四十
ふと振り返ると、四聖獣の飾りが施され、紅く塗られて美しかったはずの家の門は、もう随分塗料が剥がれ落ち、湿っぽい匂いのする腐敗しかけた木の地肌を晒している。この家にはもう、何も残っていないのだ。王者の所以となる血統の証も、祖父の姿も。残った誇りすら失えば、たちまちただの没落した土豪になってしまう。
それは信仰を失った霊木が、みずみずしい幹や力強い梢を失って土に帰ろうとしていることや、棄てられた万里の壁が栄華を失いただの土塊と崩れようとしていることと、何処か似ているような気がした。
一行は、初めの里に戻ってきた。
「どうした」
里の城門から少し離れたところに居た劉備は、眉をしかめて尋ねた。使いに行かせた田豫が、酷く青ざめて戻って来たのだ。田豫は待機していた一行を見渡して
「それが」と、一拍置いた。「開門を拒まれました」
「何だと⁉︎」
劉備は駆け出した。手下の制止も耳に入らない。門前で大きく呼んだ。
「俺だ、戻った。門を開けろ!」
「お前の里では無い」
上から父老が吐き捨てた。その隣には頭目の姿がある。中山の、関羽に殴られていたあの頭目である。
「てめっ——」
馬が暴れている。強く手綱を引いたからだ。どうにか御しながら睨みつける劉備を、頭目は馬鹿にするように、またあの下卑た笑いを浮かべて見下ろしていた。
「やったなあ、劉備。上役の領に手ぇ出そうだなんてよ。おまけに馬泥棒たぁ、大した盗っ人じゃねえか」
「盗みじゃねえ、ここらは元々俺の荘園だ!」
「偽り者の盗人よ」父老が見下ろして云った。強張って力の無い、萎びたような顔色。叔父や母のそれと酷いほど似通って見えた。「荘園などここには無い。馬を置きここから立ち去るのだ。さすれば命までは取らぬ。どこへなりとも行くが良い」
「違う、違う俺は」劉備は喚いた。ほとんど悲鳴のような声になっていた。「俺は壁を、あの荘園を——!」
「ええい、うるさい、射かけてやれ!」
門上に弩を構えた男たちが立った。張世平の私兵だ。矢が降って来る。剣で払ったが馬に掠り、暴れる馬から劉備はとうとう振り落とされた。頭上から嘲笑が降り注ぐ。己はそれほど滑稽なのかと劉備は思った。嗤われるようなことなのか。財や家の誉れを失おうとも豪族として在り続けようとする俺の姿は、弱いお前たちの目に、そうも滑稽に映るのか。
「今まで自分たちが、何に生かされて来たと思ってる」
劉備は立ち上がり、空を仰いだ。曇っている。囲いが無い。天そのものが囲いなのだ。天地
誰かががなった。
「時代遅れなんだ、お前は!」
——嗚呼。
壁が崩れている。万里の壁だ。桑の木が腐っていく。あの霊木だ。嘗て皆が信じ、この世を成り立たせていた筈のもの。それにしては呆気なく、忘れ去られ、棄てられようとしている。声が反響する。声、頭の中に鳴り響いている。ずっと。
——『何で、今更』
——『前とは、違うのですよ』
——『いつまで昔の話をしている』
何も、省みなかった。祖父や、一族は。百を超える歳月。財も血筋の証も、形あるものを失ってまで弱者に施し続けていた劉氏の姿を、お前たちは忘れたのか。強き者から差し伸べられた救いを、お前たちは傍受しておきながら、時が経てば忘れていくのか。ならば裁かねばならぬ。支配から逃れるというのは、そういうことだ。
鬼に誘われている、と劉備は思った。赤龍が吼えている。そして自分は今その誘いに乗って、何かを踏み越えようとしている。矢筒に手を回す己の姿を、冷え切った目でどこからか茫洋と眺めていた。
「玄徳‼︎」
簡雍の声が聞こえている。酷くゆっくりと。幕を隔てたように聞こえている。それでも劉備は、恐ろしいほどに冷静だった。
「——俺の、一番嫌いな言葉だ」
冷静に素早く、指環を用いて弦を引き、父老の頭を射ち抜いた。劉備は起こした馬に跨ると、父老の屍に目もくれずに奔り去った。
半刻も駆けずに、劉備は馬から降りた。そのまま踵を返し、幽鬼に似た足取りで行く。まずい、と簡雍は思った。
「おい、止めろ、長生」
「行きたがってるなら行かせろよ」
「馬鹿云うな、死んじまう」
「死ぬのが、駄目か」
「駄目だ」簡雍は頑と云った。「長生、頼むよ。お前しかいねえんだ、正面から玄徳止められんのは。俺じゃ無理だ」
暫く考えて
「指図するな」
と云い残し関羽は走った。下馬して劉備の前に立ち塞がる。その間、簡雍は手下を先へ行かせた。視線で合図を受けた田豫と張飛が頷く。
「どけ」簡雍は振り返る。劉備と関羽が向き合っていた。「頭目をまだ殺ってない」
関羽は劉備の腹を刀の柄で殴りつけた。何か喚くのを、また更に一発殴って黙らせて、強引に襟首を掴んで引きずって来る。荒っぽさに多少たじろいだ簡雍だが、気を取り直して馬上から呼んだ。
「玄徳、帰るぞ!」
「在るのか、俺に。そんなものが」うなだれて劉備は呟いた。「お前らは俺の元に帰りゃいい。だが俺に、帰る場所なんてもんはあるのか」
黄砂が舞い、静寂が立ち込める。関羽は人に寄り添うことなど無い男だったし、簡雍はかけられる言葉を持ち合わせていなかった。劉備はやがて自嘲の笑みを浮かべると
「すまん、忘れろ」と云った。「やっちまったもんは仕方がねえ。行こう」
「どこへ」
「分からない。だがもう、中山には戻れない。張世平に逆らったんだ」
劉備はそう呟くと、独り立ち上がって歩き出した。その背を見つめながら簡雍は、己を己たらしめるものの全てを失っても、これほど気丈に振る舞う義弟の強さを、いっそ哀れにすら感じていた。
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