二、鬼神 5


 夜。雨が、降ったり止んだりを繰り返していた。濡れた地面に積み上げた白樺しらかばの枝にどうにか火を灯し終えて、今が夏で良かったと簡雍は思った。中山から琢に急いで戻ったから、野営の設備さえ満足に持ち合わせていない。

「憲和、いいんだぞ」

「えっ」

 傍で座り込んでいた劉備が云った。里を追われてから今まで、暫く酒しか口にしていない。

「お前、里に帰ってもいいんだぞ。このまま関わってると、女房残して死ぬぞ」

「他人行儀じゃねえか、おめェ。まともな酒すら少ねえこの時勢によ、みんな、誰のおかげで親や女房食わせていけてると思ってんだ。士大夫なんか助けちゃくれねえ、見放さなかったのはお前だけで——」

「やって当たり前なんだよ、そんなことは!」

 劉備が立ち上がって怒鳴った。獣さえ打ち殺しそうな咆哮の激しさに、簡雍は思わず後退りした。視線がかち合う。劉備の、燃えるような目。何を云いたいのか、簡雍には解らない。生温い沈黙が耳に痛かった。

 劉備はやがて我に返ったように目を逸らすと、互いの間に開いた、ぬかるんだ地面の隔たりを横目で見やって、

「主が民に施すのは当たり前だ」と口にした。簡雍にはそれが、意固地になった子供の仕草にも似て見えた。「民が主に尽くすのも当たり前だ。そうやって生きてきたんだ、爺さんも。俺の先祖も」

 簡雍には解らない、古い豪族としての生き方だ。立場の違う手下たちにも、生き方を変えた一族にも決して理解されることのない志だ。それを頑なに貫こうとする劉備の背に、一体どれほどの孤独がのしかかっているのだろう。同じ先祖を祀る同族の群れから外れるというのは、同じ鬼神を信仰する人々の輪から外れることに等しい。嘗ては劉備もその中心にいた。『非常の人』と呼ばれていたらしい。常ならざるもの、強きもの。そう呼んだ人々が失せても、まだ彼は、己の役目を負い続けようとしている。

「なあ玄徳」簡雍は呼びかけた。この不器用極まりない弟のことを、心の底から気の毒に思った。「もう全部放っといてよ、みんな一緒に逃げるってのはどうだい。ずっと北とか南の方の、山ん中にでも暮らしてさ」

「うるせえ」劉備は額に手を当てて呻いた。「許されるか、そんなもの」

 取り付く間も無く劉備は去った。馬の嘶きが聞こえる。簡雍は追わない。己の慰めなど劉備には何の意味も為さないだろう。

 立ち代わり現れた関羽が

「玄徳はどこだ」と尋ねる。

「触らん方がいいよ」焚き火が音を立てて爆ぜた。「虫の居所が悪いんだよ、今は」

「知るか」

「意外と優しいな、ガキんちょ」

「あんたらの寸法で、俺を測るな」

「じゃあ、何で」

「理由は無い」関羽は云い放った。「あいつと俺は近しいものだ、と思った。だから行く。そこに、理由は無い」

 簡雍ははっとして関羽を見やった。それから気付けば

「どうすればいい」

 と聞いていた。誰に寄り添うこともない関羽の、劉備の手下でも血族でも、ましてや友ですらない彼の、群れから外れた獣のような姿が、何故だか先の劉備に仄かに重なって見えたのだった。

「認めることだ。違うものを認めることだと。そういう風に、玄徳は云っていた」

「お前は、認めるってのかい?」

「玄徳は俺を認めた。だから俺も、認める。誇りってのは、そういうことを云うんだろ」



 がむしゃらに、劉備は走っていた。行き先は無い。

 ぬかるみに足を取られたのか、馬が転げる。劉備も地に投げ出される。打ち付けられ、転がり、泥にまみれ、血を吐いた。

「解っている」劉備は這いつくばり、咳き込みながら独り喘いだ。「解っているよ、爺さん」

 息苦しいのは、鬼神の腕が喉元を締め上げているからだと思っていた。役目を忘れるなと語りかけている。地下から伸びる手。祖父の、父の。もう二度とは触れることのできない。起き上がろうとしてまた転んだ。もがいて仰向いたが、重なる梢に遮られて夜空さえも伺えない。蒸し暑いはずの夜闇の中、不思議と冷たい泥の感触だけが身に沁みた。

 日の当たる場所に出たいと思った。過ぎ去りし日の、祖父の王国。麗かな春日の差し込む温かな荘園。父もいて、母が笑っていた。足りないものなど何一つ無かった。そこへ帰りたい。もう一度味わうのだ。大柄な祖父の肩上で浴びた、あの頬を撫でる風の感触を。

 目を瞑り、記憶をなぞるように指輪に触れる。四六時中身につけていたから、握りしめると仄かにぬくかった。劉備が今より幾らか器用な男だったなら。己の体温が指輪に移っていて、その熱は時が経てば消え失せるものなのだと、そう諦めることができただろう。だが劉玄徳という男にとって、それは生き物の鼓動だった。祖父や父の遺した魂の熱そのもので、だから本気で、この指輪が生きているのだと信じていた。

 ふいに足音が聞こえた。草鞋を引きずる、地から這い出る幽鬼に似た足音。草を踏みしめ、梢を擦っている。劉備は眼を開けた。関羽が独り、松明を携えて見下ろしていた。

「なぁ」劉備は大して驚きもせず、寝転がったまま語りかけた。「楼桑村の、桑の木を覚えているか」

「切り株ならあった」

「切られたってことは、いつかは立っていたということさ。死んだってのも、いつかは生きていたということだ」

 関羽は黙っていたが、劉備は構わず話を続けた。理解は求めていない。ここで彼が何か云うような男であったなら、劉備はそもこの話をしなかっただろう。

「昔は、枯れていなかった。高さが五丈(約十二メートル)もあって、夏になって葉が茂ると、天子の馬車の傘のような形に見えてな。俺の家から貴人が出ると予言した占い師もいたから、俺はいつだったか。自分も天子の馬車に乗るんだと、あの覇王項羽こううのようなことを抜かして、子敬しけいの叔父上に大目玉喰らったこともあった」

 劉備は無意識に微笑んだ。特に可笑しくはなかったし、寧ろ気分は最悪だったが、祖父の死後一度も泣いていなかったから、それが奇妙な癖になっていた。上体を起こし、座ったままそっと地面をさする。

「俺はまだ、信じている。俺を貴人になれると云わしめた、鬼の力を」

 今ではもう桑の木は死に、叔父も占い師も、この固い土の下に眠っている。己が高祖の血を引く証など無くとも、劉備は祈り続けていた。太古より受け継がれて来た赤龍の血が、己に力を与えてくれると。

 人知を超えた力、誇りを失った人々の中にも、流れゆく時代の波にも埋没してしまわぬ強き力だ。

「長生、俺は間違っていないだろう」一息置いて、掠れた声で劉備は付け加えた。「それとも——誇りだけでは、生きてはいけないか」

「知るか。解りはしないし興味も無い。だが俺は、あんたの語った誇りとやらに、自分の命を置いてやってもいいと思っている」

「何故だ」

「何故だと」関羽は顔を顰めて劉備を見下ろした。今晩初めて目が合ったが、視線は変わらず冷たかった。「俺が、生きるためだ。あんたの誇りが俺を生かした。だからあんたが死ぬってのは、俺が死ぬのと同じことだ」

「生きているのか、お前。鬼でも」

「生きている」

「ならば俺の誇りは、死んではいないか」

「自分で考えろ」

 突き放すように口にする、炎に照らされた関羽の姿は、何をも寄せ付けぬほど高尚で、高潔で、美しく、そして何故だか青々としていた頃の、あの霊木に似て見えた。

「生きているよ」考えるより先に、劉備は口にしていた。そのまま立ち上がる。誰の手も借りずに。松明の明かりに誘われた巨大な蛾が、炎の中に飛び込んで、それから間も無く外へ弾かれて地に落ちる。「そうやって生きてきた。これからも変わらない。変わることは絶対に許さん」

 熱さに悶え地面をのたうち回る虫けらを、劉備は躊躇無く踏みつけて、踏み躙った。何度も、何度も。潰れた腑が、黒い汁になって地面に滲み出している。

「叔父上や母上のようにはならん、俺は。魂が弱いから、安直な道に走って誇りを忘れる。人間はそうやって脆くなる。そうして大事なものを忘れていくから、時代が変わる。鬼神が死んでいく」 

 時代が変わって生き方も変わるのではない、生き方を忘れるから時代が変わるのだ。きっと、強く在れば覚えていられる。太古より生き方を変えぬ獣のように。

 暗闇の中から針を一本探し出すような話であると、劉備も己で解っていた。解っているが捨てられなかった。関羽は無言でただ認めていた。それが劉備には快く、痛みなど理解し得ないはずのこの男が、己の孤独を和らげているような錯覚さえ覚えさせた。知ってか知らずか、関羽が拒むように振り返る。劉備も同じ方を伺った。鬱蒼として色の無い林の中に、一筋の紫煙が上がっている。遠くで松明の明かりが燃えているのだ。

「長生。行くぞ、劉子平のところへ。援助を受け兵を挙げる」

 それは紛れもない、故郷との決別だった。劉備の抱き続けた望みは、もうこの地に形を留めてはいないのだ。取り戻しに行かねばならぬ。生き方は己が継いでいる。土地と民をさえ得れば、それがどこであろうと、自ずと祖父の王国と同じものになるだろう。

「勝手に、行けよ」

 関羽が歩み出す。遠ざかる灯りを眺めながら、劉備は一つ口笛を吹いた。馬は来ない。逃げ出したのか、離れたのか。着いて来ぬなら置いていくだけだ。構わずに踏み出した。林が揺れる。髪結いの布と外套とが、激しくはためいて劉備の横顔や身体を打ち付ける。

 烏丸の乱は、そう簡単には収まらないだろう。劉備は考えた。この風のように北から広がって、やがてはもっと広くに及ぶかもしれない。烏丸にとって、これは過去の自由と栄光とを取り戻すための戦だからだ。過ぎた日に帰りたいと望む生き物の強さを、劉備は何より知っている。中央の叫ぶ秩序の維持など関係無い。道徳に救われなかった者たちが、己の力で這い上がるための戦いなのだ、これは。

「大丈夫だ」

 劉備は己へ向かって云った。拳を握り、開いて、何かを掴もうと伸ばしてみても、やはり光は伺えない。蒼天の化身たる天帝の星の光も、この泥濘のような闇を照らし出してはくれなかった。

 劉備の行く道の前に、ただぽつんと点っているのは、誰かを待つこともなく、追わねば遠ざかって消えてしまう、獣のような男の携えた遥かな松明の灯だけであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る