二、鬼神 3


 十日も留まると現状が知れてきた。やはり烏丸の反乱だったが、涼州りょうしゅうきょう族(チベット系遊牧民族)も関わっているらしい。

 最北西の涼州は武帝の積極的な対外遠征で得た比較的新たな領であるが、貴重な馬の産地であり、また砂漠の方に西域との交易路 “絹の道”を紡ぐ小都市が点在しているからその価値は計り知れない。漢人の圧迫を受け反乱を繰り返す羌族を、漢は統治機構の西域都護府さいいきとごふや監督役の護羌校尉ごきょうこういなどを置いて辛くも抑え込んでいた。

 だが中平二年(西暦一八五年)、前年の黄巾鎮圧により官軍が疲弊した機を見計らって羌族が再度蜂起。この鎮圧に駆り出されたのが烏丸突騎うがんとっきと呼ばれる烏丸兵であり、その都督ととくを申し出たのが此度の乱の首謀者、前中山国相こくしょう(国の行政長官、郡太守に相当)張純ちょうじゅんであった。しかし都督には公孫瓚こうそんさんが抜擢され、不満を抱いた張純は朝廷に酷使され怒る烏丸の大人たいじん(族長)、丘力居きゅうりききょと結託し謀叛。公孫瓚に鎮圧されたものの逃亡し、二年後の此度、再び乱を起こすに至ったとのことである。

 聞くところによると張純は、『双頭を持つ赤子が生れたことは、天下に二人の天子が誕生する証である』と説き、己は『彌天みてん将軍・安定王あんていおう』、同族の張挙ちょうきょを『天子』と称しているという。厄介なことになったと劉備は思った。黄巾の首謀者らも自らを天公将軍、地公将軍などと称していたが、天子を名乗るのは訳が違う。四百年二十一代続く、漢王朝の危機である。

「御令孫」

 劉備は顔を上げた。父老を前にしていたことを思い出し、書巻から筆を引き離す。文机の隅の小刀へ手を伸ばしたが、肩に痛みが残っていたので左手に持ち替え墨の垂れた部分を削った。里の役所の行政を行う部屋で、文を書いている。座っているのも上座であった。

「すまない。で、どうだった」

「やはりどこの里も今は手一杯で。伺うことは難しいようです」

「それは、困る」劉備は書巻を丸めた。紐で括り粘土で封をし、田豫を呼んで託けた。「父老を集めて集会をやりたい。十七年ぶりのな」

「……前とは、違うのですよ。もう、我らは同じ荘園に属しては居りませぬ。外の里なのです。関係の無い、別の」

「俺が、解っていないとでも云いたいのか?」

 劉備が横暴に見上げると、父老は目も合わせず大袈裟に礼をした。

「滅相もない」

「琢県には暫く戻らなかったが。張商人の賓客に入って、黄巾や烏丸と何べんも事を交えてきた。冀州きしゅう青州せいしゅうの方では名も売れている。北の現実は、俺が一番良く知っている」

「はい」

「だから今こうして役人の代わりをしている。聞けば張商人の付けた役人は、あの晩真っ先に逃げ出したそうだな。記録を漁ったが汚職もあった。軟弱者にこの荘園は任せられん」

「しかし、父老の集会とは」

「壁を、取り戻す」劉備は云った。父老の拱手し合わせた袂の向うから、じっと訝しげな眼が見つめていた。「外の城壁を修復して、ここらをまた一つの荘園にする。やぐらを立て、村人を調練し、昔の姿を取り戻す。獣はまたやって来るだろう。この前のはほんの小隊だ。本隊が来る前に守りを堅めにゃならん」

「い、いや、それは。壁の修復など、如何ほどの労力がかかるか」

「我らがやらねば誰がやる!」

 劉備は机を叩き、立ち上がった。

「俺たちは昔から此処で生きてきた。繰り返される獣の略奪に抗うため、自らも強き者として在り続けてきた。その矜持を捨て去って、よそ者の地主や汚職役人に援けを求めるか? 己の生きる道を他人の力に委ねるなど、いずれ身を滅ぼす行為にしかならん」

「力などもう、残ってはおりませぬ。全ての人間が、貴方様ほど強い訳ではないのですよ」

「やれ」

 劉備は睨んだ。父老の顔色が初めて変わる。良く思われていないのには気付いていたが、気にしなかった。此処が己の在るべきところだ。正しいことも云っている。張世平の名と武力を背に迫れば断ることはできないだろう。

 劉備は目もくれず部屋を出た。初めは強引でも、成果をあげればついて来るだろうと思っていた。皆忘れているだけだ、この荘園に主が居たことを。いずれ思い出す。過去は決して、消えはしないのだ。

 劉備は物心つく前に父を亡くし、代わりに祖父の劉雄りゅうゆうに育てられた。寡黙で強情で、昔気質な人であった。二十万人に一人とも云われる孝廉こうれんの狭き門を潜り、県令として秩石ちっせき千石(年収にして約四千八百万円)もの俸禄ほうろくを得て民数万を良く治めたという。官職を辞してからは荘園を統べ、私財を投げ打ち領民に施したのでよく慕われた。祖父が領内の見回りに出るたび民が押し寄せ輪を作るほどで、その姿を傍で見るのが劉備は誇らしくて好きだった。それは今では珍しくなった、古の豪族の姿によく似ていた。

 豪族というのは元来、地方の富豪のことである。富める者が貧しい者達へ施す代わり彼らの長となり、大家族の父として地方社会を回していく。その人となりが清廉であれば孝廉という推挙に挙げられ政にも関わる。そういう政治の仕組みがあった。この国の政は、まさに仁侠で成り立っていたのだ。

 劉備が十歳になる頃、祖父は死んだ。宦官かんがんを糾弾した知人を庇い、党錮とうこ(宦官と儒者の政治抗争)に巻き込まれて殺された。今の天子が即位したばかり、烏丸が朝廷に叛き幽州各地で王を自称し始めた頃だった。服喪の中、王とは何なのか、劉備は母に尋ねたことがある。

——『高貴な血筋と位を継いで、人の上に立つべくして生れてくる、正しい人のことを云うんだよ』

 母の聡明で、若く美しい横顔を見ながら、劉備は考えた。では荘園を治めた祖父の姿は、王侯の位など持たずとも、まさしく王者のそれであったのではないか。王の役目が血と共に受け継がれるというのなら、冠の無い王の務めをいつかは己も継ぐのだろう。

 蝉声の響く廊下からは、開け放たれた門を通して広場の様子がよく見えた。いつしか降っていた小雨の中を、人々が泥を跳ね上げ駆け回っている。随分少なくなった。以前は数千人も暮らした荘園だったが、野盗や賊に襲われ半分近くが出て行った。腕を組み、古い柱に頭を擦り付ける。壁が朽ち、里もばらばらになった今の有様を見れば、祖父は一体何と云うだろう。笑うだろうか、怒るだろうか。落胆するだろう。そうに決まっている。

「兄貴」張飛が傍で呼んだ。他の十数人と一緒に、書巻を運び込んでいる最中に立ち寄ったらしい。「少し、休んだらどうだい。今朝まで書庫に篭りっぱなしだったじゃないか」

「役所仕事ってのは、ちゃんとやってりゃこんなもんだ。それよりどうだ、里の様子は」

「……不服そうにしてるぜ。しょっ引いて来ようか」

「やめろ」

「助けられといて不満ってのはさ」

 張飛は拳を握りしめた。云わんとしていることは劉備にも分かった。少数だったとはいえ相手は屈強な胡兵で、こちらも里を守ろうと命をかけて戦った。それを鑑みれば冷たい仕打ちだと、張飛は憤っているのだ。

「理解されなくとも構わない」劉備はあくまで冷たく云った。そういう云い方しかできなかったが、張飛なら解ってくれるだろうと思っていた。「豪族の務めだ、これが。兵を率いて自領を守り、民を統べ、祭祀さいしを執り行う。人と獣が交わらぬように、豪族もまた只人から別たれ、荘園の守り神として畏れられねばならん」

 俯いた張飛の頭巾から、雫が滴り落ちている。周りの十数人にも聞こえるよう、劉備は声を大にして云った。

「そいつが嫌なら此処から下りろ。俺は、無冠の王だ。孤独も困難も恐れはしない」

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