一、閉じた文明 4

 

 眠らず駆けて三日後の明け方に城へと着いた。報酬を貰い、皆まる一日、死んだように眠った。

「兄貴ー!」

 駐屯用に借りた無人屋敷の中庭が、宵の薄明の中に広がっている。劉備は井戸の側で長髪をかき上げ振り向いた。ぼうぼうと生い茂った草の向こうに、夕餉の準備をする手下の影が動いている。

 劉備は手櫛で馬油を塗った髪を梳き、手についた油を拭って近付くと

「ちょっと待ってろ」

 と走ってきた張飛へ云い聞かせ、髪を丁寧に編み込み、髷を結った。さなか、じっと見上げる張飛へくすりと笑いかける。

「何だよ」

「いや。洒落てるなあと、思ってさ」

「やってみたいか?」

「まぁ」

「ませやがって」劉備は戯れに、脇で張飛の頭蓋を固めて笑った。「加冠してからだぞ、そんなのは」

「分かってるよ」

 と張飛も笑う。簡雍と並んで、劉備にとっては身内に等しい一人だった。年はまだ十四だが、数年前に賢く気骨もあるのを気に入って、琢県の貧家の子だったのを拾って養っている。

 張飛は劉備の脇から抜け出すと、手にした小刀を軽くちらつかせ、肉の解体が進んだと得意げに云った。金を出したのは劉備だが、料理は全て手下に一任している。汚れ仕事を嫌った訳では無い。倫理を重んじ人を傷付けることを疎む儒教社会の中で、いぬ豚を殺すことより忌み嫌われる行いを、劉備はずっと続けて来ている。それでも己が豪族であることを忘れるつもりは無かったのだ。

「供物の狗は一匹残してあるよ、兄貴」

 両手を腰に当てて、張飛が誇らしげに云った。気の利く子供なのだ。

「今年ばかりは、お前も祈りゃいいのによ」

「飢えてる時にも粟粒一つ恵んでくれなかった鬼神様に、俺はあんまり祈りたかねえかな」

 劉備は苦笑した。張飛は鬼神に祈らない子供だった。祀りはするが、それも劉備が望んでいるからのことであって、心の底から見えないものに祈るという事をしなかった。

「俺にとっちゃ、祈るべき鬼神は兄貴だよ」

「違いねえや、良いこと云うなー、飛」

 酔いの回った男共の野次を聞きながら、劉備はやしろ代わりに詰んだ石の前へ進み出て、張飛が残しておいた狗と酒とをまず赤帝に捧げ祈った。続いて三皇さんこう(神話の神々)と五帝ごてい(神話の聖王)と土地の鬼神、そして先祖の——父や祖父や赤龍の霊へ祈る。

 赤帝は万物を形成する土、金、水、木、火の五行や陰陽の内、火の徳を司る鬼神である。今日は国家の休日たる夏至の日であった。陽気や火徳の高まる日であるから、陰陽の調和を守るため静かに過ごすべきとされる。

 ささやかな祭祀を終えると、肉は忽ち切り刻まれて、僅かな蕪菜や野草と共に幾つもの大鍋の中へ放り込まれた。間も無く煮立って、醤と肉と野菜の煮込まれたかぐわしい匂いが一帯に広がる。劉備はそれを素早く、全員に等しく行き渡るよう取り分けた。祭祀の日の作法である。受け取って皆笑った。肉の少ない水っぽい汁だが、それすら有難がるような連中がほとんどなのだ。

 流民やごろつきと云っても、要は不作や賊害に悩まされ、在るべき場所からあぶれた若者達である。農耕民族である漢人にとって、田畑や故郷を捨てるのは褒められた行いでは無かったが。この世には、法や道徳では決して救えぬものがある。仁侠はいつだって国家の伝統として、そんな人間たちの寄る辺となってきた。

 大鍋が空になった頃、もう日は完全に沈んでいた。劉備は、手元に残された二つの椀を見やる。一つは己のものである。もう一つは——。

「長生は、何処行った」

「知らね」手下と共に焚き火を囲んだ簡雍が、椀を啜りながら振り返った。「さっきまで大の字で寝てたけどよ、その辺で。どっか行ったんじゃねえかな」

「どっかって、何処だよ」

「だから知らねえって。放っといて食えよ、腹減ってるだろ」

「飯を配んのは頭の役目だ」

 簡雍の気遣いを全く聞かずに、劉備は両手に椀を抱えて踵を返した。門ははなから開け放たれている。夜道は暗かったが、ところどころ灯った明かりのおかげで宿外の辺りに関羽の背を見つけることができた。劉備は歩み寄り、近くに腰を下ろした。辺りには誰もいない。

 関羽が座したまま、

「何で出ない」と劉備を見上げて云った。「仕事は、終わったんだろ」

「夏至だぞ、今日は。休みだ」

 関羽は憮然としたままだった。だから何だ、という顔だ。

「お前のだ」劉備は構わず片手の椀を押し付けた。「俺の家の習わしなんだよ、夏至の日に狗鍋ってのは」

「関係無い」

 暫し睨み合っていたが、先に折れたのは関羽だった。引ったくって貪り始める。劉備も己の椀に口を付けた。塩気は薄いが、肉の脂が甘い。互いに今日初めての食事だった。

「地主の真似事か」

 空きっ腹が半分ほど満たされた頃、関羽が吐き捨てるように云った。

「地主の仕事を知ってるのか」

 劉備はあくまで友好的に笑いかける。関羽が舌打ちし、不機嫌そうに眼を逸らした。

「……塢主うしゅの、倅だった」

「それで、人殺しってのは」劉備は吃った。は一種の自治集落だ。外敵の侵入を阻む城壁に囲まれ、ぬしには地元の名士が選ばれる。その倅であったということは、関羽は卑しい身分の出ではないということである。「おまえ。流民でも殺したのか」

「殺したのは、一族だ」

「は?」

「仁愛ってやつが理解できない」

 と関羽は云った。劉備は多少面喰らった。

「近しい人間へ向ける、人から人への愛情だ。人間の道徳の根本にあるものだ」

 人を思いやる仁愛や親への忠孝は、儒教の最たる要である。武による統治など以ての外で、子が親に尽くすよう臣が君に仕え、親が子を愛するよう君が臣を愛せば国家の秩序は成り立つのだと儒家じゅか(儒教の信仰者)は説いた。一族の調和は秩序の根幹であり、親不孝などすれば二度と陽の目を見られなくなる世の中だ。

「狼を、見たんだ」

 関羽は云った。

「狼? ここらじゃ見るが、河東の辺りに狼なんて出るのか」

「居た」それまでにないほど、強い口調で関羽は云った。「俺は確かに見た。壁の中から、一匹の獣を。呼ばれたのだと思った」

 堰を切ったように、しかし淡々と、日頃から解らないことが多すぎたのだと関羽は語った。何故人殺しが悪いのか、と劉備に尋ねた、あの時の口調によく似ていた。

「俺の生きる場所は、ここでは無いと思い続けていた。を捨てた。止める奴と邪魔する奴は、全て殺した。それまで殺さなかっただけで、殺さない理由は特には無かった。——解らないか、あんたにも」

「そりゃ俺にだって、儒の意識はある。濃くても薄くても、漢人人間にはみんな在る」

「そうか」

 関羽は顔半分を袖に埋めた。幼い横顔であった。だが皆人が一生かけても犯すことの無い禁忌を、彼は当然のように犯している。それは齢も人種も関係無く、持って生れた素質のようなものだろうと劉備は思った。

 鮮明に、鮮卑との戦いが蘇る。

 、外の生き物。里に定住し親を敬い調和を重んじ、徳ある君子を尊ぶ漢人人間と異なり、流浪し、足手纏いなら親をも斬り捨て、若く力のある戦士を尊ぶ。人と獣を別つのは、感情の繊細な変化であると古人は説いた。獣は吠えることしかできないが、人間は音楽を紡ぐことができる。仁愛によって秩序を形作ることができる。それが中華の倫理であるのだと。

 ならば関羽は獣だろうか。劉備は考えた。己は、中華の倫理から外れたその姿に、人から外れた鬼神の影を見たのではないか。



「それでも、認める」と劉備が云った。関羽は振り向いた。劉備と目が合う。「人から外れた生き物が、確かに居るってことをな」

 変わった男だ、と関羽はやはり茫洋と思った。

 情愛の解る人間になれと幾度罵られようと、己ははたから仁愛の解らぬ鬼獣であった。野に生まれた獣が狭い檻中を疎むように、己が己として生きてゆくために、己を狩り殺そうとする人間どもを殺し返して生きてきたのだ。それだけで何故除かれようとするのか。関羽には解らなかった。後に残るのは、拭い去れない不快感ばかりである。だが

——『鬼だ、俺は』

——『誇りと云うんだ、それは』

 劉備の隣では、それが無かった。認めていたのだ、この男は。初めから、己が在ることを認めていたのだ。風が吹く。外からの風、やけに馴染んだ。劉備が笑う。隣の地面を、軽く叩いて指し示す。関羽はにじり寄った。身体ごと吸い寄せられるような心地があった。

「お前を殺そうとしたものの、正体を知ってるか?」

「知らん」

「時の流れだ」劉備は真直ぐとどこかを指指した。先には高くそびえる土色の城壁があったが、その向こうにある以前見た山よりも、更に遥かな場所をこの男は語らっているのだろうと関羽は思った。「その昔、獣と人が別たれていた時代はあった。ここから五百里(二百キロ)も北に行けば、万里の城が見えてくる」

 四百年前、始皇帝の建てた万里の城が、内と外とを別つ象徴になったのだと劉備は云った。黄河付近を中心に地続きで曖昧だった境界を、王者が明確に隔てたことによって、中華と漢人の存在は確立されたのだと。そしてそれは同時に、胡の存在をも確立したのだと。

「今はもう、ほとんど整備されずに朽ちている。光武帝(後漢の初代皇帝)の時代になって烏丸や匈奴が内に移住すると、役目は終わりだと放置されてな」

「奇妙だな」

「あ?」

「荘園の壁だの、塢壁だの。壁の中にまた壁を作って、そうまであんた達は何を恐れる」

「異なるものをな」夜空を仰いで劉備は云った。横顔に時折、纏め損ねた細い髪の束がかかって揺れている。「それは何より大切なことだ。畏れがあるから聖域は生れる。そこに、人ではないものの居場所がある」

 別たれているべきだ、と劉備は強く口にした。またも吐き捨てるような語気であった。

「この世の全ての命には、生れながらに役割がある。獣を中華の内に住まわせて、漢の法で裁くのは間違っている」

「……」

「老子(儒家の隆盛以前に栄えた道家の祖)に曰く、財宝を貴ぶから盗人が出るように、法を増やすから罪人が増える。四百年前。高祖がしんを破った際、定められた法はただの三つだけだった。昔へ戻るべきだ。間に合わせの法や道徳じゃなく、優れた王者が直接、器で以て統治していた時代に」

「施政者みたいだ」 

「王様なのさ、俺は」

「は?」

 悪戯っぽく劉備は笑った。胡散臭い男だった。

「無冠の王、という言葉がある。人の形をした鬼が居るんだから、冠の無い王が居たって不思議じゃないだろ?」

「……そうかもな」

 話が解るとまた劉備が笑った。彼の語口は荒くれのようであり、武人のようでもあり、時に気取った役人の——関羽が故郷で疎み殺めた男たちのそれをも思い起こさせるものにもなったが、関羽に不思議と劉備を殺める気はなかった。己を除きたがらぬ人間は初めてだったし、この男の隣で見る景色は鮮やかで真新しく、束縛も無く過ごした時間は決して悪くないものだった。だからこれからも悪くはないだろう、と漠然思い、その予感に従う気になった。ただそれだけの気まぐれであった。だがそれは、これまで得たことのない気まぐれでもあった。

 劉備の揺れる耳飾りを目で追いつつ、関羽は拾い上げた椀に顔を突っ込んで一気に干した。

「うわッ、お前。髪を汚すな。命が宿ってんだぞ」

「いいだろ、別に」

「良かねえよ」そう云って懐から出した手拭いだの布切れだのを、劉備は関羽へ無理やり押し付けた。「ほら、拭いて纏めろ。豪傑はいい格好をしているべきだ」

 関羽はむくれて、髪を頭のてっぺんで束ねて垂らした。本来傍若無人なたちであるが、劉備の押しにいちいち抵抗するのが面倒になっていた。髷は結わない。己が漢人人間の真似をしたところで意味など無いのだ。ため息一つ吐いた劉備を

「玄徳」と関羽は呼んだ。「一生分、喋った」

 劉備は後ろに手をついて座り、暫しきょとんと関羽を眺めていたが

「ならもっと喋れ」と見慣れた微笑ではなく、白い歯をむき出してにっと笑った。「今日一生分喋っても、明日もまた新しく喋れ」

 何か、思うところもある気がしたが、関羽は二の句を継がなかった。今己の内にある、怒りや不満から最も遠いような感情のことを、特別知りたいとも愛おしいとも思わなかったのだ。

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