一、閉じた文明 3


《後漢 幽州広陽郡》


「直なること 弦の如くば 道辺に死す。

    (正直者は 野垂れ死ぬ)

 曲なること 鉤の如くば かえって候となる。

    (嘘つきならば 候になれる)」

 歌が聞こえる。司隷しれいの歌だ。列の最後尾についた関羽は、首をもたげて遠くを仰いだ。全てが解と異なっている。果ての無い天。眩いほど蒼く大きな空の帳が、今にも墜ちて来そうだった。鞍から滑り落ちそうになりながら振り返ると、馬を仕入れた城はもう豆粒のようになっている。紫色を帯びた山に四方を取り囲まれた草原の中、林や街道や放牧された羊の群れが点在していた。

「落ちるぞ」

 傍の劉備が笑った。何が可笑しいのか関羽には解らなかったが、殴る気にもならないので放っておいた。劉備は前方に気をやったり口笛を吹いたりしながら時折、この辺りは雨季と乾季が別れているのだとか、乾季になると草原は消え痩せた土だけが残るのだとか語ったが、関羽はほとんど聞かずに風の匂いを嗅いでいた。鼻を刺す乾いた緑の匂いの中に、幾らか獣の臭いも混ざっている。

「北の匂いも、初めてか」劉備が伸びをしながら云った。振り向くだけで落馬しかけた関羽と異なり、多少無茶をやっても体勢は保てている。「ここは、随分外に近いからな」

「外?」

「万里の城の外側さ。獣の暮らす聖域だ」

「虎でも、居るのか」

烏丸うがん。“外”の生き物だ」

 そう云って、劉備は不敵に笑んだ。


 人の居る所には、いずれも外と内がある。枠組みの外。意識の外。そして、中華の外。

 中華——この国の王朝の系譜は古の神々から正統の糸で一本に繋がっていて、それこそが世界の中心である、という概念のことだ。漢人は中華の“内”で生き、その中心から外れた外人を蔑む。

 北の異民は『北狄ほくてき』——獣。

 東と西は『東夷とうい』・『西戎せいじゅう』——未開人。

 南は『南蛮なんばん』——虫けら。

 漢帝国のうち、北狄と交わる機会が多いのは最北の三州——羌族きょうぞくと交わる北西の涼州りょうしゅう、匈奴族の住む中北の并州へいしゅう烏丸うがん族が住む北東の幽州ゆうしゅうであった。広域に出没する鮮卑せんぴ族というのも居り、それらをまとめて(外のもの)とも呼ぶ。

 胡は外の民族ではなく、内からの逃亡者。古代夏王朝の内紛の敗者が、後世の敗残兵と混じって蛮化したもの。それが中華の内での教えだった。だが胡と接する北の人間は、劉備や簡雍は、それが偽りだと知っている。中華から離れた“外”の生き物が、この世に存在するのだと。劉備はそういう、内と外の間に育った。

「昔な」劉備はおもむろに切り出した。「ずっと昔、数千年も昔、夏国かこく禹帝うていの記した地図にはな。俺の故郷の辺りにも、鬼や獣の類が仰山描かれてたよ。外だったんだ、昔は」

「今は、居るのか」

 関羽が喰いついた。劉備は柔く苦笑して

「いない」と、云った。「五百年前の地図にはもう居なかった。あるのは山川の地形図だけさ。鬼なぞ居ないと——せいぜいが虎狼や胡の類だったと気付いたんだと、その地図を見せて下すった、偉い先生は仰られたね。そのまま、恐れときゃ良かったのにな」

 劉備は吐き捨てた。それから黙った。関羽は見ている。互いの肩に、青っぽいしじまの匂いがのしかかっていた。劉備が、二の句を継ごうとした時。

「獣だ!」

 胡角こかく(角笛)が鳴った。有事の合図である。隊内の其処彼処で次々響いた。

「獣が来たぞお!」



 聞くや劉備は駆け出した。陣形を組み替える手下の姿が視界の端を飛ぶよう過ぎる。前方から駆け寄る一人に呼びかけた。

!」

「賊です、数は百ほど。全て軽騎兵です」

 田豫でんよの応えははっきりしていた。十七という齢で一隊を預かる聡明な若者である。頷いて、止まらず劉備は駆け上がる。先頭に立って北を見据えた。迫り来る影、距離は三里(一二〇〇メートル)ほど離れていたが、直ぐに二里(八〇〇メートル)以下にまで近付いた。騎兵の足と弓の射程を鑑みれば、十二分に危うい距離である。

「其の方、烏丸と見受けるが!」馬に跨る獣の群れへ、劉備は声を張り上げた。烏丸は百三十年前の来朝以降、天子の許を受け幽州内に居住している。琢郡近くにも幾らかおり、言葉は多少通じるはずだった。「琢県劉氏の備、この名に覚えあらば退け!」

 胡兵が更に近付く。大まかな身なりすら見て取れるようになった。振り乱した髪に左前の胡服。漢人と対称的なその姿こそ、獣と呼ばれる異形の証である。

 劉備は右手を小さく掲げた。陣形は既に組み終えている。左右両翼に軽騎兵、後方真ん中に歩兵の弩弓どきゅう(ボウガン)部隊。漢人の発明した、胡兵を迎え討つための強弓だ。

 獣が迫る。数歩離れた地面の上へ、ぶつり、と突き立つ矢が在った。劉備が弓を構え、まさに駆け出そうとした時である。

 背後から、一騎が突出した。関羽だった。



 関羽の額を狙う矢尻が、青空の元で燦と光った。

 誰より素早く劉備は馬に鞭くれた。関羽に追い縋る。引きずられていくように二人で群れから突出した。指輪を用いて弦を引き、矢を素早く番えて引き絞る。ひょうと放たれた矢は異民の額に突き立ったが、彼方にはまだ彼を狙う二、三の射手が在った。

「止まれ!」

 追う劉備が、黒馬の尾へ手を伸ばした時。

 関羽が馬を捨て跳躍した。

 疾駆する勢いのまま前方に飛ぶ。振り抜く白刃の煌めき。思わずかざした掌の、指の隙間の向こう。すれ違いざま斬馬刀が異民の身体を真っ二つにするのを劉備は見た。数瞬遅れて血霧が吹き出す。溢れる臓物ともども地面になだれる肉塊の断面から、粉砕された真白い骨々が輝くように覗いていた。

 劉備は思わず手綱を引いた。常軌を逸している、と思った。片手で斬馬刀を引きずって、単身胡兵の群れに突入する関羽の背中に、牙を剥いた獣の姿を見た気がした。

 関羽がうざったげに首を捻る。長髪を掠って矢が過ぎた。見てから避けたのだ。そのまま走り、大刀を薙いで馬の前脚を断ち切った。また血を被る。後ろを取られたが、返す刀で叩き斬る。地に投げ出された胡兵が頭を割った。目もくれずに前進する関羽の、討ち漏らした一騎が、刃を抜いて劉備に迫る。

「烏丸か」

 手にした弓で受け止めながら、劉備は問うた。

「——!」

 唾を飛ばし異民が喚く。漢の言葉ではない。舌打ちして、劉備は弓で騎兵を殴り倒した。傍を駆けざま蹴り落とし、蹄で頭を踏み潰す。遅れた手下が背後から追い上がってくる気配があった。劉備は弓を鞍に提げ直し、胡角の紐を己の首にかけながら云った。

「弩弓は前に出て、中央で構えろ。騎兵は左右に分かれて後ろにつけ」

 並んだ田豫が復唱し、連絡役が太鼓を叩いて全員へ報せた。田豫を右翼へ行かせ、劉備は左翼の先頭につく。

「飛」歩兵近くに控える張飛が振り向いた。機転の良さは劉備も認めるところだが、前線に出すにはいささか若い。馬術と腕っ節が物を云う騎兵の中には組み込めなかった。「胡角を鳴らせ。あの突っ込んでった阿呆の気を引けるくらい、特大のを」

 張飛が頷いた。胡角の音が野にこだまする。関羽が振り向き、素早く脇へ走り出す。

「射て!」

 百近い兵が弩の引き金をいっぺんに引いた。関羽が後退させた前線にも問題無く届いている。弩の強い張力は弓の倍近くある射程を生む。遠方で崩れ落ちる人影が、砂塵の向こうに朧げに見えた。胡兵が臆せず迫る。散開し的を散らしながら間合いを詰めた。弩の連射が利かぬことを知っているのだ。

 味方の太鼓が鳴る。劉備は先陣を切って歩兵の後ろから飛び出した。右翼も同じ速度で上がって行く。風のような速さだ。草原が揺れる。歩兵が襲われるまでに。疾く、疾く。二度続けての太鼓の音。陣形を雁行の形に組み替える。劉備は馬に何度も鞭打ち、胡角を素早く口へと当てた。左右騎兵が展開し飛び込んできた胡兵を包囲した瞬間、大きく吹き鳴らす。がら空きになった胡兵の横腹へ、全ての騎兵が迎撃の矢を浴びせかけた。

 胡兵はすぐさま馬首をひるがえし、劉備が予め空けておいた退却路へ向かった。追撃はしない。互いに生業であって戦ではないのだ。もしこれが戦になれば、数の利さえあれど殺戮の憂き目に遭うのは此方だろう。漢人にとって特殊技能たる馬戦や騎射も、遊牧民にとっては幼少から親しんだ習慣に過ぎぬ。そも馬戦自体が胡の文化を取り入れてのことである。内外の間に生きる人間は、外と鬩ぎ合うことで強かになってきた。

 土煙を上げ颯爽と去りゆく獣の群れを、劉備は柔い追い風に抱かれながら熱っぽい眼で見つめ続けた。厳しい草原を生き抜くため、住居や道徳を持たず草水を追って旅を続けるその生き方は——太古から変わることのない伝統は、混じり気の無い、透き通った氷のような美しさを携えていた。



「何だって、烏丸が」

 下馬した簡雍が隣で云った。違和感は劉備も同じである。

 幾度も交戦する内、この一帯の烏丸は劉備の兵を避けるようになっていた。劉備も派手な外套を纏い目印にした。盟約など無くとも互いを恐れて遠ざけ合い、そこには人が鬼神を畏れるのに似た不思議な力が働いていて、劉備はそれが好きだった。よこしまな人間たちより、烏丸は余程強さに素直だった。

「いかれてますね、獣は」誰かが蔑むように口にした。「二年前も確か、朝廷に叛いてここらで暴れたんでしょう。ばかだなあ」

 劉備は振り返った。手下の顔は全て覚えている。幽州の出ではない、若い新入りだった。不作が増えた近頃では、仕事を求め流れて来る民も多いのだ。

「お前、烏丸が何で朝廷に叛いたか知ってるか」

 張り出した枯れ木の根で、細やかな靴裏の土を削ぎ落としながら劉備は云った。

「えっ」

「知ってるのか」

「いえ……」

「朝廷がな、兵糧すら満足に用意せず、羌族討伐に烏丸を駆り出したんだよ。獣の始末は獣に——汚れ仕事は下の奴らに押し付けた、そういう具合さ。道徳を重んじる士大夫は、血生臭いのを嫌うからな」

 彼が俯いた。強い語気に怯えたのか、それとも己を恥じたのか。どちらでも構ぬと劉備は続ける。北で生きる以上、知らねばならない生き方がある。

「古の時代、城壁内に住む都市の民は国人と呼ばれ、野に住まう辺境の民は野人と蔑まれた。俺たちとて元は野人だ。獣は蔑む相手じゃない」

 獣を知らぬ人間たちへ、劉備は繰り返し云い聞かせてきた。彼らは厄介極まりない隣人であるが、滅ぼすことなど出来はしないし、仇でもないのだと。そも獣を内に引き入れたのが問題なのだ。かつて獣と人間が明確に別たれていた時代はあった。それを変えたが故に、こういう諍いがあるのだと思っていた。獣は獣のままで良い。生き方を変え、漢人人間になることなどあってはならない。

 散開している全ての手下を、劉備がもう一度集めようとした時。蠢く雲の合間から漏れた光の筋が、大地を等しくゆるりと舐めた。視界の端で何かが煌く。見ると、地に放り出された胡の骸だった。劉備は近付き、覗き込んでから

「違う」と云った。「違う、烏丸じゃない」

「はあ?」

 困惑する簡雍に、骸の帯の留め具を指し示す。金の帯拘に、龍に似た霊獣の細工が施されていた。

鮮卑せんぴだ、これは」

 長城外に住む蒙古系の民族である。同じ東胡とうこ族を祖とする烏丸とはよく似た文化を有しているが、その領土は広大で、高句麗付近から天竺インドの北付近にまで及ぶ。

「そりゃ、ねえだろ」簡雍が肩をすくめた。「奴らが出るのはもう少し北の、幽州や并州の田舎の方だし。鉄騎だって話じゃないか」

「私は、鮮卑だと思います」話を伺っていた田豫が云った。彼は万里の城に程近い漁陽ぎょよう郡の土豪の出であるが、胡の掠奪を避け母と南へ流れて来ている。胡には人一倍詳しいのだ。「この規模なら、偵察用の小隊でしょう、軽装でも不思議じゃない」

「偵察、って。何の」

 簡雍が尋ねた。

「さあな、用心しておけ」

「うへぇ」劉備の言葉に、簡雍は気の抜けた声を上げた。「馬の警護役ってのも、そろそろ潮時なのかもなァ……。そういや平原の劉子平りゅうしへいってのが、おめェを抱えたがってるって噂を聞いたんだよ」

「行きましょう」幾人かが進み出た。「張商人はもう、頭をほとんど手下のように扱っているじゃないですか。客分だって約束も、今じゃほとんど反故にされてる」

「そうです。頭の腕なら、どこでだってやって行けます」

 だが劉備は

「仕事を片付けるのが先だ」

 と冷ややかに云った。故里を抱く琢郡は中山国の隣に位置する。先祖代々暮らした土地から離れることは避けたかった。人は死ねば鬼神になるが、先祖の鬼神を祀るのが子孫の負うべき役目である。何より

——変わるというのは、恐ろしい。

 劉備の頑なな口調に、周りの男どもも口を噤む。空虚な沈黙の中に、離れた場所で騒ぐ手下たちの喧騒だけが間を縫うように差し込んだ。かこつけて

「集めて来る」

 と云うと

「早く戻れよ、置いてくぞ」

 簡雍が茶化した。

「やれるもんならやってみろ」

「あっはっは、そうだなあ。お前が居なくちゃ何にもできねえ、俺ら」

 いい加減で気まぐれなこの義兄の、こういう朗らかなところが劉備は好きだった。一人離れて騒ぎの方へ出向く。幾人かが鮮卑の屍から金目の物を拾っていた。

「やめろ、みっともない」

 劉備が声を上げると、振り向いて、そそくさと畏まりながら

「でも頭、見てくれよ」と云った。「こいつら、俺たちよりいい物を持ってる」

「お前たちは劉玄徳の手下だ。誇りを持てと、いつも云ってるのを忘れたのか」

「けど」

「食うに困ってるんなら、俺が何とかしてやる」劉備は顎で彼方をしゃくった。「早く行け。敵の乗ってた馬でも、拾って来い」

 手下は慌てて去った。胡の馬は質が良く、張世平が売り捌けば一頭で二年は食える額になる。劉備が口を利いてやればその一割は貰えるだろう。

「あんたは」いつしか近くに居た関羽が云った。劉備の譲った良い着物は頭から被った脳漿やら臓物やらに塗れており、黒漆とした髪と返り血の中に、眼の明るい茶色がやけに目立って見えた。「死体から金品を剥ぐのは嫌なのに、敵の乗ってた馬は奪うのか」

「馬だけだ、持ってくのは」

「変な、こだわりだ」

 関羽は茫洋と云った。凄惨な格好をしながらどこか上の空でいるよう劉備には思えた。

「なあ、鬼」この男には、何かが欠落している、と思った。人間を人間たらしめる、重みのような何かが。「人間ってのはお前のようになりふり構わず、一貫して生きてはいけないのさ」

「……」

「この軍団の経営は、俺がやっている。上手いこと商人の機嫌を取って、部下を食わせて行かにゃならん。それでも失えないものがあるから、一線を設けるんだ。越えちゃならん一線を」

 蒼い、派手な外套が、視界の端で鮮やかにはためいた。北の香りを孕んだ、一陣の風が吹いてゆく。劉備は指輪を嵌めた右の手を己の胸へと添えながら、堂々関羽の方へと向き直った。

「長生。そいつをな、人は矜持と呼んできた。強く在る、という証だ。だから守る。俺は、必ず」

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