一、閉じた文明 2


 太鼓が響き、市も開き出した夜明け前。劉備は蒼い外套の紐を結わえ直して飯屋を出でた。肩に矢筒と弓とを背負い、腰には剣と薄餅の束を吊るしている。

「逃げなかったな、お前」

 後方を振り返れば、

「逃げるのは、弱い奴のすることだ」

 関羽が不躾に呟いて、青い縫取りの入った派手な着物の袖をたくし上げた。昨晩酔い潰されたこの子供は、不思議なことに今朝も劉備の元に留まっている。

「お前だって、逃げたことくらいあるだろう」

「無い」迷い無く、関羽は云った。「去ったことはある。でも逃げたことはない。俺には何も恥じることがない」

「去っても、逃げたことはない」

 劉備は噛み締めた。誇りがある、と思った。そういう態度に侠心をくすぐられたものだから、飯を食わせて着物を譲り、仕事にまで誘ったのだ。『鬼の住処を見せてやる』と云うと、二つ返事で乗ってきた。劉備は役所前の広場へ足を進めた。

 石造りの水時計の傍、武器を携えた五百人の男たちが馬と共にたむろしている。劉備の手下である。客や少年(ごろつき)、三年前の黄巾こうきんの乱から逃げてきた流民などが主な成員で、元は上役からの借り物だが、今や半分ほどが劉備を慕って個人の麾下と化している。身分を気にせず能さえあれば金や住処を分け与え、実の子弟のように扱った故である。

「あッ、兄貴!」

 手下の一人が劉備に気付いて手を振ると、広場の端に役人が縮こまって道を譲る。張世平の荘園(私有地)の中に在るこの城では、客の権限は下手な役人より強かった。

「頭!」

「兄貴!」

 数百人の手下が押し合いへし合いして劉備に駆け寄る。その最前に己より年少の子供が居るのを認めて、関羽が

「ガキも居るのか」と不躾に吐いた。

「なんだよ、お前」

 子供が丸い瞳でじっと関羽を睨めつける。関羽も睨み返して刀の柄に手をかけたが、横に割り込んだ劉備が彼の額を爪弾くと舌打ちしながら刃を収めた。

「あいてっ」

。下がってろ」

 劉備は関羽の方へと向き直って

「張飛ってんだ。俺の弟分でな」と雅言がげんで述べた後、手下どもへと向き合って「新入りだ。物騒な奴だから、あんまり煽るな」

 とも中山の言葉で云った。離れた地方同士では言語も異なる。雅言は士大夫(高級官僚)が教養として身につけるような共通語であったが、元は夏言かげんと謂い、古代の王朝が存在した黄河流域の言語であるから、関羽の言葉とよく似ているのだ。

「昨日のガキだろ、そいつ」

 人の良さげな丸顔を僅かに顰めて、簡雍かんようが声を上げた。劉備と同郷の幼馴染で、契りを交わした義兄でもある。

「文句あんのか、憲和けんわ(簡雍のあざな)」

「文句、じゃねえけど。まぁた、都合の悪い時になあ。桂月けいげつ(旧暦八月)になりゃ案比あんぴ(徴税のための戸口調査)があるんだぞ、どうすんだ、そいつの税」

「張商人に頼んどけ」

「前みたいに肩代わりしてくれるかね。お前、頭目脅したろう」

「いいだろ、別に。口約束で結局流れちまったし、最近は舐められ過ぎだった。あれくらいの脅しで丁度いい」

「相当怒ってんだぞ、今回ばかりは」

「だから何だってんだ。俺ァ元来客分なんだぞ。そういう約束で手を組んでる」

 これ以上は無駄だと肩を竦める簡雍を尻目に、劉備は手下の引いてきた馬に跨った。兵糧の数が計算分を下回っていないのを確認し、歩隊と騎隊で列を組む。十人ずつに分け『じゅう』、『什』を五個集めて『隊』。それぞれの什や隊に監視役を置き、陣形も幾らか覚えさせている。

「長生。お前も乗るんだ」傍の黒馬のたてがみをさすって、劉備は云った。関羽のために用意させた馬だ。「乗馬は、できるか?」

「得意じゃない」

「下手くそらしいぜ、馬に乗るの」側で聞いていた簡雍が笑うと、近くにいた者たちも笑い始めた。この男は司隷から琢へと越してきたので、雅言はある程度理解できる。「案外可愛いとこあるもんだな。がきんちょ」

「ぶった斬るぞ」

「何やってんだ」馬上から、劉備が睨んだ。「憲和、いい歳して餓鬼を煽るな。長生も、犬っころみてえにやたらめったら噛みつくな」

 一声で隊列は静まる。号令をかければひと塊りとなって流れ出した。劉備は留まって、その様を誇らしげに眺める。寄せ集めの調練には苦労したが、その甲斐あって今や腕利きの兵団だと評判だった。

「気を悪くするなよ。馬ってのは北でしか育たんからな。俺たち幽州の人間は、乗馬にゃ巧みな奴が多いんだ」

 幽州は漢内でも数少ない馬の産地である。肥沃な牧草地に恵まれ、嘗ては遊牧民族も暮らした場所であった。

「あんたもか」

「手下の中に、俺より乗馬に秀でた奴はいねえよ」

 関羽がむっとしながら手綱を掴んで馬に跨る。力任せの雑な騎乗に暴れる馬を、劉備は手を伸ばして宥めてやった。

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