昔話(7)
納骨から2年の時が流れていた。
人差し指からガーゼに垂れ落ちた血を、二郎はぼんやりと見ていた。
「また強くなりましたね」
傍に座る老医師が、穏やかな口調で言う。
「当主さまに報告しておきます。きっとお喜びになりますよ。……さぁ、今日はお休みください。もう8月も終わりですね。特に暑い時期なので、体調を崩されないよう」
昔から二郎を診ている彼は、話し方に似合った温和な笑みを浮かべて、指の傷口を手当てする。血の状態を確かめるために使用した針とガーゼを片付け、部屋を出て行った。
シンと静かになった空間で、二郎は絆創膏に触れる。
確かに自身でも感じる。
2年前よりも、自分の血に込められた力は確実に強くなっている。
丸窓に目を遣った。
障子越しに差し込んでくる光の眩しさと、聞こえてくる蝉の鳴き声に、随分と久しぶりに外へ出たくなった。
父の形見である紫の数珠を手首に付け、窓を乗り越え、裸足で竹林に入っていく。
しばらくすると、あの地蔵に出会った。
進めなかった。
やはり、ここから向こう側に行けなかった。
(……中身は2年前と何も変わっていない)
進化するのは血ばかりで、自分自身はまったく進歩していない。
何一つ成長出来ないまま、16歳になった。
狐は〝大人になるまで待つ〟と言ったが、それはきっと20歳を指すのだろう。
あと、4年。
(4年後には、変われるのだろうか?)
––––無理だ。
自分で投げかけた疑問に、自分が答えてくる。
2年もの間、自分は何をしていた?
ただ部屋に閉じこもっていただけではないか。
それは家が裕福だから許された。
身体が生まれつき弱いから、誰にも咎められなかった。
〝あの人はいつか狐を殺してくれる〟という周りの期待が、免罪符となっていた。
(誰かに、話してみようか?)
ダメだ。
と、やはり自分が即答する。
狐が怖くて、父がいなければあの化け物と戦えないなんて、絶対に言えるはずがなかった。
近衛家で最も力が強い者は自分だ。その自分が弱音を吐いたら、どれだけ皆を失望させるだろうか。不安にさせるだろうか。
(どうして僕のような奴に、こんな血が宿ったんだ)
もう一度、絆創膏を撫でる。
勇気を持たない人間に、どうして力は与えられたのか。
(もっと心の強い人が持つべきだった。なのに、どうして)
どうして。
どうして––––。
考え込んでいるうちに、喉元にふと違和感を覚えた。
硬さと鋭さと冷たさを併せ持つそれの正体は、短刀だった。
無意識に懐から取り出し、刃先を喉に突き立てていたのだと、数秒の間をかけて気付く。
(何をやっているんだ、僕は)
決して自害したいわけではない。今でも狐を殺したい気持ちに変わりはないのだから。
あぁ、けれど、もしも。
(
全ての血が、一滴残らず体から流れてしまえば––––。
不意にどうしようもなく、そんな思いに取り憑かれた。
短刀をそっと移動させ、首筋に刃を当てる。
(ここを、斬れば)
腕を少しだけ、動かせば。
不思議なくらい恐怖も躊躇も感じなかった。
唯一胸をざわつかせる物は、視界の端に映る手首の数珠だったが、目を閉じてしまえば簡単に逃げられた。
息を吸って、止めた。
柄を思い切り握りしめる。
––––その時だった。
(っ!?)
〝ぷつり〟と細い音がした。
左目を開くと、何の前触れも無く数珠の糸が切れていた。紫色の珠が次々と土を跳ね、四方八方に飛んでいく。
––––〝外の町に興味はあるか?〟
突然、
––––〝お前に会わせたい人たちがいる〟
1つの記憶が蘇った。
あの時、父は母の死について教えてくれた。
駆け落ちした末に、遠い町で息絶えていた母。
遺体から金目の物を奪おうとする連中から、母を守ってくれた女性。
その女性には、子供がいること。
––––〝そいつの名前は『晴』。歳はお前と同じだ。性格は全く違うが……友達になれるかもしれない〟
「
父が呼んだ〝外の人間〟の名前。
その話をしてからすぐに父は死んだ。
「君は、誰?」
彼はどこに住んでいた?
そうだ、確か。
「月城町の……10丁目」
両手から短刀が落ちた。
(会わなければ)
この首を斬る前に、父が〝会わせたい〟と言ってくれた人物に会わないと。
何故かそう思えた。
思った途端、思考が瞬く間に塗り替えられていく。まるで何かに急かされているように、頭がぐるぐると回り始めた。
(10丁目は汽車に乗れば、たぶん2時間くらいで行ける。でも13丁目から出ることは、一族の掟で禁止されている。どうすれば……)
近親婚で血を繋ぐ近衛家は、他所の人間との関わりを固く禁じられていた。
(この屋敷を、密かに抜け出すしかない)
もし知られたら、厳しい罰を受ける。そもそも抜け出せたとしても、13丁目の町すらあまり歩いたことがない自分が、名前しか分からない人物を10丁目で探せるか分からない。
二郎は膝を折って、足元にあった珠の1つを拾った。
(危険な賭けだけど……、会わないと)
いや、違う。
〝会わないと〟ではない。
〝会いたい〟のだ。
会ってみたい。
〝晴〟を知りたい。そして、彼の家族のことも。
(行くなら、いつにする? どうやって家族の目を誤魔化す?)
二郎は、散らばった珠を拾い始めた。
すぐそばに転がる短刀にはもはや目もくれず、必死に紫色を探して集め、ひたすら10丁目に行く方法を考える。
珍しくその脳内からは、〝狐〟や〝血〟のことは消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます