昔話(5)

 7年前の14歳の日。


 二郎は狐に顔を燃やされ、父を殺された。


 狸によって命を救われたが、意識を取り戻すまでに10日もかかった。

目覚めた時、父の葬儀はすでに終わっていた。


(……これが、父さん?)


 二郎の前には桐の箱が置かれている。

 ここに父の遺骨が入っていると教えられたのは、たった今のことだ。


「墓への納骨の儀は、お前が充分に回復してから行う。……最後は兄弟3人揃って見送りたい。だから今はゆっくり休め」


 兄の一郎はそれだけ言うと木箱を残し、二郎の部屋から出ていった。


 二郎は布団から出て、木箱に向き合うように座った。



「……父さん?」



 箱は縦も横も高さも20センチほど。平均よりも背が高く大柄だった父が、この中にいるというのは、嘘みたいな話だった。


「父さん」


 再び呼ぶ。


「父さん」


 当然、返ってくる声は無い。薬品と畳の匂いが入り混じった部屋には、二郎の枯れた声だけが繰り返し聞こえる。


 何回、呼びかけた時だっただろうか。


 空っぽだった心が、ようやく動き出した。

  1つの強い感情が爆発的に生まれる。


「…………て、やる」


 その感情の名は、



「殺してやる」



〝憎悪〟。


 これまで感じたことのない凄まじい憎しみが、二郎の精神を真っ黒に埋め尽くしていった。


 思い出す。

 狐火を浴びた自分を助けようとした父が、狐に喰われた瞬間を。

 あいつは父の首筋を噛みちぎり、父の〝罪〟と〝寿命〟を食い尽くした––––。



「殺してやる、殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる……っ」



 呪詛のように呟きながら、二郎は何日かぶりに自力で立った。壁際にある丸窓を開き、寝巻きと素足のままで外に出る。


 外には、1万を超える竹で出来た林が広がっていた。直進に伸びた土の道によって、竹は左右にバッサリと分けられている。その道は、父が二郎を狩りへ連れ出す時に必ず通るところだった。


 二郎は一歩、踏み出した。刹那、全身の随所に痛みが走る。怪我が癒えていないうえに、狐火で右目を失ったため平衡感覚が掴めず、足元がふらついた。

 それでも進んだ。何度転んでも、痛みと目眩に襲われても、狐への復讐心だけが体を立ち上がらせた。


 しばらくすると、残された左目にふと何かが映り込んできた。

 それは道端にある1体の地蔵だった。



––––〝二郎。地蔵さまに手を合わせよう〟




 父の言葉が蘇る。

 狩りに行く日、父は必ずこの地蔵に拝んでいた。

 二郎は足を止めた。頭の中の父を真似て、右と左の手を合わせる。


 この後は決まって、



––––〝よし、ついてこい〟



 と、父は言ってくる。



(……あ)


 ハッとした。


 地蔵に手を合わせ終え、前を向くと、いつも視界いっぱいに父の背中があったのに。


(いない)


 あの大きな背中は、もうどこにも無かった。


 代わりに、遥か向こうまで続く道だけが見えている。



(……この道はこんなに長かったのか?)



 こんなに広かったのか?


 そして、こんなに暗かっただろうか?


 今は晴れた昼下がりのはずなのに、竹の緑に挟まれた道はやけに薄暗く感じる。


 だんだんと、奇妙な気持ちになってきた。


 数えきれないほど通ってきた道なのに、初めて来た場所のように思えるのだ。二郎がハッキリと思い出せるのは父の後ろ姿だけで、この道に関する他の記憶は曖昧だった。



「兄さん!」



 佇んでいると、笹の葉の音に紛れて、最も親しい者の声が聞こえてきた。


「こんなところで何をしているんですか!」

「……三郎」


 振り向くと、弟が走ってきていた。急いで追いかけて来たのだろう、肩で息をしている。


「窓が開いていたので、もしやと思ったら! まだ出歩いてはいけません!」


 腕をそっと掴まれる。


「他の人にバレる前に、部屋に戻りましょう?」

「……っ」



 嫌だ。

 戻らない。今から狐を殺しに––––。



 そう答えようとしたのに、何故か言葉にならなかった。


 口を中途半端に開いたまま、二郎は元来た道へと引き戻されていった。





 2週間が経った。


 傷はまだ治っていないが、片目だけの生活には少し慣れてきた。

 狐への憎悪は日増しに強くなり、毎日、狐の山に行こうと二郎は部屋を抜け出している。


––––しかし、


(どうしてなんだ)


 二郎には解せないことがあった。


進めない)


 地蔵の前になると、どうしても足が止まるのだ。


 部屋からここまでは来られるのに、それ以上向こうへ進めない。まるで術にかけられたように、体が重たくなる。


 結局この日も弟に見つかって、部屋に戻されるまで、二郎はそこを動けなかった。






 さらに1ヶ月が過ぎた頃、納骨の儀が行われた。


 一族の墓苑は敷地内にある。


 墓苑の最奥に蓮の池が広がり、そこにかけられた10メートルほどの橋を渡った先に、歴代当主の墓は建てられていた。


 喪服を纏う黒い列が、橋の手前で止まる。


 橋を渡るのは、当主の伴侶と直系の家族だけと決まっている。列の先頭を歩いていた一郎と、二郎、三郎だけが進んだ。


 小雨が降っていた。


 弱々しい雨の音と共に、背後から啜り泣く声声こえごえが二郎の耳に聞こえてくる。

 悪天候で、さらに早朝だというのに、蓮の周りには多くの蛍が飛んでいた。雨で暗くなった空気に儚い光が点在する。美しいけれど、どこか悲しい景色だった。



「父さんに最後の挨拶を」



 墓の前に着くと、一郎が静かに言った。

 三郎は骨壷を抱きしめた。


「父さん……! もっと、いっぱい遊びたかった……!」


 ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、石畳を濡らす雨水の中に消えていく。


「育ててくれてありがとうございました。これからは、兄さんたちと頑張りますから!」


 弟の涙を、二郎は眺めた。


(……この子はまだ11歳か)


 こんなに小さいのに、母だけでなく父も失ってしまった。

 兄は18歳になる。その若さで次の当主となり、一族を背負う。


「二郎。お前もだ」


 三郎から骨壷を受け取る。

 けれど、何も思い浮かばなかった。

 自分もお礼を伝えたい。何よりも謝りたいのに。


(これは、本当に現実なのか?)


 夢ではないのか。


 そんなことを考えていた。


 弟が泣いていることも、墓苑に立っていることも、父が死んだことも、全て悪夢なのではないか。


 目が覚めたら、いつも通りの日常があるのでは––––。




「見ぃつけた」




 そんな願望を一瞬で破壊したのは、聞き慣れた無邪気な声だった。




 後ろを向いて、目を張った。


 橋の上の真ん中に、その者はいた。


 大型犬と同じくらいの体長、真っ白の体毛、三日月のような瞳と口を持つ生き物––––。



「狐だ!!」



 瞬間、辺りはざわつき、整っていた列が一気に乱れた。

 男たちは武器を持って前に出て、女子供は後ろに下がる。


「貴様……っ!」


 一郎は自身の後ろに三郎を隠し、狐を睨みつけた。普段の冷静さを欠き、激しい怒りを瞳に宿している。

 三郎もまた、長兄の服を握る手は震えているものの、彼に出来る精一杯の強い眼差しを狐に向ける。


「何をしにきた!?」

「よくも当主さまを!」


 次々に響く一族たちの怒号に、狐は〝はぁ〟と息を吐いた。


「お前らに用は無い。次男坊に届け物があるだけじゃ」


 そう言うと、二郎に向けて唐突に何かを投げつけてくる。

 それは橋と石畳のちょうど境目に落ちた。

 濃い紫色の数珠だった。


「桜郎の落とし物だ。届けにきた」




––––〝よし、ついてこい〟




(これは)


 二郎は思い出す。あの日、父はこれを右腕の手首に付けていた。


「なぁ、次男坊。お前に話がある」


 二郎の視線が、数珠から狐に戻る。


「近衛のガキは成長すれば力が強くなると、狸から聞いた。だから、お前が大人になるまで待ってやる。大人になったら、必ず我を殺しに来い。それまではこの家に手を出さないと、約束してやろう」

「戯言を!」


 答えたのは二郎ではなく、一郎だった。


「貴様の言葉を我らが信じると思うのか。何を企んでいる!?」

「ふふ。我は強い人間が好きなんじゃよ」


 狐の口元が吊り上がった。


「今後、我と対等になれる可能性があるのは、次男坊だけなんだろう? 故に待つことにしたのだ。今の弱い次男坊を殺しても、何にも面白くないからな」

「二郎兄さんは弱くない!」


 喉を振りしぼるようにして三郎が叫ぶと、狐はコテンと首を傾げた。



「いやいや、弱いだろう?」



––––ドクリ、と。


 心臓が大きく脈打ったのを、二郎は感じた。



「そいつが生き残ったのは、父親に助けられたからだ」


 脈がどんどん速くなり、


「そして狸が助命を望んだからだ」


 呼吸は浅くなっていく。


「そいつの力だけでは何も出来なかった」


 体内の酸素が薄くなり、頭が霞んでくる。そんな中で二郎は、


(……殺さないと)


 そう思った。


(早く)


 今すぐ、ただちに、この場で、即刻。


 あの白い体を八つ裂きにしなければ。


 父の遺骨が墓に入る前に。父が見ている前で。


「……二郎!」


 その異変に最初に気がついたのは、一郎だった。


 弟を取り巻く空気がおかしい。


 風など吹いていないのに、髪と着物がふわふわと不自然に揺れている。

 唇からは不規則な息が漏れ、左目の焦点は合っていない。骨壷に触れる指先が微かに震え始めると、一郎は二郎の肩を掴んだ。


「落ち着け! あいつの言葉など聞くな!」

「はは! どうした? もしや泣いておるのか?」

「黙れ!」


 一郎を無視して、狐はケラケラと笑い声をあげる。


「そこの優しい兄と弟は、きっとお前を責めることは出来ないだろう。ならば我が代わりに言ってやる。桜郎が死んだのはお前のせいだ!」

「––––」

「お前が弱かったからだ! お前が足手纏いだったからだ! 一族から桜郎を奪ったのは我ではない! お前だ!!」

「……ぁ」


 声だったのか、それとも音だったのか。

 判別がつかないものが、二郎の口から出た。


 直後、



「うあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」



 獣のような咆哮と共に、風が起きた。


 二郎の最も近い場所にいた一郎と三郎はその場で崩れ落ちた。

 墓を囲む池の水面に波紋のようなうねりが生まれ、蓮を水際まで押し流し、飛んでいた蛍を散らせる。風に荒々しく煽られた小雨は暴雨に変貌し、一族の者たちの頬を叩いた。


「ああああああああああああああああ!!!!」

「っ! すごい……!」


 止まない強風と絶叫の中で、狐は恍惚とする。


「雑魚とは全然違う霊力……。いいぞ、そのまま強くなれ! 我は強い人間が好きなのじゃ! 強い人間を全力で叩き潰し、負かしたい! 屈服させて!辱めて!泣かして鳴かせて泣かして鳴かせて!! それから殺したいのだ!」


 狐が地面を蹴った。

 灰色の空を天高く昇っていく。



「ふふ。待っておる。どうか我を惚れさせてくれ」



 嬉しげに見下しながら、狐は靄となって消えた。


 しかし二郎はまだおさまらない。狐はすでにいないのに、橋の上を見たまま叫び続けている。

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