匂い

 午後15時を知らせる鐘が町に鳴り響いた。

 空気を震わせる大きな音が一定のリズムで15回繰り返される。


「あののことを、どう思いますか?」


 町から鐘の余韻が消えた時、屋敷の門前で立つ三郎が尋ねる。


「分かりませんわ」


 錦はゆっくりと首を横に振った。


「私には、二郎さんの考えは想像もできません。何故なにゆえ、花さんを助けたのでしょうね? しかも彼女を屋敷に住まわせるため、当主さまと〝狐を殺す〟と約束をして……。7年もの間、ほとんど外に出なかったのに。私には、あの方の考えは分かりません」

「……それは僕も同じですよ」


 少しの間を置いて、三郎は続けた。


「貴女に聞いて欲しいことがあります」


 周囲を窺うようにキョロキョロする彼に、錦は怪訝そうな表情を浮かべる。


「今から話す内容は、あくまで僕の想像です」

「三郎さん?」

「二郎兄さんは……、もしかしたら、あの娘の〝血〟を欲しているのではないでしょうか?」

「っ!!」


 錦がギョッとした。


「二郎兄さんは、近衛家を変えようとしているのではないでしょうか? 外の人間の血を一族に取り入れて、近衛が繰り返してきた〝近親婚〟の歴史を止めようと……」

「いけません!」


 今度は錦がキョロキョロして、近くに誰かがいないか確かめた。


「それ以上は言ってはいけません!」

「……そうですね。過去にも近衛家を変えようとした者が何人かいました。その皆が厳しい罰を受けましたね」

「そうです! もし当主さまの耳に入ったら大変です!」

「……僕は貴女にしか話しません。貴女は姉同然に暮らしてきた従姉妹いとこなのだから」

「ならば錦は聞かなかったことにします。どうか2度とそのような話をしないでください……っ!」

「……すみません」


 錦の垂れ耳がピクリと動いた。

 三郎もすぐに異変に気づき、空を見上げる。


 目が冴えるような青色を背景にして、ヒラヒラと揺れる物が見えた。それは重力に従って下降し、三郎たちの目の前に着地する。


「兄さん!」

「二郎さん!」


 2人の声が重なった。舞い降りてきたのは二郎だった。頭からつま先まで深い緑色の外套がいとうで隠している。


「……? どうしてここにいるの?」

「兄さんを待っていたんです! 狐の山に行くのなら、一言教えてください! たまたま通りすがった使用人1人だけに伝えていくなんて!」


 三郎は駆け寄ると、胸元のボタンを外して外套を脱がせた。


「こんなに怪我を……!」


 三郎の手が震えた。破れた服、あちこちから流れている血、赤く滲んだ顔の包帯。三郎は手を震わせ、錦は門を開けて叫ぶ。


「さぁ、早く治癒の術を受けてください!」

「逃がした」

「え?」

「狐を殺せなかった。……逃げられた」


〝すまない〟


 謝る二郎に、三郎は声を荒げた。


「そんなことはいい! 今はその怪我を治してください!」

「いや、先に当主さまに報告してくる」

「何を馬鹿な! 兄さんはただでさえ身体が弱いのに、こんな……!」


 その時、二郎が外套を再びサッと纏った。一体何故なのか。その理由を、三郎と錦はすぐに察した。


 血で穢れた身体を、二郎は隠したのだ。少し向こうから歩いてくる少女の目に触れないように。


 小さな紙袋を1つ抱えた少女、花は全身外套姿の人物を不思議そうに見つめていた。

距離が近くなると、フードを目深に被った二郎が口を開いた。


「……おかえり」

「二郎さま!?」


 花はあたふたして走ってくる。


「すみません、外套があったから誰なのか気づけなくて!」


 謝る一方で、花は疑問を持った。


(どうして外套を着ているんだろう?)


 今日は晴れているし寒くもない。雨と風から身を守るためにある外套は不自然だ。


「……転んだ」


 花の心を読み取ったように、二郎は答えた。


「転んで服が汚れたから隠している」

「え!?」


 花のかたわらで、三郎と錦は視線で会話した。


(兄さんはこの娘を不安にさせないために、あんな嘘をついているんですね……)

(えぇ。二郎さんらしいですわね……)

「大丈夫ですか!?」

「……散歩していたらゴリラに襲われて、濡れた道で滑って転んだだけだから」

(って、嘘に無理があるーーっ!!)

(二郎さん! 前半の部分は別に要らなかったと思いますわ!!)

「そうだったんですか……。大変だったんですね」

(そしてこの娘、普通に信じちゃいましたよ!?)

(花さん! 13丁目にゴリラは生息していませんから!!)


 心配そうにする花は気づかない。三郎と錦の密かな突っ込みと……、背後を飛ぶ梟の静かな怒りに。

 梟は、二郎主人が負った傷を見抜いていた。


「爺や。彼女を部屋まで送ってほしい」

「……」

「……頼む」

「……。かしこまりました」


 二郎は花に目線を戻す。


「町を初めて歩いて疲れただろう? しっかりお休み」

「はい!」


 花はペコリとお辞儀する。二郎は門の中へ入り、三郎と錦が後ろをついていった。


(…………)


 地面を見下ろしたまま、花の胸はドキドキしていた。



がした……!?)



 ほんの微かに、二郎から鉄のような匂いがしたのだ。治安の悪い10丁目で、兄は時々、あの匂いを纏って帰ってきた。



〝うっせーな。転んだだけだよ〟



 どうしたのかと尋ねても、兄はそう言うだけで詳しくは教えてくれなかった。


(私の気のせいなの? それとも)


 二郎さまに何かあったの……?


 ここにゴリラなんているはずがない。そんなこと、花にも分かる。


(一体どうして……?)


 背中にじわりと嫌な汗が流れる。

 花は無意識に、買った文具が入る紙袋を抱きしめた。



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