匂い
午後15時を知らせる鐘が町に鳴り響いた。
空気を震わせる大きな音が一定のリズムで15回繰り返される。
「あの
町から鐘の余韻が消えた時、屋敷の門前で立つ三郎が尋ねる。
「分かりませんわ」
錦はゆっくりと首を横に振った。
「私には、二郎さんの考えは想像もできません。
「……それは僕も同じですよ」
少しの間を置いて、三郎は続けた。
「貴女に聞いて欲しいことがあります」
周囲を窺うようにキョロキョロする彼に、錦は怪訝そうな表情を浮かべる。
「今から話す内容は、あくまで僕の想像です」
「三郎さん?」
「二郎兄さんは……、もしかしたら、あの娘の〝血〟を欲しているのではないでしょうか?」
「っ!!」
錦がギョッとした。
「二郎兄さんは、近衛家を変えようとしているのではないでしょうか? 外の人間の血を一族に取り入れて、近衛が繰り返してきた〝近親婚〟の歴史を止めようと……」
「いけません!」
今度は錦がキョロキョロして、近くに誰かがいないか確かめた。
「それ以上は言ってはいけません!」
「……そうですね。過去にも近衛家を変えようとした者が何人かいました。その皆が厳しい罰を受けましたね」
「そうです! もし当主さまの耳に入ったら大変です!」
「……僕は貴女にしか話しません。貴女は姉同然に暮らしてきた
「ならば錦は聞かなかったことにします。どうか2度とそのような話をしないでください……っ!」
「……すみません」
錦の垂れ耳がピクリと動いた。
三郎もすぐに異変に気づき、空を見上げる。
目が冴えるような青色を背景にして、ヒラヒラと揺れる物が見えた。それは重力に従って下降し、三郎たちの目の前に着地する。
「兄さん!」
「二郎さん!」
2人の声が重なった。舞い降りてきたのは二郎だった。頭からつま先まで深い緑色の
「……? どうしてここにいるの?」
「兄さんを待っていたんです! 狐の山に行くのなら、一言教えてください! たまたま通りすがった使用人1人だけに伝えていくなんて!」
三郎は駆け寄ると、胸元のボタンを外して外套を脱がせた。
「こんなに怪我を……!」
三郎の手が震えた。破れた服、あちこちから流れている血、赤く滲んだ顔の包帯。三郎は手を震わせ、錦は門を開けて叫ぶ。
「さぁ、早く治癒の術を受けてください!」
「逃がした」
「え?」
「狐を殺せなかった。……逃げられた」
〝すまない〟
謝る二郎に、三郎は声を荒げた。
「そんなことはいい! 今はその怪我を治してください!」
「いや、先に当主さまに報告してくる」
「何を馬鹿な! 兄さんはただでさえ身体が弱いのに、こんな……!」
その時、二郎が外套を再びサッと纏った。一体何故なのか。その理由を、三郎と錦はすぐに察した。
血で穢れた身体を、二郎は隠したのだ。少し向こうから歩いてくる少女の目に触れないように。
小さな紙袋を1つ抱えた少女、花は全身外套姿の人物を不思議そうに見つめていた。
距離が近くなると、フードを目深に被った二郎が口を開いた。
「……おかえり」
「二郎さま!?」
花はあたふたして走ってくる。
「すみません、外套があったから誰なのか気づけなくて!」
謝る一方で、花は疑問を持った。
(どうして外套を着ているんだろう?)
今日は晴れているし寒くもない。雨と風から身を守るためにある外套は不自然だ。
「……転んだ」
花の心を読み取ったように、二郎は答えた。
「転んで服が汚れたから隠している」
「え!?」
花の
(兄さんはこの娘を不安にさせないために、あんな嘘をついているんですね……)
(えぇ。二郎さんらしいですわね……)
「大丈夫ですか!?」
「……散歩していたらゴリラに襲われて、濡れた道で滑って転んだだけだから」
(って、嘘に無理があるーーっ!!)
(二郎さん! 前半の部分は別に要らなかったと思いますわ!!)
「そうだったんですか……。大変だったんですね」
(そしてこの娘、普通に信じちゃいましたよ!?)
(花さん! 13丁目にゴリラは生息していませんから!!)
心配そうにする花は気づかない。三郎と錦の密かな突っ込みと……、背後を飛ぶ梟の静かな怒りに。
梟は、
「爺や。彼女を部屋まで送ってほしい」
「……」
「……頼む」
「……。かしこまりました」
二郎は花に目線を戻す。
「町を初めて歩いて疲れただろう? しっかりお休み」
「はい!」
花はペコリとお辞儀する。二郎は門の中へ入り、三郎と錦が後ろをついていった。
(…………)
地面を見下ろしたまま、花の胸はドキドキしていた。
(血の匂いがした……!?)
ほんの微かに、二郎から鉄のような匂いがしたのだ。治安の悪い10丁目で、兄は時々、あの匂いを纏って帰ってきた。
〝うっせーな。転んだだけだよ〟
どうしたのかと尋ねても、兄はそう言うだけで詳しくは教えてくれなかった。
(私の気のせいなの? それとも)
二郎さまに何かあったの……?
ここにゴリラなんているはずがない。そんなこと、花にも分かる。
(一体どうして……?)
背中にじわりと嫌な汗が流れる。
花は無意識に、買った文具が入る紙袋を抱きしめた。
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