償い
「ミミック兵が壊滅したとの報告を受けた。皆、ご苦労やった。」
上司のその言葉を坂口安吾は唇を噛みしめながら聞いていた。
かつて内務省異能特務課のスパイとしてポートマフィアに潜入していたためにミミックの事件の詳細は知っていた。ミミックの指揮官ジイドの狙いも。そして、ミミック壊滅ということはおそらく彼―織田作之助―ももうこの世にはいないのだろう。
安吾はスパイとしての生活を終え、特務課の業務に戻っていた。しかし、今日ばかりは集中出来ず、普段ならしないミスも起こしていた。見かねた上司に
「なんや、今日は調子悪いんか?まぁ、ミミックの件に関してはお前の働きも大きかったしな。お手柄やった。長期間の潜入捜査で疲れもあるんやろ。今日は早めに上がり。」
と言われ、その言葉に甘えることにした。帰ろうかと考えている内にふと思い出したことがあり、あるホテルへと足を向ける。
そのホテルはポートマフィアに潜入していた際に住んでいた場所だった。中には生活家具はほとんど無く、小さな本棚と黒い木製の丸椅子が一つ。無機質な部屋。潜入捜査が終わった今、ここにある物を片付けなければならない。ふと部屋の隅にあった丸椅子が目についた。それを部屋の中央まで移動させ、腰掛ける。そこからは横浜の街が見えた。街を見下ろしながら先程上司に掛けられた言葉を思い返す。
「お手柄・・か。」
確かにその通りなのだろう。特務課エージェントとしての役目を果たし、ミミック兵を退けた。しかし、彼の胸は何かスッキリとしないものを抱えたままだった。
太宰治と織田作之助について知っていることはほとんど無いと言っても過言ではないだろう。ただ、酒場で一緒に酒を酌み交わす。それだけの関係だった。それでも、自分にとって彼らが数少ない友人であったことは事実だ。椅子に腰掛けたまま、彼らと過ごした時間を思い返し、懐かしむ。ただの潜入捜査のはずだったのに。ポートマフィア構成員と馴れ合うつもりなどなかったのに。こんなにあの時間を愛しく思い、今が辛くなってしまうくらいなら出会わなければ良かったと後悔してしまう。そんな感情が自分にとってあの時間がどれだけ大切なものになっていたかを思い知らせる。そうして過去に想いを巡らしはじめた自分にはっと我に返る。
「いけない。僕にはそんな資格なんてないのに。」
それは自身への戒めの言葉だった。ミミックへの対抗策として織田作さんがぶつけられるであろうことを知りながら止められなかった。自分はただの特務課職員であり、組織の方針を覆せるほどの力は無かった。仕方が無いと言われればその通りなのだろう。だが、その言葉は友を守れなかったという事実の前にはなんの慰めにもならず、無意識の内に握りしめていた手のひらには爪の痕が残っていた。
気がつくと太陽が地平線に近づき、夕刻の横浜の街が眼前に広がっていた。
「そろそろ帰らなくては。」
そう呟き、立ち上がる。この事件を乗り越えることなど不可能だろう。おそらくこの重い重い鉛のようなものを抱えたまま自分は生きてゆくのだ。ならば、せめて強くなろう。力をつけよう。守りたいものを守れるように。今更何をしても彼もあの時間も戻ってこない。この決意はただの自己満足なのかもしれない。それでも。それが僕の生きる理由ならば。
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