第11話 夏夜の花火と円転の輪舞

 八剱やつるぎ神社。

 入明日いりあす町の外れにあるこの神社の歴史は古く、九百年以上も前に建立されたものだという。

 八月末に地鎮祭を兼ねた夏祭りを開くのも例年のことで、神社の敷地内は出店やイベントを楽しむ多くの人々で賑わう。

「花火の頃は特に大勢の人がやってくる。はぐれないようにな」

 時刻は19時。場所は神社の入り口の鳥居前。夕暮れ時ではあるものの、夏とあってまだ太陽は落ちきっていない。花火の彩りが映える夜空まで、あと一時間といったところだろうか。

 矢雲がそう言うと、「子供じゃないんです。そんなことはわかっています」と紡綺はそこはかとなく不機嫌な返答をよこしてきた。

「……その不満そうな顔はなんなんだよ」

月夜つくよさんの同行は構いません。彼女との距離を縮めたいのは私の意志でもあります。ですが――」

 紡綺が振り返ると、そこには月夜と親しげにおしゃべりする羽三美と芽守の姿もあった。

「どうしてあの子たちまでついて来ているのです!」

「そりゃまあ……仕方ないだろ」

 話は一週間前のこと。紡綺の“運命を変える力”発言を月夜に聞かれた時である。

 あれは完全なる誤爆で、当初の予定ではもっと親密な関係になってから伝えるつもりだった。その言葉を月夜が本気に受け取ったかはわからなかったが、とにもかくにも焦った紡綺はとっさにこう言い繕った。

『実は私、占い師なんです』と。

 “未来を当てる人”みたいなニュアンスで、ソフトに言い換えたつもりらしい。占い師は現実の職業でもあるので、異能の力よりはまだ受け入れやすかろうという判断だった。

 そして深く追求される前に話題を変えた方が良さそうだったので、早々にその場で月夜を夏休みに誘ってみた。

 若干戸惑いつつも月夜は快諾してくれたが、彼女はその話を羽三美にしてしまい、そこから芽守に情報が流れ、今日の夏祭りに至る――という経緯だ。

「口止めをするもっともらしい理由も思いつかなかったんだ。だいたい紡綺の失言がなければ、もっと場所を選んでこそっと月夜を誘えたんだぞ」

「私のせいと? そもそも矢雲君の記憶の取り戻しに協力している立場ですよ、私は」

「俺の記憶を足掛かりにすれば、紡綺の記憶制限も解けるかもしれないんだろ。そこはお互い様じゃないのか」

「なんて傲岸な物言いでしょう。最近は認めているところもあったのですが……やはりあなたのことは好きになれそうにありません」

「そこもお互い様だな」

 ふん、とそろって顔を背ける。

「やくも兄様ー」

 ちょこちょこと羽三美が近づいてきた。

「どうかな。羽三美の浴衣。かわいい?」

 上目遣いに見上げてくる。桃色を基調にした生地に、花柄をあしらわれた浴衣だった。羽三美の無邪気な雰囲気にぴったりだ。

「ああ、似合ってると思う」

「えへへー。着付けは氷見子さんがしてくれたんだよ」

 くるくると回ってみせる羽三美。その回転を脳天を小突いて止める芽守。

「いったーい!」

「はいはーい、抜け駆け禁止ね。先輩、あたしの浴衣はどう?」

 芽守は白ベースに鮮やかな向日葵ひまわり柄。芽守の活動的な印象とマッチしている。

「兄さんは普段着なんだ。ちょっと残念かも」

 月夜は黒地に映える|三日月柄。妙に大人びたチョイスに思えた。

 三人の浴衣にひとしきりの感想を言わされた後、改めて鳥居をくぐる。

 目的は当初から変わらず、この夏祭りを利用しての〈月夜と紡綺の仲良くなる大作戦〉である。

 しかし肝心の紡綺のご機嫌は、直る気配すらなかった。



《――★★夏夜の花火と円転の輪舞★★――》



 屋台から漂う熱気と香ばしい匂い。威勢のいい客引きの呼び声。楽しげな来場者たちの笑い声。風に乗って聞こえてくる篠笛や和太鼓の祭囃子。

「いやー、いいよねー。この祭りですって肌に馴染む空気感」

 参道を歩きながら、芽守は大きく伸びをした。

「芽守は祭りに行く機会が多かったのか?」

「こっそりお忍び程度にね。人混みの多い場所に行くのは控えるよう言われてたし、その都度お付きを従えるわけにもいかなかったし。まあ、それでも二人よりは足を運んだとは思うよ」

 その二人――紡綺と羽三美は興味津々であちらこちらに視線を転じている。さながら別世界に紛れ込んだかのようにでも感じているのだろうか。

「矢雲先輩。あれあれ」

「ん?」

 芽守が指さした屋台は金魚すくいだ。祭りビキナーの紡綺と羽三美が反応する。

「あれがうわさに聞く金魚すくいですか。生け捕りにした分だけ戦利品として袋に詰めてもらえるのだとか」

「羽三美もやってみたい! 月夜もやるよね?」

「う、うん。いいけど、こんな序盤にやるの……?」

 月夜の懸念ももっともで、金魚すくいでもヨーヨー釣りでも、景品が手荷物になる出し物は中盤以降に遊ぶのがセオリーだ。とはいえ祭りビキナーズゆえに、その辺のノウハウがわかるはずもない。

 ここで止めてもひんしゅくを買うので、矢雲は何も言わないことにした。

 三姉妹と月夜は大きなビニールプールの前にかがみ込み、店主からわたされたポイを片手に、金魚の動きを真剣に目で追う。

 矢雲は彼女たちの後ろで見守りだ。

『あ~!』

 ほどなく三人分の落胆が重なる。ことごとくポイが破れていた。

「ちょっと店主さん。こんな和紙を張り付けただけのチープな作りでは、水につけたら破けるのは当たり前ではないですか。ちゃんとした網を張って下さらないと」

「お、お嬢さん、勘弁してくんな……」

 クレーマーと化した紡綺が店主のおじさんをたじろがせる一方、唯一ポイが生きている芽守は手元を泳ぐ一匹に狙いを定めていた。

「とった!」

 すくい上げた金魚を、素早く受け皿に移す。立派な黒い出目金だ。周囲から感嘆の声が上がるが、直後にアクシデントが起きた。

 ぴょんと跳ね上がった金魚が受け皿を飛び出して、芽守の浴衣の隙間から胸元に滑り込んでしまったのだ。

「ひゃあああ!? だ、誰か取ってよ!」

「い、いや、取ってって言われても服の中だぞ。自分で取れないのか?」

「魚とか直接触れるわけないじゃん! は、早く! ぬめぬめして気持ち悪いから!」

 取り乱す芽守。すがる思いで他の三人を見る。紡綺たちも首を横に振り、手でバツ印を作っていた。彼女たちも金魚を素手で触るのはNGのようだった。

「あーくそ、動くなよ!」

「やあっ!?」

 やむなく芽守の浴衣に手を入れ、金魚を探す。色々触れた気がしたが、今は考えない。

 ようやく探り当て、捕まえる。腕を引き抜いて、金魚は受け皿に戻してやった。

「はぁ、はぁ……あぅ……せんぱい、激し……」

 芽守は息遣いも荒く、へたり込む。

「めもり姉様ったら、なんというお約束なアクシデントを……」

「や、八雲君のケダモノ……っ! あんなにまさぐって」

「兄さん? 帰ったら兄さんに話があるから」

「俺のせいじゃない! 俺のせいじゃない!」

 三者三様の非難の目にさらされて、矢雲はそう叫ぶしかなかった。



 たこ焼き、かき氷、焼き鳥、りんご飴。次から次へと屋台を巡るのも祭りの醍醐味だ。

「わたあめっていうのよ。知ってる?」

「それくらい知ってるもん。食べるのは初めてだけど」

 月夜と羽三美は買ったばかりのわたあめを食べている。が、わたあめ屋の店主が奮発してくれたらしく、かなりのボリュームに仕上がっていた。売れないジャズシンガーのアフロぐらいある。

「動くな、月夜。口の周りが砂糖だらけだぞ」

「わ、なにっ?」

 口元を濡れたハンカチでぬぐってやると、月夜はのけぞってたたらを踏んだ。

「や、やめてよ、恥ずかしい。もう子供じゃないんだから」

「中学生はまだ子供の範囲内だろ」

「むぅ……」

 その様子を見ていた羽三美は、一も二もなく自分の顔にわたあめを押し付けた。

「ああん、やくも兄様ぁ。羽三美もうっかり顔を砂糖まみれにしちゃったよ~。優しく拭いて――むぎゅっ!」

「あたしがやってあげるから。なに微塵のためらいもなく強硬策に出てんのよ」

 後ろから羽交い絞めにした芽守が、羽三美の顔面をごっしごしタオルで拭き取る。

 妹二人の小競り合いなど気に留めた素振りもなく、紡綺は月夜に何か声をかけようとして――それを果たせず密かに嘆息をついていた。



「紡綺。月夜と全然しゃべってないだろう。俺が仲介した方がいいんじゃないのか?」

「結構です」

 このままではせっかく連れ立って夏祭りに来た意味がない。そう思って提案したのだが、にべもなく断られた。

 まだ機嫌が悪いのか? まさか鳥居での悶着が尾を引いているのか?

「いったい何にそんなに怒って――」

「別に。月夜さんと仲良くなるのに、あなたのサポートなどいらないという話です」

 さすがにカチンとくる。売り言葉に買い言葉で、ついこちらもつっけんどんな態度を取ってしまった。

「そうかよ。じゃあお手並み拝見と行こうか」

「ご随意に」

 紡綺が向かった先は、射的の屋台だった。

 物珍しそうに月夜たちもそこについて行く。

 屋台の中の棚にはたくさんの景品が並んでいて、ちょっとした小物から大きなゲーム機の箱まである。もっとも大概の人が知るように、おもちゃの弾程度で大物を落とせるなんて奇跡はまず起きない。見栄えよく見せるだけの客引きの飾りと思った方がいい。

 それらの品ぞろえの中で紡綺の銃口が狙うのは、小さなクマのぬいぐるみだった。

「銃のエイムは得意です。イタリア旅行の折にクレー射撃の手ほどきを受けたことがありますから」

 自慢の射撃の腕で月夜の気を引くつもりなのだろうか。なんだか不安だ。

「なんですか矢雲君、その何か言いたげな目は。先にあなたを撃ちますよ」

「後でも撃ってくれるな」

 紡綺はスナイパーのように構えて、静かに引き金を絞る。コルク製の弾が勢いよく飛び出し、見事ぬいぐるみに的中して――しかしわずかに位置を変えるだけに終わった。

 からからと店主が笑う。

「はい、残念。これ参加賞のキャンディー」

「当たったでしょう?」

「うちは棚から落ちなきゃ当たったことにはならないの。何回でも挑戦していいよ。一回ごとに景品の位置も直すけどね」

 紡綺は納得いかない顔で、どこかに電話をかけた。

「ああ、岩城? すぐに競技用のショットガン持って来てちょうだい。16ナンバーの散弾も忘れないで」

「おいやめろ! ぬいぐるみをハチの巣にするつもりか!」

「あのいけ好かない店主もです」

「もっとダメだ!」


 ●


 中々どうしてうまくいかない。

 雑踏の中を歩きながら、紡綺は先を行く月夜の背中を眺めた。

 他人との距離の縮め方など、本当にわからない。今までそういうことは必要じゃなかったから。

 やはり話すきっかけくらい、矢雲に作ってもらった方が良かっただろうか。いや、違う。今は彼を頼りたくない。

 だって、だって。なんなのよ。一言くらいはあってもいいでしょうに……。

 ふう、と人知れず吐息をつく。

 ちょっとした景品を渡すとかして、月夜と仲良くなれれば良かったのだが、金魚を取るのも当て物も失敗してしまったし。

「あれ? 陽咲じゃないか」

 二度目の嘆息を吐きかけた時、近くの出店からそんな声がした。

 屋台の中から手招きする青年に、矢雲は意外そうに歩み寄る。 

 紡綺はその青年の顔に覚えがあった。〈オリュンポスランド〉で一回だけ顔を合わせたことがある。同じ大学に通っている矢雲の友人で、名前は確か――そう、しば平太へいたと言った。

「芝も屋台を出しているのか……? そういえば前に『今年の夏は忙しくなりそう』とか言ってたのはこのことか?」

「あー……まあ、当たらずとも遠からずって感じ?」

「はは、どういう意味だよ」

 気さくな態度でお互いに話している。ふと芝がこちらに気付いた。

「え!? 貰井紡綺さん!? どうしてこんなところに!?」

「なぜフルネームで……ええと、お久しぶりですというべきでしょうか。見ての通り夏祭りを楽しみに」

「そ、そうだったんだ。……でもどうして陽咲と貰井さんが一緒に?」

 何かを推し量っているような、探る目線が向けられる。

 即答できずに言葉を詰まらせた紡綺の横から、矢雲がさりげなく前に出た。

「俺は引率みたいなものだから。一応紹介しとくよ。俺の妹の月夜と、紡綺の妹の芽守と羽三美」

 妹たちは芝に挨拶をした。

「ああ、初めまして。……いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃなくてさ。……まあいっか。じゃあこちらも紹介しとくかな。慎之介、楓。ちょっと来てくれ」

 屋台番の男性と客引きの女性を呼び寄せる。芝から事情を説明された二人は、矢雲たちに名乗った。

右近うこん慎之介しんのすけと申します。若がいつもお世話になっております」

 浅黒い肌と後ろに撫でつけたオールバックの男が、慇懃な礼をしてみせる。

左京さきょうかえでです。坊ちゃんのお世話係を務めています」

 ポニーテールを青いリボンで結った女性がぺこりと頭を下げる。

 左京も右近も紡綺や矢雲と、そう変わらなさそうな年齢だった。

「坊ちゃん? 若?」

 一般人に使うにしては耳慣れない言葉に、矢雲が首を傾げる。

「友達にからかわれてるのか?」

「そういうんじゃないって。それに友達じゃなくて、この二人は昔からの付き合いで……ちょっと説明が面倒なんだけど。つーか矢雲には俺の実家のこと話したろ?」

「実家……?」

 矢雲は何かを思い出そうとして、しかし首を横に振った。

「マジかよ。最近だぞ、その話したの」

「すまん、忘れたらしい」

「薄情なやつめ。だったらせめてうちの出店で遊んで、売り上げに貢献してってくれよ」

 芝は後ろの屋台を一瞥する。

「貰井さんもやっていかないかな? 楓の発案で、うちは女性層を狙った高級くじやってるんだ。祭りの雰囲気には合わないかと思ったけど、これが中々評判が良くてね。割高な分、それなりの商品そろえてるよ」

「いえ、私は別に――」

 断りかけて、思いつくことがあった。紡綺は月夜に向き直る。

「月夜さん、くじをやってみませんか?」

「え? わ、私が?」

「一等賞は有名ブランドのコスメセットのようです。なるほど、これは確かにいいものですね」

 考えがあると察してくれたのか、矢雲が月夜の背中をぽんと押す。

「せっかくだ。やってみたらどうだ。代金は俺が持つから――って一回千円!? ぼったくりかよ!」

 言いつつ支払い、月夜も「兄さんが言うなら……」とくじの前に立った。

 横長の台の上に大量のひもが垂らしてあって、見えないその先に当たり番号がくくり付けられているらしい。紐の数はゆうに二百を超える。

「えーと、これにしようかな」

「待って下さい」

 適当に選ぼうとした月夜を止めると、紡綺は小声で言った。

「台の端から順に紐に触れて。その際は全て本気で引くつもりで触っていくこと。いいですね」

「え、どうしてですか」

「いいから、私の言う通りに」

「は、はい」

 戸惑いながらも月夜は応じる。

 紡綺は“目”を切り替える。通常の景色を見る目から、因果の糸を視る眼に。

 未来や運命の観測は、芽守の展開するフィールドの中で能力を使うことで初めて成される。紡綺一人では個人から伸びる因果の糸を視るしかできない。

 だが糸には色がある。

 白色であれば当人にとって大きな変動はなく、黄色であれば良くないことが起こり、青色であれば良いことが起こる。こんな具合に因果の糸の色から察して、大まかな未来予測であればすることができるわけだ。

 この場にいる人間の糸は――矢雲だけは相変わらず視えないが――全員白色だ。

 月夜は言われた通り、順番に紐に触っていく。芝たちは彼女の行動をいぶかしげに眺めている。

 真ん中を過ぎて、少し。

「それを引いて」

 間髪入れず、紡綺は言う。その紐に触れた途端、月夜の因果の糸は青色の輝きに転じていた。

 紐を引く月夜。先にくくられていた数字は1番。

「あ? え? えええ!?」

「一等賞ですね。おめでとうございます」

 困惑する月夜に向かって、紡綺はにこりと微笑んだ。

 


「う、うそだろぉ? いきなり目玉商品が取られるなんて……」

「若! お気を確かに!」

「坊ちゃんには私がいますから! お望みならいつでもお慰め致しますから!」

 月夜の手に渡ったコスメセットを未練タラタラの視線で追いかけつつ、芝はがっくりと膝を折った。その彼を右近と左京が必死に慰めている。

「月夜すごーい! 羽三美もくじやりたいな」

「あのコスメ、十万くらいは普通にするやつじゃん。あたしも欲しいかも……」

 羽三美と芽守は落ち込む芝を無理やり立たせ、屋台の中へと押し戻していく。どうやら二人は自分が能力を使って、月夜に景品を取らせたことに気付いていないらしい。

 矢雲だけは何となく察している様子だが。

「いいのが取れて良かったですね」

「私は紡綺さんの言う通りにしただけで……」

 月夜は未だに戸惑っているようだった。

「あの、紡綺さんはどうしてあの紐が一番の当たりだってわかったんですか?」

「……占い師だから」

「う、占いってすごい!」

 意外にもあっさり信じてくれた。まだこの場で秘密を打ち明けるわけにはいかない。

「あ、でもどうしようかな……」

「どうしたんですか?」

「私、今までまともにお化粧なんてしたことがなくて、使い方がよくわからないんです」

「そう、じゃあ私が教えてあげます。今度また、屋敷に遊びにいらっしゃい」

「い、いいんですか?」

「どうしてダメだと思うの。歓迎しますよ。私はあなたと仲良くなりたいんです」

 ぱあっと月夜の表情が明るくなる。照れているように、わずかにうつむいて、

「つ、紡綺さんって美人だし、凛として格好いいし、ずっとこんなお姉さん欲しかったし……わ、私も仲良くなれたら、嬉しいです」

「……っ!」

 ちょっと待って。そっちでくじに夢中になっている妹二人、今の言葉聞いた? なんていい子なのかしら。可愛い、可愛い。とっさに抱きしめたい衝動に駆られる。

「くうっ」

「だ、大丈夫ですか!?」

「平気、立ち眩みしただけ……」

 たまらない愛くるしさに、目まいがした。

 その時、場内アナウンスが流れた。

『ただいまより花火の打ち上げを開始します。ご来場者の皆様は、開けた場所まで移動して頂きますようお願い申し上げます』


 ●


 花火が始まるらしい。そういえばもう二十時を回った頃だ。

「俺たちもそろそろ移動しよう。良い場所がなくなると困るからな」

 くじにご執心の芽守と羽三美、談笑している紡綺と月夜。四人に招集をかけようとして振り向き、矢雲はその光景にぎょっとした。

 後方から数多くの人の波が押し寄せてくる。花火を見やすい広場へと一斉に向かっているのだ。

「まずい、はぐれるぞ。早くこっちに来い!」

 言い終わらない内に人の群れに飲み込まれてしまった。彼女らの姿があっという間に見えなくなる。

 矢雲は人の隙間を縫うように腕を伸ばした。同じく向こうから伸ばしてきたらしい誰かの手に触れた。離さないように互いに強く握る。誰だ。無我夢中で自分の元へと引き寄せる。

「や、矢雲君?」

 紡綺だった。


 ●


「電話はつながりました。三人とも境内の付近にいるそうです。ただ人が多過ぎて、すぐに合流はできそうにないと」

「仕方ないか。花火が終わるまで下手に動かないよう言っておいてくれ」

 矢雲と紡綺は人混みを避けている内に、いつしか参道を逸れた林の裏道に踏み入っていた。

「明らかに整備されてない道だな。迷う前に戻るぞ」

「戻ったところで人が多いでしょう。せっかくだから花火も見たいですし。黙ってついて来て下さい」

「まだツンツンしてんのか……」

「なにか?」

「いいや」

 紡綺は時折足を止めては周囲を確認し、何かを思い出したようにまた歩き出す。もう道と呼べるものもなくなり、完全な雑木林の中だった。

 それでも紡綺の先導で進み、やがて少し開けた場所に出た。小高いところで、どうやら神社の裏手らしい。

「ここなら花火がよく見えると思います。特等席ですね」

「なんでこんな場所を知ってるんだ?」

「子供のころに何回か祭りには来たと言ったでしょう。お父様がここを見つけたんです。迷い込んでの偶然でしたけどね」

 紡綺はコンパクトに折り畳んであったビニールシートを地面に広げると、そこに腰を下ろした。

「ビニールシートなんて持って来てたのか」

「淑女の嗜みで。少々歩き疲れました。矢雲君もどうぞ」

 小さな一人分のシートに、身を寄せ合って座る。息遣いまで聞こえてくる距離だ。

 しばらく無言が続いたあと、不意に紡綺が口を開いた。

「月夜さんと話しました。可愛い妹さんですね。仲良くなれそうです」

「くじの景品取らせてやったの、紡綺の力だよな」

「気づいていましたか。彼女と話せるきっかけが欲しかったので。……またお説教ですか? そんなに軽々しく人の因果をいじるなと」

「いや……それだけの力があるなら、やり方次第ではたくさんの人を助けられるんだろうなと、そう思って」

「できないんですよ」

 伏し目がちに、しかし彼女は言い切った。

「私たちの能力にはいくつかの制約があると以前教えましたよね」

「大きな力が世界に影響を及ぼし過ぎないように、〈天上の意志〉による制限がかかっているって話だったか」

「ええ。その一つが“能力は自分のためにしか使えない”です。関係ない人たちを救うなんて使い方は、そもそもできないんですよ」

「それはおかしいだろ。大学で犬を助けた時も、団地の火事の時も、遊園地の事故の時も、さっきの月夜のくじだって、紡綺のためってわけじゃないだろう」

「……“さっさと犬を助けて、私の為に矢雲君の時間を空けさせる”“火事から少女を助けることで、芽守の心を傷つけさせない”“倒壊する観覧車から羽三美の生命を救う”“月夜さんに良い景品を取らせて、私と話すきっかけを作る”とか。……まあ、月夜さんに関しては運命を変えたわけではなく、そこに誘導しただけですので微妙かもしれませんけど」

 思い返してみれば確かにそうだった。

 因果を紡ぐ能力の主導権はあくまでも紡綺にあり、妹二人はそのブースター役。運命を変えるにあたりメリットであるかどうかは、紡綺の主観に委ねられるということか。

 自嘲気味に紡綺は微笑する。

「ね。とても利己的な力でしょう」

「俺はそう思わない。たとえ自分の為にしか力を使えなくても、それで救われた人がいるのなら」

「たとえば――たとえばね、矢雲君。誰かを幸福にすることで、誰かを不幸にする可能性もあるんですよ。幸せとは天秤みたいなもの。一方に幸運が偏れば、もう一方が割を食うなんていうのはよくある話」

「……そっか……しんどかったな」

 気づいた時にはその言葉を口にしていた。

 きっと強大な力を持ってしまったが故に、多くのことに悩んだのだろう。彼女は他人が思うよりも、ずっと高潔で、そして純粋だ。

「どうして、そんなことを言うんです……」

 紡綺は立てた膝に自分の顔をうずめた。

「わからない。そう思ったから」

「変な人。でも、そうですね……ありがとう、ございます」

 静かな時間が流れゆく。

 世界に自分たちしかいないような錯覚に陥る。不思議と心地よかった。

「あのさ。俺にはもうそんな固い言葉を使うなよ。タメ語にしてくれ。同い年なんだし」

「ん、ですけど……いえ、矢雲君がその方がいいなら――そうするわ」

「おう」

 花火が上がり始めた。遮蔽物がないから、確かにここら一帯では一番よく見える場所かもしれない。

「綺麗ね」

「一つ聞きたいんだが」

「なに?」

「今日なんでずっと機嫌悪かったんだ?」

「そ、それは――……から」

 うつむいて、ぼそっとつぶやく。

「え?」

「あなたが私の浴衣に何も言わないからよ! 妹たちには似合うだの何だの言ってたくせに!」

 品のある薄紫色に、流麗な蝶紋様の浴衣だ。

「いや、だってそれは」

「なんなの」

 じぃっとにらまれ、視線をそらす。

「あいつらにそう言うのと、お前にそう言うのとではなんか、よくわからんけど感じが違うんだよ」

「だったら……尚のこと、ちゃんと言って」

「……似合ってるよ、浴衣」

 どうにも居心地が悪く、わしゃわしゃと髪をかく。

 紡綺はくすりと笑った。

「機嫌が直ったわ」

「なんだそりゃ」

 花火を見上げながら、たくさんの話をした。子供のころの話。家族の話。大学の話。

 急にこつんと、紡綺の頭が矢雲の方に寄りかかる

「ごめんなさい……やっぱりちょっと疲れたみたい。少し眠いわ」

「なんか俺も妙に眠くなってきたな……」

「お話は続けて……」

 まぶたが落ちかける。視界がかすんで、何の話題を出したかも覚えていない。

 ただ“誰かを幸福にすることは、誰かを不幸にすることでもある”という、紡綺のその言葉だけが妙に記憶に残っている。

 同時に芝の家のことを、なぜか今思い出した。どうして忘れていたんだろう。〈芝製薬工業〉という〈貰井製薬〉の台頭と共に衰退していった老舗企業のことを。

「……ねえ、矢雲君も、もうニ十歳よね。今度一緒にお店でお酒を飲みましょう。おしゃれなワインバーを知っているの……」

「……ああ、悪くないな」

 眠気が強い。少しだけ休んでから、みんなのところへ戻ろうか。紡綺の瞳はすでに閉じている。

「でもあの時みたいなことはやめてね」

「あの時?」

「死の呪いを覆すために、私を酔わせて……約定を取り付けたでしょう。ずるいわ。だから矢雲君のこと、会った時から警戒していたの」

 いつの、なんの話だ。覚えが全くない。紡綺も自分で何を言っているのか、意識が曖昧な様子だ。

「あれは……悪かったよ。あいつが月夜を怒らすから……」

 けれど、そう返していた。自分の発言に違和感さえなかった。

「いいわよ、もう。次はあなたの呪いをなんとかしなくちゃね……」

 それきり会話はなかった。二人分の寝息だけが静かに重なる。

 ひと際大きな花火が夜空に弾け、色鮮やかな光が矢雲と紡綺を照らしていた。




 ――第一部 完――

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