第10話 地上の歯車と群像の夏(前編)

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《★scene-⑦ 勘違いお嬢様と自己犠牲庶民★》


 通路の向こうから、芽守と羽三美がよろよろと歩いてくる。

「ケンカは終わったか――っていうか大丈夫か!?」

 二人の顔色は悪く、時折えづいてもいた。矢雲の呼びかけに気付く様子はなく、視線を足元から上げることもなく、傍らを通り過ぎていく。

「や、やば……あんなの兵器じゃん……胃が、胃が焼けただれるみたい……うぷっ」

「羽三美はここまでかも……せっかく月夜が遊びに来てくれるのに……ああうぅ……」

 定まらない足取りのまま、二人は幽鬼のごとく通路の奥へと消えた。さながら歩く死体リビングデッドのようだった。

「お、おーい……?」

 呼びかけても応答はない。

 尋常ではない何かがあったらしいが、追いかけて問い質せる雰囲気でもなかった。

「あら、矢雲君。今日も来ていたのですね?」

 芽守たちに遅れること少し、紡綺も姿を見せる。

「ああ、羽三美の家庭教師でな。声もかけずに悪かった」

「気兼ねなくどうぞ。しばらくの間は、私たち姉妹の近くにいる方が良いと言ったのは私です」

 団地の火事や観覧車の倒壊といったこれまでの不慮の事故が、〈天上の意志〉によって引き起こされた可能性がある、ということだ。しかもそれは俺を巻き込む形で。

 その原因はおそらく俺の過去にあるらしい。

 だがなぜか〈天上の意志〉の制約をかけられ、記憶を辿って思い出すことができない。

 その打開策として挙がったのが、妹である陽咲月夜。彼女が持つであろう俺との思い出が、記憶の制限を突破するきっかけになるかもしれない。

 とはいえ彼女に協力を依頼するにあたっては、こちらの事情――すなわち紡綺たちの持つ運命操作の力や〈天上の意志〉のことを伝える必要がある。

 だがすぐに信じられる話ではない。よってそれを受け入れやすい関係を構築する為、紡綺と月夜が仲良くなる大作戦を決行する。

 ――というのが、現時点の経緯である。

「月夜は明後日に遊びに来るって話だ。羽三美が呼んでくれたらしいが、その羽三美の体調が悪そうなのは気になるな……」

「羽三美の体調が悪い? さっきまで私の作った料理をおいしそうに食べていましたが」

「え? 紡綺って料理とかするのか」

「私をなんだと思っていますか。余裕です、余裕なんですよ、料理くらい。淑女の嗜みです」

「それは結構なことだと思うが」

 紡綺は長い黒髪を後ろで束ねたエプロン姿だ。

 いや、待て。今すれ違った芽守は胃が焼けただれそうとか言っていた。まさかこいつの料理であんな状態になったのではなかろうな。

「矢雲君がいると知っていたら余分に作っていたのですが、残念ながらもう無くなってしまいました」

「そ、そうか。残念だ。残念に違いない」

「日本語変ですよ。しかし残念というのなら、今から作ってあげてもいいですが」

 方向転換して厨房らしき場所へと向かおうとする紡綺。瞬間、明確な死のイメージが見えた。〈天上の意志〉とか関係ない純然たる事件の臭いが、直感として脳髄に突き刺さる。

「だめだ!」

「きゃっ!?」

 反射的に彼女の細い手首をつかんでいた。

「い、今はお腹いっぱいだ。そんな状態で紡綺の手料理を食べるのはもったいない。もったいないに違いない!」

「ち、違いないんですか? じゃあ仕方ないです。また次の機会に……いえ、妙案を思いつきました。お近づきの印に、月夜さんに私のオリジナルフルコースを振る舞うというのは――」

「もっとだめだろ!」

「きゃあっ!」

 勢いあまって彼女を壁に押し付けてしまう。

「あ、あの、力強い……あと顔近い……ですけど」

「月夜に作るぐらいなら、俺にだけ作るんだ!」

「ど、どういう意味です!?」

 手榴弾を抱き込んで爆発の威力を我が身で押さえるみたいな、自己犠牲の精神だった。

 なぜか紡綺は赤面したまま、矢雲から視線を逃がしていた。


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《★scene-⑧ 私だけの何かに★》


 ずいぶんと気に入っているらしく、羽三美はことあるごとに矢雲先輩にアプローチしている。そして最近では紡綺姉さんも幾分と先輩に心を許しているような雰囲気だ。

「――とまあ、最近そんな感じなのよ。どう思う?」

「んー……」

 芽守にそう問われて、辻堂みさきは考え込んだ。

 彼女は団地の火事で芽守と矢雲に救われた少女だ。それ以降、特にみさきは芽守に懐いている。芽守も何かとみさきの世話をやいて、時間を作っては話し相手になっていた。

 が、この時に限っては“話し相手になってもらっていた”が正しい。

 紡綺の手料理で胃を蹂躙された翌日。件の団地の公園のベンチ。並んで座る二人に、日差しがかかる。

「芽守お姉ちゃんにはね、他の二人よりイニシアチブがないんだよ」

「いにしあ……なに?」

「イニシアチブ。主導権とか、そんな感じ」

 小学校低学年ながら、みさきは妙に大人びている。古書店に遊びに来ては、おませな絡み方をして矢雲を困らせることも多い。

「妹さんは矢雲さんに家庭教師に来てもらっていて、お姉さんは同じ大学なんでしょ。芽守お姉ちゃんだけの専属っていうのがないと」

「バイトは同じだから、一緒にいる時間は長いと思うんだけど……」

「仕事だもん。仕事だけのカンケイだよ」

「えぇ、それはやだな……」

 しかも先輩はバイトの数を減らして、これから時間を空けることにしている。

 古書店とペットショップは継続で、それ以外は全て切り上げ。先日、バーガーショップの退店式には自分も出ている。あれはカオスでしかなかったが。

「あたし専属っていってもねえ。すぐには思いつかないよ」

「お姉ちゃんの家、大きいんだよね? 執事とかは?」

「執事っていっても、すでにいっぱい使用人が――」

 言いかけて止まる。

 うちの使用人は誰かの専属というわけじゃない。けれど、たとえば岩城は羽三美に同行することが多く、氷見子さんは紡綺姉さんとの同行が多い。

 決まりがあるわけではなく、いつの間にかそうなっていたというだけだ。理由はまあ、わかる。自分に比べて、あの二人は対人関係能力が弱いのだ。要するに人見知りである。

 だから、そうか。

 そのサポートとして、暗黙の内に付き人的なポジションが生まれていたということか。

「いいかも! 矢雲先輩にあたしの専属執事になってもらっちゃおう!」

「わー!」

 ぱちぱちとみさきが拍手する。こういう時は年相応の幼子の顔だった。

 先輩にお嬢様とか呼ばれるわけだ。紅茶とか淹れてもらえるわけだ。ちょっと地面に転がるくらい恥ずかしい妄想もしていいわけだ。

 執事、悪くないね!

「じゃああとは頼むだけだよね? 執事になって下さいって」

「え? あ、そ、そうなるのか……」

 その場面をシミュレーションして赤面する。ムリムリ、どう切り出したらいいかわからない。いつどこでどのようにしてお願いすればいいんだろう。

 姉妹よりコミュ力に優れているとはいえ、基本的に貰井家の血筋は恥ずかしがり屋なのだ。

「ま、まずは部屋の掃除からしようかな」

「……なんで?」


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《★scene-⑨ 歪曲する因果律★》


 《オリュンポスランド》でのバイト中に出会った彼女は、確かに貰井紡綺と名乗っていた

 素性をゆっくり聞く時間はなかったし、直後に起きた観覧車の事故もあって、結局はあの時限りの邂逅となってしまった。

「貰井……紡綺」

 しば平太へいたはゆっくりとその名を口に出す。

 彼女は自分の友人である陽咲矢雲と関係があるようだった。

 まさか恋人か? いや、朴訥ぼくとつとした陽咲のこと、それは考えづらい。

 そもそもだ。大学のキャンパスで、貰井紡綺が陽咲をじーっと見つめる現場には俺も立ち会っていた。その時、陽咲は彼女を知らないと言っていた。

 いったい何があったんだ。あのあと変わったことと言えば、キャンパス内に迷い犬が入り込んで走り回っていたくらいだが……。

 絹のように流れる黒髪に、端正な細面。不思議な品格も備えていた。どうにも紡綺のことが気になってしまう。

「若。手が止まっていますよ」

 横合いから声をかけられる。

 浅黒い肌で、彫りの深い顔立ちをしている彼は、右近うこん慎之介しんのすけ。武家っぽい名前なのだが、後ろに撫でつけたオールバックという髪形も相まって、一見すると南国のサーファーのような容貌である。

「右近さん。平太坊ちゃんは往来で若と呼ばれるのを嫌がっておいででしょう? 気を付けて下さらないと。ねえ、坊ちゃん」

 丁寧ではあるが勝気な口調でそう言うのは、左京さきょうかえで。青いシュシュでくくったポニーテールがトレードマークで、何かと俺の世話を焼く。

 右近は俺の一歳年上、左京は一歳年下。二人は縁あって芝家に仕えて――というより俺専属の付き人のような役どころだった。今は家があんな状態・・・・・だというのに、離れることなく傍仕えをしてくれている。

「いや、もう何度目になるかわからんけどさ。俺は“若”も“坊ちゃん”もやめてくれって言ってるんだよな」

「またまた! 若は冗談がお上手でいらっしゃる!」

「さすがは坊ちゃん。ジョークのセンスも一級品ですね」

 すごい持ち上げられるのもいつものことだ。

 せかせかと三人で作業を進め、太陽が傾く頃にようやく完成した。

「ふいー、二人ともお疲れさん。どうにか祭りに間に合ったなぁ……」

 目の前には組み上げたばかりの出店用の屋台があった。ここは夏祭りの舞台となる八剱やつるぎ神社の敷地内の一角である。

「ええ、場所もいいですし、これなら収益も見込めますよ。さすがは若!」

「もうそれはいいって!」

 隙あらば褒めてくる。もう慣れはしたが、外では勘弁して欲しいものだ。

 文句ひとつ言わずに汗をかく二人を見て、思わず漏れ出そうになった嘆息を口中にとどめる。本当ならこんな実入りの少ない単発の金稼ぎに、彼らを付き合わせる必要などないというのに……。

「平太坊ちゃん。ご実家からの金銭の援助が見込めないのは仕方ありません。坊ちゃんの学費の工面くらい、私たちにも協力させて下さい。気に病まれる必要はありません」

 見透かしたように左京が言う。

「あ、ああ。それは感謝してる。本当にありがとう」

「……他に気がかりが?」

「ん……一つだけ」

「なんなりとお申し付けください」

 迷ったが、この二人との信頼関係だ。隠さずに告げた。

「貰井紡綺という女性と知り合った。彼女の素性を調べて欲しい。学部はわからないが……同じ王戸学院大学の三回生のはずだ」

「え、女性……」

 微妙に焦っている様子の左京の横から、右近が訝しげにこちらを見やる。

「貰井、と仰いましたか。ふむ……若の言わんとしていることはわかりました」

「あと陽咲矢雲っていう俺の友達がいるんだけど、その陽咲と彼女との関係もな。合わせて頼むよ」

 胸がざわつく。どうしてだろう。お前たちのことが妙に気になるんだ。

 夕暮れの生温い風が吹き、近くの木々の枝葉を蠢かしてゆく。一瞬、視界の端に黒いもやが揺らいだ気がした。

 

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《★scene-⑩ 不変の女神★》


 地上20階。その広い執務室は、壁一面がガラス張りになっていた。

 完全に太陽の落ちた夜。彼女は席を立ち、窓際に歩み寄る。

 見上げる夜空には輝く星屑と、その雲間に煌々と照る月が垣間見えた。

 続いて眼下に視線を落とす。

 列を成して道路を走る車のヘッドライトに、等間隔で規則正しく並ぶ街灯の燐光。そして密集しつつも、まばらに散る家々の明かり。

 それは天上のみならず、地上にも広がる星の群れに思えた。そこにはどれだけの人々が生活していて、幾千幾億の因果に囚われているのだろうか。

『奥様?』

 離れていた思考を戻し、携帯電話の通話口を耳に当て直す。

「ごめんなさい。聞こえているわ。続きを」

『かしこまりました。お嬢様方の近況ですが、羽三美お嬢様は新しく家庭教師を雇われました』

「家庭教師? 特に成績は悪くなかったと記憶しているけど。あなたの指導では不十分なの?」

『それが羽三美お嬢様がいたく気に入られた方でして、ご自身で指名なさったのです。その方とのお勉強の時間を大層楽しみにしておられるようで』

 驚いた。三姉妹の末っ子である羽三美は、体面をうまく人に合わせる反面、自分からは深入りしない気性がある。人懐こく見えて、実は常に薄い壁を張っているのだ。だから友人と呼べそうな人ができても、いつの間にか関係が自然消滅してしまう。

 その彼女が、自分の領域に自らの意志で他者を招き入れたという。

『続いて芽守お嬢様ですが、特筆すべきは最近アルバイトを始められたことでしょうか』

「アルバイト? お金に困る生活はさせていないはずよ。一体どうしてそんなことを……」

『ご本人は社会勉強の一環と。ただ親しくされている先輩がいまして、同じ職場で働くのが楽しいご様子です』

 芽守は三姉妹でもっとも社交的だ。だが好き嫌いがはっきりしていて、やらないでいいことはやりたくないタイプである。いくつかの習い事をさせてもみたが、長続きしたものはない。それなのに……

『最後に紡綺お嬢様ですが、大きな変化はございません。日々、淡々とつつがなく過ごしておられます』

「でしょうね。あの子が私に一番似ているもの」

『……ただ、その、以前に比べますと、少し雰囲気が柔らかくなったように感じます』

「どういうこと?」

『感情が出やすく、表情が豊かになられました。口調もどことなく角が取れたような印象です』

「もしかして情緒不安定? 精神に重大な障害を抱えたとか」

『奥様の紡綺様に対するご認識が……』

 彼女はもっとも頑なだ。家と妹たちを守ろうとするあまり、排他的になってしまった。貰井家の長女ととしてあらゆる教養を学び、その名に恥じぬようそうあれかしと自身を型にはめ、上流の礼節は身を固める鎧としてのみ機能させる。

 それは年端行かぬ頃から家を任せきりにしていた私のせいでもある。だがどうすることもできなかった。私も私で守らなければならないものがあったから。

「紡綺の何かが変わったとして……きっかけは?」

『……おそらくは大学のご学友の影響かと』

「学友ってAIとか?」

『やはり紡綺お嬢様へのご認識を改めて頂いた方がよろしいかと。人間です。ちゃんと霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科に属しております』

「一つ聞くけど、その学友と言うのは異性?」

 一瞬の間があって、返答が来る。

『はい』

「恋人?」

『いいえ』

「もしかして羽三美の家庭教師と、芽守が親しくしている先輩と同一人物だったりする?」

『はい』

「名前は」

『陽咲矢雲様と』

「わかったわ。報告ありがとう、氷見子」

 此花このはな氷見子ひみこからの定期連絡を終え、通話を切る。

 貰井製薬本社ビル、会長室。貰井天水あまみは吐息をついた。その部屋の一面を覆うガラス窓に小さなくもりが白む。

 あのクセの強い三姉妹と波長が合うのだろうか。興味が湧いてきた。一度会ってみたい。しかし何より気にかかるのは――

「陽咲矢雲、ね。彼は娘たちの隠し事を知っているのかしら」

 

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《★scene-⑪ 邂逅の三姉妹★》


 開いた口が塞がらず、というふうに月夜は出す声もないようだった。

 大理石のエントランスに立ち尽くし、高い天井から吊り下がる豪奢なシャンデリアを呆然と見上げていた。

「私はこれで失礼します。ごゆるりとお過ごしくださいませ、月夜様」

 ここまでの送迎と先導を務めてきた岩城はそう言うと、すっとその場を離れた。彼の退場と行違うように、羽三美が別の通路から現れる。

「いらっしゃい、月夜。待ってたよ~」

「あ、羽三美。招いてくれてありがとう……っていうか、何ここ?」

「何って言われても玄関だよ」

「まるで美術館のホールみたいじゃない。ここに着くまでの庭もサファリパークかってくらい広かったし」

「あはは、そういえばやくも兄様も、最初はそんなリアクションだったかな」

 月夜がきょろきょろと辺りを見回す。

「その兄さんは来てないの? 羽三美の家庭教師なんでしょ。私はまだ認めてないけど」

「別に月夜に認めてもらう必要ないもん。それに兄様なら今日はいないよ。月夜が来る日にわざわざお勉強の予定は入れないからね」

 と、二人がそんな話をしていると、ぱたぱたと別の足音が近づいてきた。

「こんちには! あたしともちゃんと話すの初めてだよね。貰井芽守だよ。羽三美のお姉ちゃんね。よろしく月夜ちゃん!」

 ずいずいと食い気味で芽守が自己紹介をする。

「ど、どうも陽咲月夜です。あのカフェではろくに挨拶もせずに失礼を――」

「気にしないでって。なんならあとであたしの部屋に遊びにおいでよ」

「もう、めもり姉様!」

 間に割って入った羽三美が、芽守と月夜を引き離した。

「月夜は羽三美と遊びに来たんですよ。めもり姉様は一人で趣味のドミノ倒しにでも興じていて下さい」

「勝手に人の趣味を捏造しないでよ! いいじゃん、あたしだって月夜ちゃんと仲良くなりたいんだから」

 などといったやり取りを、矢雲と紡綺は上からのぞいていた。エントランスから二階に繋がる階段を登った辺りの物陰に、二人で潜んでいる。

「羽三美と芽守が順番に出てきた。この流れなら自然に紡綺も登場できるぞ」

 小声で矢雲が言う。

「そ、そう。なんだか緊張しますね」

「いいか。第一印象が大事だからな。ウェルカム感を出して、優しそうな人って印象を持ってもらうんだ」

「そこは任せて下さい。自室でかなり練習してきましたから」

「そういうとこ真面目だよな……」

「参ります」

 紡綺は洗練された足運びで、エントランスを一望できる二階の張り出た手すりの前まで歩み出た。水面を渡るかの如く静かで流麗な所作は、誰の目をも引き付ける。

 見上げる月夜と、見下ろす紡綺の視線が重なった。静寂は何秒あったのか、不意に、重く、紡綺が第一声を発する。

「これは月夜さん。よく来ましたね」

 その口調は“よくぞ我が眼前にたどり着いたな”的な、魔王が勇者によく言うアレな感じだった。おまけに照明の逆光の中で、不敵な笑みも浮かべている。紡綺にしては、精一杯のもてなしスマイルらしかったが。

 委縮しているのは月夜だけでなく、羽三美と芽守もいきなりラスボス感を出してきた姉を前に固まっている。

「あ、あの、本日はお邪魔させて頂いて……えっと、騒がないようにしますので……」

「遊びに来たのでは? 好きなだけ騒げばいいでしょう。そんなことで立腹するほど、私は狭量ではありません」

「あ、あ、ごめんなさい……」

「ではごきげんよう」

 颯爽と踵を返し、紡綺は矢雲のもとに戻って来た。

 ふう、と息を吐いて、

「おそらくですが、失敗したと思います」

「だな!」


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《★scene-⑫ 運命は月の周りを巡る★》


「――でね、ここがラウンジで、あっちが食堂で――」

 羽三美は月夜を連れて、屋敷の案内をしている。広い館内なので、見て回るだけでも目を引くものは多くあるのだろう。月夜も興味深々で、めったにお目にかかることのない調度品の数々を眺めていた。

 その二人を離れて追跡する人影が、同じく二つ。

「まだ挽回はできる。先回りしてさっきのミスを取り返すぞ」

「……そんなにダメだったかしら……」

 矢雲と紡綺である。仲良くなる大作戦は続行中だ。

「いいか、月夜は俺がいるとは知らないはずだ。だから基本的には紡綺が立ち回ってくれ」

「承知しています。大船に乗ったつもりでいるといいでしょう」

「どこかが水漏れしてるんだよなあ、その船」



 〈音楽室〉

 防音設備が整い、ピアノやギター、ドラムなど、あらゆる楽器が保管されている。

「大きい声で歌っても、全然音漏れしないんだよ。あとレコーディング機器もそろってるんだ。月夜は歌は得意?」

「んー……上手じゃないから人前では歌わないなあ」

 羽三美と月夜が音楽室の前までやってくる。

「あれ、音色が聞こえる。誰か使ってるの?」

「めもり姉様かな。よく一人で流行りの曲を歌ってるし」

「あ、そういうのが好きなんだ、芽守さん」

 扉を開けた二人が見たのは、音楽室の奥、一段上がったステージでバイオリンを奏でる紡綺だった。

 軽快かつ流れるような旋律が鼓膜を震わせる。

「ああ、これモーツァルトだねー。セレナード第7番ニ長調K.250《ハフナー・セレナード》 ロンドって曲目」

「羽三美すごいね、聞いただけでわかるんだ?」

「お嬢様だよー、これでも。けどつむぎ姉様、なんで急にバイオリンなんか……」

「邪魔したら怒られない? 他のところ案内してよ」

 早々に二人は音楽室を出て行ってしまった。退室を見届けてから、紡綺は演奏を止める。

 グランドピアノの裏に隠れていた矢雲が、ひょこっと顔を出した。

「これ、どんな作戦のつもりだったんだ」

「こう……曲につられて月夜さんが近づいて来て、いつの間にか二人でのセッションが始まるのではと……」

 いわゆるアメリカのラップバトルのノリである。

「誰もがバイオリンを当たり前に弾けると思うなよ。うちの妹はリコーダーが限界だ」

「せっかくストラディバリウスを持ち出してきたのですが……」

「ストラディバリ……!? そ、それの値段って」

「20億くらいだったかと」

「は、早く片付けてこい!」



 〈遊戯室〉

 来客があった際のレクリエーション等に使われる部屋である。お遊び用のスロットマシーンやルーレット台もあったり、ちょっとしたカジノの雰囲気だ。

 そこに羽三美と月夜が入ると、ダーツを手にした紡綺が的を狙って構えているところだった。

「つむぎ姉様……? さっき音楽室にいたはずなのに」

 もちろん全力疾走しての先回りだ。涼しい顔をしているが、実は息切れは収まっていなかったりする。

 美しい姿勢をキープし、的の中心に狙いを定める。手首のスナップを利かせ、投擲。ひゅっと風を切って放物線を描いたダーツの先端は、まったく離れたバーカウンターのグラスを刺し貫いた。バリンと音を立てて割れる高級ワイングラス。

「ね、ねえ。紡綺さん怒ってるんじゃないの? 私たちに対する無言の警告なんじゃないの?」

「そんなことないと思うけど……普段、つむぎ姉様って遊戯室に来ないし」

「だったらやっぱり何かしらの憤懣を訴えに来たんじゃないの?」

「えー、そうなのかなぁ……?」

 そそくさと二人は出て行ってしまった。

 今度はビリヤード台の下から、矢雲が顔を出す。

「何かしらを訴えているってのは当たりなんだが。この作戦の意図は?」

「いっしょに遊んでみませんかっていう」

「言わなきゃわからんって! あとなんでグラス割っちゃうんだよ……」



 〈厨房〉

 料理を作る家庭的な一面を見てもらい、親近感を抱いてもらう作戦だったが、

「た、退避だよ!」

「え、なんで?」

 厨房内にいたエプロン姿の紡綺の背中を見るや、羽三美は月夜の腕を引いて一瞬で引き返してしまった。百万の敵軍に遭遇してしまったかのような、血相を変えた俊敏な撤退だった。

「あ、あら? これは私、何も失敗してないと思うのですけど」

「ノーコメントだ!」

 首を傾げる紡綺に、矢雲はそうとしか言えなかった。


 ●


 その後もあれこれ先回りで仕掛けてみたりしたものの、全てが裏目に出てしまい、手ごたえはまるで感じられなかった。

 エントランスまで戻って来た矢雲と紡綺は、そろって肩を落とす。

「……もしかしたら私は、あまりコミュニケーション能力が高くないのかもしれません」

「今気づいたのか……」

 月夜との接点をうまく持てない。手をこまねいている間に、月夜は羽三美の部屋に入ってしまった。こうなるとこちらからは何もできない。

「困りましたね。もう方法が思い浮かびません。いっしょに話せる機会がもっとあればいいのですが」

「話せる機会か……」

 共に行動できる時間は、あればあるほど良い。しかしやはり生活圏が被らないのがネックだ。

 いや、待てよ。一つだけある。

「なあ、夏祭りは?」

「え?」

「ほら、一緒に行こうって言ってた夏祭りだよ。あれに月夜も連れて行くってのはどうだ」

「確かに仲良くなれる機会かもしれませんけど……でも、それは私と二人で行くという約束だったのでは……」

 なぜか紡綺は戸惑っているようだった。

「……矢雲君はそれでいいんですか?」

「どういう意味だ?」

「だって、えっと……」

 うつむいて、言葉を濁す。

「はぁ、仕方ありませんか……私が言い出したんですものね。運命を変える力、その存在を月夜さんに知ってもらうために――」

「あれ、矢雲兄さん?」

 月夜がエントランスに姿を見せていた。唐突な邂逅だった。

「つ、月夜!? なんでここに?」

「お手洗いに行った帰りで道がわからなくなっちゃって。兄さんこそ、今日は来ないって羽三美に聞いてたんだけど」

「あ、ああ。ちょっと紡綺に用事があってな。な?」

「ええ、大学の講義のことで話し合いを。羽三美の部屋でしたね。案内しますのでついて来て下さい」

 とっさにはぐらかす。

 先導しようとする紡綺に、月夜は続けてこう言った。

「運命を変える力って、なんのことですか?」



 ――つづく――

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