第8話 紡織の女神と天への反抗
その一杯を差し出す。
「早すぎませんか? 注文してから一分と経たずに出てきたのですが」
「美味くて、安くて、早いんだ。牛丼ってのは」
客が紡綺以外にいないのだ。どんぶり一つに時間がかかるわけもない。おそらく彼女は、食材の切り分けや肉の仕込みなんかをオーダーを受けてから手掛けるとでも思っているのだろう。
そんな説明も時間がかかりそうだったので、矢雲は何も言わないことにした。
「接客同様、調理も手抜きというのは頂けませんね。一般の方は気になさらないところなのかもしれませんけど」
などと言いつつ、箸を持つ。
さすがにどんぶりをかっ食らうような真似はせず、上品に一口ずつ食べ始めた。むすっとした表情で箸を口に運び続ける。
さあ、どんな文句が飛び出してくる。“この肉はA5ランクではないのですか?”ぐらいなら予想の範疇だ。“このどんぶりは有田焼ですか?”などのトリッキーな問いにも答える用意がある。ただ一言“うるさい”と返すだけだが。
もくもくと無言で食べ進め、ついには完食。静かに箸を置き、そっと口元を拭う。
「おいしかったです、とても」
「え、あ、そう? ありがとう」
予想外の一言に普通にお礼を言ってしまった。
「米と肉と出汁の完璧かつ完全なる調和は、まさしく計算され尽くした黄金比。A5ランクの牛肉でありながら脂がくどくなく、最後まであっさりと頂けました。さらにはこの器のデザインも素晴らしい。名のある陶工が精魂込めて焼き上げたのでしょう。繊細な絵付けと透明感のある白磁――これは有田焼ですね」
「色々間違ってるが、気に入ってもらえて良かったよ」
「シェフを呼んで下さる? ぜひ労いの言葉を述べたいのですが」
「その金持ちムーブをやめろ。つーか作ったのは俺だ。そもそも店内に俺しかいない」
上流階級あるあるその①“なにかとシェフ呼びがち”だ。
「……なんでしたらうちの厨房で雇用してもいいですよ?」
「もうお宅の羽三美に雇われてるから。で、本題はそろそろ聞かせてもらえるのか?」
「本題? ――あ」
「まさか牛丼食べるのに夢中で忘れていたんじゃ……」
「そ、そんなわけないでしょう。変なことを言うと処刑しますよ」
「ペナルティ重っ」
上流階級あるあるその②“なにかと庶民を処しがち”だ。いや、これはあるあるではない気がする。
紡綺はそそくさと居住まいを正して、こう切り出した。
「まあ……何と言いますか……羽三美と同じようなことではありますが」
深刻な口調に矢雲は構える。患者に余命宣告するくらいの重々しい雰囲気だった。
「私の夏期の課題の手伝いをして欲しいのです。主に街頭アンケートの」
「なんだ、そんなことか。別にいいけど」
即答して、なぜか会話が止まる。一瞬の沈黙のあと、
「え、それだけ?」
「え、いいのですか?」
お互い拍子抜けの顔を付き合わせる。
もっととんでもない依頼をされるのかと思っていた。方や紡綺はその頼みのハードルがもっと高いものだと思っていたらしい。
「み、見返りはなんです? まさか弱みに付け込んで、いやらしい感じのあれやこれやを強要するつもりでは……」
「俺をなんだと思ってんだ……。たかがアンケートの手伝いだろうが。それくらい別にいいって」
「本当に? あ、ありがとう……ございます。えっと……それじゃお会計を」
頬を赤らめ、珍しくしおらしい態度だったが、渡してきたのはクレジットのブラックカードだった。照れた顔で、なんて厳ついものを。牛丼屋でブラックカード出すやつ初めて見た。
「帰りはどうするんだ?」
「車を待たせてあります。心配は不要です」
「もう一つ聞きたいんだが」
「なんです?」
「この極端に客が少ない現象……お前、また因果を操作したな」
「だって他にも人がいたら、落ち着いてお話ができないでしょう? ここに来る前に芽守と羽三美にも協力してもらいました」
「あのなぁ、店の売り上げにも関わるんだから、あんまり自分本位のことはするなって」
「お客が少ないと矢雲君のお給金も下がるのですか。ですがその辺りのフォローはちゃんと考えてあります」
「ん?」
急に店の外が騒々しくなってきた。いったいどこにいたのか、サラリーマンの人だかりができている。
「いやー急に牛丼食べたくなっちゃったよ」
「お、席ガラガラじゃん」
「三人で入ってもいいかい?」
「こっち五人ね」
問答無用で押し入ってくる。
矢雲が絶句していると、平然と紡綺は言う。
「これでいいでしょう。もともと来店するつもりだった方たちです。
閉店三十分前。店外の列およそ三十人強。店内には矢雲一人。
「ではごきげんよう。日にちはまた連絡しますので」
「ま、待て! おい! 一気はやめろ! 一人で捌けるか、こんな人数!」
押し寄せる大量の客の合間を縫って、紡綺は優雅な足取りで出ていった。
《――★★紡織の女神と天への反抗★★――》
「たとえ客を百人詰め込まれたとしても俺の時給が上がるわけではないと、お前の姉貴に伝えといてくれ」
店先に水を撒きながら、矢雲は店内の芽守に言う。彼女は手際よく本棚の整理をしていた。今日は古書店のバイトで、開店前の準備である。
「もしかして牛丼屋のこと? あたしは言ったってば。でも紡綺姉さんって、あれで結構突っ走るとこがあるからさー。そのまま因果操作を強行しちゃって」
「……まあ、いいけどな。乗り切ったし」
「あはは、あたしは矢雲先輩なら大丈夫ってわかってたから。ところでさ、姉さんとまたお出かけするんでしょ」
「課題の手伝いな。街頭調査が苦手なんだと」
「ふーん」
気のない返事で、芽守は本の陳列を続けた。
セミがよく鳴いている。午前中とはいえ照りつける日差しは強く、撒いたばかりの水が早くも蒸発しかけていた。
矢雲は店内に戻る。古いエアコンが健気に稼働してくれているものの、いつも通りさほど冷えない。生温い風が汗ばんだ首すじを撫でていく。
「ねえ、先輩。バイトの掛け持ち減らすんだって?」
「羽三美に聞いたのか? そうなんだ。羽三美の家庭教師の日給がめちゃくちゃいいからさ。その分、いくつかバイトを切り上げて、時間を空けようと思ってる」
「空いた時間で何するの?」
「そりゃ今まで出来なかった分の勉強とか。本分は大学生なわけだし」
「遊びには行かないの?」
「うーん、遊びなぁ……」
「行こうよ、一緒に」
押し被せるように芽守は言う。
「あたし、どこでも付き合うし」
「ま、確かに息抜きは必要か。じゃあ、その時は遊び相手になってくれ」
「うん!」
嬉しそうに笑う。仕事の手を動かしながら、彼女はこんなことも聞いてきた。
「でもさ~、先輩って友達いないの?」
「失礼な――って言いたいんだが、大学入ってからはバイト三昧で友達なんて作るタイミングもなかったよ。サークルやゼミにでも入ってないと、中々誰かと知り合う機会も少ない」
「へー、大学ってそういう感じなんだ」
友人と言われてふと思い浮かんだのは芝だった。
芝平太。一回生の頃、たまたま一般教養の講義で席がとなりになって、そのまま親しくなった。明るくて人懐こい性格で、よく遊びに誘ってくれる。
もっとも時間がうまく合わず、まともにその誘いに応じられたことは皆無に等しいが。そういえば最近誘ってくる回数が極端に減ったような――
「あ、あとさ、バイト少なくするって、この古書店も辞めるの……?」
「いや、ここは続けようと思ってる。俺らがいないとこの店、すぐに閉まることになるぞ」
店長の道楽でやっている古書店だ。バイトは矢雲と芽守のみ。しかもこの二人で切り盛りしている部分が多く、発注、買取、在庫管理のほとんどを担っている。矢雲に至っては、収支計算まで任される始末だった。
「あー、同感。今日も店長いないし、むしろいる日の方が少ないし。……でもそっか、よかった」
「心配しなくても芽守だけに後を託す真似はしないさ」
「そういう意味の“よかった”じゃないんだけどね」
「じゃあどういう意味の?」
「さーあ?」
ガタつく異音が収まり、エアコンの調子が戻ってくる。ようやく店内が冷え出した頃、一人の客が来店した。
「失礼します」
と、日傘をたたんで戸口をくぐるのは、ハーフフレームの眼鏡をかけた怜悧な容貌の女性だった。
その女性を見るなり、芽守が驚く。
「ひ、氷見子さん!?」
「これは芽守お嬢様。エプロン姿もよくお似合いでございますよ」
「そりゃどうも――じゃなくて! どうしてここに来たの!? 屋敷は!?」
「本日は非番です。本屋に参りましたのは、もちろん本を購入するために。わたくしの趣味は読書。そしてこの古書店には素晴らしい掘り出し物が眠っていると、もっぱらのうわさでして」
「どこから流れてんのよ、そのうわさ」
氷見子と呼ばれた女性は芽守への挨拶もそこそこに、本棚を眺めながら狭い店内を回り始めた。
矢雲は小声で訊く。
「あの人だれだ。芽守の知り合いか?」
「まだ会ったことなかったの? うちのメイド長みたいな役割の人。全然笑わないんだよ。岩城と同じくらい」
「それは鉄壁だな……」
ややあって、氷見子は一冊の本をレジカウンターに置いた。今では絶版になっている海外の神話集だ。
「まさかこのシリーズがあるとは思いませんでした。今日は巡り合わせの良い日です」
「お眼鏡に叶ったなら何よりで。ではお会計を?」
「ええ、ですがその前に――芽守お嬢様、ご無礼を」
氷見子は電光石火の動きで芽守の背後に回ると、挟み込むようにしてその両耳を塞いだ。
「ひゃああ!? な、なに氷見子さん!? 離してよ!」
「ご無礼と言いました」
じたばた暴れる芽守をまったく意に介さず、彼女は平坦な口調で言う。
「このような形で申し訳ありません、
「あ、陽咲矢雲です。いつもお宅にお邪魔しています。……なぜ芽守の耳を押さえているんです?」
「色々と都合がありまして。今からお話する内容は、芽守お嬢様に聞かれない方が良いだろうというわたくしの判断です」
「はあ……?」
こほんと咳払いし、氷見子は続ける。
「まずは紡綺お嬢様の夏期の課題にご助力頂けること、まことにありがとうございます」
「ああ、そんなことでしたら別に――」
「紡綺お嬢様はお気持ちを素直に表に出すことが不得意です。その結果、思ってもいないことや真逆のことを口にしたりしてしまう、いわゆるツンデレ属性的なものをお持ちでございます」
「ん? え?」
「どこにデレ要素があるのかと仰りたいのですね。わかります。ですがご心配には及びません。心を開いたらちゃんとデレて下さいます」
芽守が抵抗している。
「ねえ! なんの話してんのよ! 氷見子さんってば! あうっ!?」
こめかみ付近を指でゴリッと押すと、芽守はぐったりとうなだれた。
「ご安心ください。ただの秘孔です」
「ただのとは」
最近の女中は秘孔を押せるのか。
「お優しい方なのですよ。ただ勘違いをされやすくもあります。他人に対して自ら壁を作ってしまうがゆえに。それなのに寂しがり屋。だから陽咲様と自然体でお話されているのを見て、わたくしは嬉しく思っています」
「自然体ですか、あれ」
「ええ、とても」
氷見子はくすりと微笑んだ。芽守は笑わないと言ったが、普通に笑っている。すぐに元の表情に戻ったが。
「お出かけの日、紡綺お嬢様をよろしくお願いします。今日はそれだけを言いたかったのです。わたくしがこんな話をしたことは、どうかご内密に。お仕えする女中としては出過ぎた進言ですから」
「別に言いませんが……そんなことより、問答無用で秘孔を押す方がまずい気はしますけど」
「多分意識が戻ってもこのやり取りは覚えておられないと思いますので、わたくしの粗相は陽咲様以外では神のみぞ知るというところです」
「この世界にもう神はいないらしいですよ」
「でしょうね」
冗談のつもりの一言への反応は、少し気になった。
氷見子は芽守をそっと椅子に座らせると、買ったばかりの古本――その神話の表紙を一瞥する。眼鏡の奥の瞳には、複雑な感情が揺らいでいるように見えた。
●
「アンケートのご協力、ありがとうございました」
紡綺はぺこりと頭を下げて、協力してくれたその人を見送る。
炎天下の街中。これで必要な回答数が集まった。
「終わり、でいいのか?」
後ろに控える矢雲が問うと、紡綺は吐息をつく。
「案外スムーズに行きましたね。矢雲君のおかげと言っておきましょう」
「ちょいちょい上から目線で来るよな。素直にありがとうと言え」
街頭調査は思っていたほど難航しなかった。同行がいれば紡綺も大して緊張しないらしく、手頃な通行人にアンケートの協力を取り付け、手早く回答人数を増やしていった。
声をかけられた人たち――主に男性陣だが――は面倒な顔をすることもなく快く応じてくれていた。軒並み、鼻の下を伸ばしていたが。
お嬢様然とした彼女を前にすると、男はそうなるものなのだろうか。紡綺はまあ、美人だと思う。黙っていれば、であるが。
「あなたに失礼なことを考えられている気がします」
「被害妄想だ。それでこれからどうする。もう解散ってことでいいのか?」
「ん……」
紡綺は少し悩んで、首を横に振った。
「集めたデータを資料にまとめておきたいです。涼しいところがいいですね。矢雲君も付き合って下さい。その……客観的な意見も欲しいですし」
「それは構わないが、涼しいところか。そういえばこの辺は……」
アスファルトの熱が生み出す蜃気楼の向こうに見えるのは、先日に訪れたばかりのショッピングモール《アイオン》だった。
「ふう……生き返りますね」
「違いない……」
灼熱の外気から一転、店内には快適な冷風がそよいでいた。古書店のエアコンも早く取り替えてくれないかな、などと思いつつ矢雲は紡綺を先導する。
「前はフードコートを使ったな。今回もそこでいいか」
「前?」
「
「そうでしたね。あれ以降、矢雲君の妹さん――月夜さんでしたか。羽三美と仲良くしてくれているみたいです」
「最初はなんか仲悪そうに見えたけど、いつの間にか親しげに話してたよ」
「矢雲君と月夜さんとの仲はどうなんです」
「別に悪くないと思う。ただ最近ちょっとよそよそしくなったようには感じるかな。昔はよくここの屋上庭園で遊んだんだが」
「それは矢雲君が年頃の女の子の機微を理解していないからでしょう。繊細なんですよ?」
「なるほど」
「わかっていないご様子で」
フードコートは三階だ。そこに向かう最中、紡綺はきょろきょろと目移りしていた。
「あのお店はなんですか?」
「民芸品の専門店」
「あれは?」
「和柄だけを取り扱う服屋」
「そこは?」
「百円均一」
「百円で物が買えるのですか? 消費税の額なのに?」
「お前だけ税率100パーセントの世界で生きてんのか」
お嬢様の好奇心スイッチが入ってしまったらしい。何か見つけるたびに足を止め、興味深げに店先をのぞいている。彼女のペースに合わせているとまったくフードコートにたどり着かないので、半ば強引に三階まで連れて行く。
「紡綺はショッピングモールも初めてなのか?」
「いいえ、ここは小学生の頃に何回か来ています。お母様に連れられて」
「小学生時代とかあったんだな……」
「私をなんだと思っているのですか。あの頃はまあ……お母様と一緒に動くこともありましたか。でも私はだいたい一人で、この上の屋上庭園で時間を潰して――」
何気なく上に続くエスカレーターに視線を転じ、紡綺は硬直した。その視線を追って、矢雲も同様に体が固まる。
屋上庭園に繋がる上階が、黒い霧に覆われている。
「こ、これは〈天上の意志〉による不可侵の制約? どうしてこんなところで……!?」
「そうか……俺、なんで……」
なんで忘れていた。ついこの間のことじゃないか。ここに来るまでに羽三美と月夜の話をしたし、何より屋上庭園の話題もあった。
それなのに
「矢雲君にも視えるのですか……」
「っ、紡綺もか。羽三美と月夜には視えなかったのに」
あれは本物の霧ではない。二人の横を通り過ぎて、一般客は普通に屋上に出入りしている。だが自分たちは進めない。強い頭痛が頭蓋を圧迫する。
「これ以上ここに留まるのは危険です。いったん離れましょう。記憶が檻の中に入れられてしまう前に」
「檻……?」
●
「少し落ち着きましたか?」
「ああ。紡綺は?」
「問題ありません」
フードコートのテーブルの一つで、二人は休んでいた。頭痛はもう消えている。
「……〈天井の意志〉ってなんなんだ。羽三美が教えてくれたが、俺にはよくわからない」
「羽三美が……。あの子ったら軽々しくそれを口にして。……まあ、いいでしょう。〈天上の意志〉が世界を統括するバランサーであることは聞いていますか?」
「ああ」
人と神と世界の調停を担うもの。神の全てはすでに人間に生まれ変わっているとのことだが。
「
「突出したもの?」
「定義があるわけでないですが、力だったり、知識だったり、記憶だったり、様々です。身近な例でいえば、因果の糸を紡いで運命を決める、私たちの力でしょうか」
「その力が〈天上の意志〉の制限下にあるのか?」
「私たちだけではなく、人知を超えた能力であればすべからく。この運命操作の力は悪意を持てば、世界をどうとでも操ることができるでしょう? それゆえに、そうならないための制約が多くかけられています」
紡綺は水を一口飲んだ。
「たとえば、そうですね。運命を変える能力は、姉妹三人に振り分けられ、誰か一人の意志のみで行使できないようになっているとか。他にもたくさんありますけど、今は内緒です」
「………」
北欧神話にもノルンという運命を司る女神たちがいる。ウルズ、ベルダンディー、スクルドだ。ローマ神話ではパルカエという同じく運命の女神たちが存在し、これもノナ、デキマ、モルタの三柱で構成されている。
いずれもモイライのクロト、ラケシス、アトロポスのように役割と象徴が三分割されているのだ。
これも強大過ぎる力を抑制する〈天上の意志〉の働きがなされた結果だと、紡綺はいう。
「すなわち不文律。逃れることは絶対にできません。意識的にも無意識的にでもその枠を出ようとした者には、そこから引き離すための強制力が働きます」
「それがなぜ俺たちに起こる? さっきの屋上庭園の黒い霧は、俺たちになんの関係がある?」
「……私にもわかりません。ただそれを知ることで、
問い詰めたところで、紡綺にも答えはないようだった。
「けれど矢雲君。さっきも言った通り、〈天上の意志〉に悪意はない。ただそういうものという認識でいい。だから普通に生活する分には何の支障もないんです」
確かにそうなのだろう。人知を超えた力を抑制するというそれこそ、人の手の及ばぬ存在であることには違いない。
そうやって何千年も何万年も回ってきた世界なら、たかが学生の一人が抗うことは不可能だ。変わらない日常の中で、バイトして、勉強して、獣医を目指して、いつか自分の夢を叶えて、それを幸せな人生と受け入れて――
「それにしてもフードコートってたくさんのお店が並んでいるんですね。まるで屋台みたい」
紡綺は話題を変えた。
「屋台? お嬢様は屋台なんてそうそう行く機会ないだろ」
「お父様がいた頃に一度だけお祭りに行った覚えがあります。もうあまり覚えていませんけど」
「……お父さんは?」
「亡くなりました。十年前に」
「そうか」
「ずいぶん前のことですから、もう悲しくはないですよ。ただまあ、時々は……」
二の句は継がず、口中で濁す。紡綺はさみしがり屋――氷見子の言葉をふと思い出した。
「だったら、今年の夏祭りいっしょに行かないか?」
とっさに出た一言だった。紡綺は目を丸くした。
「え? わ、私と?」
「この場に他に誰がいるんだ。毎年八月末に開催されてるんだが、予定でもあったか?」
「な、ないです! 行きます。……行きたいです」
紡綺はうつむいてグラスの水を眺めている。表情はよく見えなかった。
こんな何気ない日々が過ぎ、繰り返される。それでいい。
本当にそれでいいのか?
「どんなお店が出ているのかしら。私、金魚すくいってやったことなくて――矢雲君? どうしたんです?」
「やっぱダメだな……俺は。知ってしまったら、尚のこと」
テーブルの下で拳を握る。
与えられる知識だけを享受し、都合の悪いものは知らなくていい。そんな何者かの手のひらの上で生きていく不快感を感じる。いや、生きていくではなく、生かされているという心地悪さだ。
「俺、獣医になろうと思ったきっかけを思い出せないんだ。夢の根幹なのに。多分、なんでか〈天上の意志〉の制限をかけられてる」
「それは……」
「あと黒い糸だったか。最近のトラブル続きは偶然じゃなくて、もしかしたら死の運命が絡め取ろうしていたのは俺かもしれないと、そう羽三美が言っていた」
「羽三美がそんなことを?」
「本人も何となくそう思うぐらいの感じだったが。冗談とは流せなかった」
「………」
「本当はどうだって良かったんだ。初めて紡綺に会った時、俺に糸が視えないとか言われてもピンと来なかったしな。でもその糸のこともそうだが、俺にかけられた記憶の制限、紡綺たちにかけられた記憶の制限、立ち入れない場所、そして死の運命。全部一つに繋がっている気がする。俺は自分のことを知りたい」
「〈天上の意志〉に背くとしても? 不文律の枠を踏み越えてでも?」
「ああ」
紡綺はしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「確かにあらゆる答えは私たちの過去に集約されているようです。それにまあ……万が一あなたに死なれでもしたら、多少は寝覚めも悪いですし」
「多少かよ」
「なにより夏祭りに連れて行ってもらえないのは困ります」
矢雲を見据えて、くすりと笑う。その微笑を吹き消して、紡綺は言った。
「矢雲君。よく聞いて下さい。あの遊園地での一件で、私は観覧車がどうなるのか、運命を視ようとしました。ですが因果の糸のないあなたが関わる未来だったから、視ることができませんでした。観覧車一帯が黒い霧に覆われたようになって見通せなかったんです。矢雲君だけではなく、その事象に関係する人々もまた視えなかった」
「黒い霧……」
「そこで“遊園地にいて、観覧車に関わるなんらかの危機には遭遇する”けど、“矢雲君には関わらないであろう一般客”の運命を視ることで、間接的にこの後何が起こるのかを知ることができました。それはつまり、その能力の使い方は〈天上の意志〉の制約に触れていなかったということ」
「直接だと禁忌に抵触して、しかし第三者を介すれば制約の網を抜けられる……か? だがその仕組みをどう利用する?」
「いるでしょう、一人。幼少期のあなたと行動を共にし、かつ屋上庭園に入るにあたって、今も制限を受けていな人物が。あなたが思い出せなくても、あなたのことを覚えている人物が」
「まさか……」
「そうです」
紡綺は上を見る。反抗の眼差しで、遥かな天上を。
「陽咲月夜。彼女の知るあなたの過去が、おそらくは手掛かりになる。月夜さんを突破口として〈天上の意志〉の隙間を突き、私たちの封じられた記憶を取り戻します」
――つづく――
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