第7話 黒の霧と夜の月
さながらそれは剣豪同士の立ち合いのようだった。
柄に手掛けて、静かに鯉口を切り、すり足でにじり寄り、間合いに入った刹那に刃を抜き打ち、一刀の下に敵を切り伏せる。
一瞬の油断さえ命取りになる攻防の中で、先制を仕掛けたのは羽三美だった。
「ドリンクはいかがなさいますか? やくも兄様は紅茶がお好きでしたね。アイスならストレート、ホットならミルクと砂糖が一つずつ」
「いや、その口調いったい――」
「わたくしが何か?」
矢雲が問い質そうとするも、羽三美は穏やかな微笑でそれを封殺した。しかし目は笑っていない。
さらに言葉遣いが完全なるお嬢様モードで、一人称も“わたくし”と来たものである。
〈オリュンポスランド〉から少し離れたカフェ。店内の空気がひりついている。
「兄さん。お腹減ってるでしょう? サンドイッチ食べない? ほら、兄さんが一番好きなハムとレタスとチーズが挟んでるのがあるよ」
「あ、ああ。頂こうかな」
妹の
学校こそ違うものの、たまたま似たような夏休みの課題を出され、月夜も単身でテーマパークに乗り込み、観覧車の一件後に偶然に自分たちと出会ったという経緯だった。課題目的とはいえ、ためらいなく一人で遊園地に突撃できる感性は、我が妹ながら少々不安になる。
二年前。大学入学と同時に実家を出たから、今では半年に一回ほどの帰省でしか顔を合わす機会がない。
昔はよく『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と後ろから離れようとしなかったものだが、中学生にもなれば反抗期だか思春期だかで、必然的に
線の細いあごのラインに、切れ長の瞳。肩まで届く艶のある黒髪には、三日月を模したカチューシャがあった。
「ん? そのカチューシャって」
「う、うん。誕生日に兄さんがくれたやつ」
「あげたのかなり前のはずだけど、物持ちいいんだな」
「……だって大切に使ってるし」
最後は聞こえないくらいの小さな声でつぶやく。
「兄様。わたくしの専属家庭教師になって頂けるという件ですけど」
いきなり羽三美が別の話題を投げ入れてきた。月夜の眉根が寄る。
「それ、なんの話? 大体どういう関係なのよ、その子。ていうかそもそも席順がおかしいんだけど!」
四人掛けのテーブル席で、俺の横に羽三美、対面に月夜という並びだった。俺が腰を下ろした途端、羽三美がとなりに即座に座ってきたのだから、これはもうどうしようもなかった。
「席はともかく、関係を問われるとどう答えていいか……。世間的には貰井製薬の令嬢……ということになるのか?」
「も、貰井製薬ってあの……?」
羽三美はスンッとすました顔で「そうです」とだけ肯定した。
「大手の会社だからって関係ないわ。お金に物を言わせて、兄さんを言いなりにしようとしてるんでしょ!」
「ふふ、昔の妹が何かさえずってますね。嫉妬は見苦しいですよ」
「今も妹よ! なによ、その昔の女みたいな言い方!」
キャットファイトが始まってしまった。なんだこれ、どうしたらいいんだ。助け船を求めて視線を転じた先に、カウンターに座る
二人はちらちらとこちらの様子を窺っているが、動こうとはしない。遊園地の出口で合流し、カフェに同行したはいいものの、羽三美から『女同士の話をつけてきますから、姉様たちはそこでごゆるりと』と同席までは許されなかったのだ。
「おっ! 〈オリュンポスランド〉の観覧車の事故がネットニュースに乗ってるぞ。ちょっと見てみないか?」
『どうでもいいです』
話題を変えられないかと頑張ってみたが、異口同音にふいにされる。というか羽三美は興味持てよ。下手すりゃそこで俺たち死んでたんだから。
「あのさ。二人とも同い年なわけだし? せっかくだからこの機に友達になるとかして、ちょっとは仲良く――」
『絶対仲良くなんかしてあげないんだから!!』
声をそろえて宣言されてしまった。
《――★★黒の霧と夜の月★★――》
夜なのにサングラスというのはどうなのだろう。
そんなことを思いながら、矢雲は運転する
羽三美と月夜の仲違いに折り合い点はなく、半ば強制的にお開きとなったわけだが、時間はもう夕刻になっていた。そこで紡綺の計らいで、俺たち兄妹を車で最寄りの駅まで送ってくれることになったのだった。
岩城は貰井家の使用人兼ボディーガードのような立場らしい。彼もテュポンくん着ぐるみの中で半日以上動き回ったはずなのに、疲れている素振りがまったく見えない。普段の感情の起伏のなさといい、まるで機械仕掛けのサイボーグだ。
「はぁ、あれこれあったから、結局〈オリュンポスランド〉でのデータ収集できなかったな……」
月夜がため息混じりにぼやく。
「接客力と満足度の比例ってやつか。最近の中学生は難しいことやるんだな。しかも羽三美の中学とまったく同じ課題とか」
「むぅ……」
羽三美の名前を出したせいか、わずかに頬がむくれた。あわてて話題修正をする。
「ま、まあ、あれだ。レジャー施設ってのは遊園地だけじゃない。ショッピングモールとかでも十分だと思うぞ。色んな店入ってるし」
「そうだよね。近いうちに行ってみるね。ところで――」
月夜は視線を運転席に向けた。
「あの、岩城さんでしたよね。ありがとうございます、わざわざ送って頂いて」
「いえ、仕事ですから」
幼いころから月夜は人見知りだ。だが言うべきお礼はちゃんと言える。えらい。頭を撫でたくなる。やったら怒るだろうからしないが。
対して応じる岩城は、普段通りの素っ気なさだ。会話が非常に続けづらい……はずなのだが。
「音楽でもかけましょうか。リクエストして頂ければ何なりと」
「うーん、曲……。急には思いつかないです」
「では〈フレンチ特攻 二人はパリキュア!〉などはいかがでしょうか」
「私はそんなに子供じゃないですよ」
「これは失礼しました」
あれ、なんだか和やかに話している気がする。少なくとも俺にはもっと淡々としているのだが。え、まさか俺は嫌われているのか。
「……月夜様。先ほどの羽三美お嬢様との諍いに関しまして、私からもお詫び申し上げます」
「な、なんです、急に」
「元来は素直な性格をしておられるのですが、感情表現がお上手ではないのですよ。それで頑なな態度になってしまったのでしょう」
「すごく感情出てましたけど」
「初対面の方にそこまで心を見せるのは、羽三美お嬢様にしては珍しいことです。使用人風情から差し出がましいお願いなのですが、できるならお嬢様のご友人になって頂きたい」
しばしの沈黙の後、
「……考えておきます」
「恐れ入ります」
ほどなく車は駅前に到着した。月夜の住む俺の実家は隣町。月夜をホームまで送ったら、俺は歩いて自分の家まで帰るつもりだ。
月夜が車を降り、俺も続こうとしたところで、
「
と、呼び止められる。覚えている限り、岩城から話しかけてきたのは初めてだった。
「観覧車の一件で、羽三美お嬢様を救って頂いたと伺いました。改めて御礼申し上げます」
「いや、俺だけの力じゃなくて、あれは……説明が難しいんですけど」
紡綺と芽守が因果操作をしてくれて、羽三美にもクレーンのフックを引き寄せるときに体を支えてもらった。彼女たちがいなかったら、どうにもならなかったかもしれない。
「救おうと行動して下さった事実は事実。感謝はします。ですが――」
ヒュオオオと冷たい風が吹き抜ける。
「それとこれとは別じゃい。調子こき腐ってお嬢に手ぇ出してみぃ。生肉を足にくくりつけてなぁ……太平洋のど真ん中でサメとレースさせたるけぇのぉ……」
新たな脅し文句が出てくる。前回は日本海をドラム缶で横断だったような。
冗談と笑い流せないほどの殺気が、岩城のサングラスの隙間から漏れ出していた。
●
ショッピングモール〈アイオン〉。連日多くの人々が訪れる
その〈アイオン〉のブティックのショーウィンドウ前で、二人は出会っていた。
「……なんであなたがここにいるのよ」
頬をひくつかせる月夜と、
「それはこちらの台詞です」
スンッとすまし顔の羽三美である。
どちらも一人。手には筆記用具と下敷き代わりのボードを持っている。
「観覧車の事故で課題のデータ収集ができなかったから、遊園地じゃなくてショッピングモールでやろうと思って」
「羽三美も――こほん、わたくしもですが」
和やかに行き交う人々のど真ん中で対峙し、険悪なムードで双方にらみ合う。達成したい目的と選んだ場所が、お互いにバッティングしてしまっていた。
二人とも口を利かないまま、ぷいっと顔を背けて歩き出す。だが方向が一緒だった。
「ちょっとなんでついてくるの!?」
「それもこちらの台詞です。あなたも接客力と満足度のデータが必要でしたら、向こうでアンケートを取ればいいでしょう」
「はぁ!? 私が先にこっちでアンケート取ろうと思ったんだけど!」
「いいえ、わたくしが先です」
口論に決着はつかず、結局同じ場所でアンケートを取ろうとする。
しかし月夜も羽三美も辺りをうろうろするだけで、一向に客に声をかけようとしない。心もとない足取りで右往左往し、しばらくのあと疲れた顔で二人は自然と合流する。
「……私、そういえば人見知りだった」
「……羽三美もだね」
体面を取り繕う元気も無くなった様子で、羽三美のお嬢様モードもオフになっている。
困り果てた先に出てきた提案は、
「えっと、兄さん呼ぶ?」
「……うん」
招集というか徴集だった。ろくに理由を説明されず〈アイオン〉のブティック前に来いとの妹からのお達しである。
いかなる緊急事態かと思い来てみれば、件のブティックのショーウィンドウの前で、月夜と羽三美が立っていた。互い腰に手を当て、逆方向に顔を向けて、一言もしゃべらず制止している。
もうお前らがマネキンでいいんじゃないかと言いたくなるぐらい、憮然たる不動のポージングだった。
「経緯はまあ……理解した」
課題に必要なアンケートを取りに来たものの、二人そろって対人コミュ力がダメダメだったということか。
「けど月夜は初対面の岩城さんとそれなりに話していたじゃないか」
「あ、あの時はお兄ちゃんが――んん! ……兄さんが横にいたから」
兄の呼び方にこだわりがある年頃らしい。俺としてはどっちでもいいのだが。
「そういえばその岩城さんは? 羽三美一人ってことはないだろ」
「岩城は駐車場で待機させてるよ。近くで護衛したいとか言ってたけど、岩城に後ろからじっと見られてたらアンケートをお願いしても怖がられそうだしね~」
羽三美は可愛らしい仕草で肩をすくめた。
しかし結局は彼がいようがいまいが、お客さんに声はかけられなかったという結果である。
月夜が申し訳なさそうに言う。
「呼んでて今さらなんだけど、バイトとか大丈夫なの? たくさん掛け持ちしてたじゃない」
「ああ、今日は夜のシフトだから大丈夫。ちなみに牛丼の吉田屋だ」
「駅前の? あそこおいしいよね」
事情確認は終了。
獣医学部では街頭調査の機会はほぼないが、大学生である以上、アンケート実施についての要領は押さえている。簡潔に中学生たちに指導してやってから、それでも不安げな二人の引率を開始する。
「すいません、実はこの子たちの中学の課題でアンケートを――」
先に矢雲が足掛かりを作り、そこに乗っかる形で月夜と羽三美が前に出る。
「え、えっと……良い接客を受けながらお買い物をした時の満足感って、五段階評価では――」
「――もしよければ理由なんかも聞かせてもらえれば……」
学校の課題とか中学生とか、こちらの事情を先に話すと、同年代の子供を持つ家族連れや主婦は特に協力してくれやすい。
最初はたどたどしかった聞き取りも、回数をこなす内に慣れてきて、どうにか調査に必要な量の回答結果が集まった。
「できた……よかった……」
「羽三美も安心したよ……先生すごく厳しいんだから」
「あー、お嬢様学校はそうなんだ?」
「月夜の学校はどうなの?」
二人で試練を乗り越えたからか、妙な連帯感が生まれつつあるらしい。先日のいがみ合いはどこへやら、そこそこ打ち解けた様子だ。
「二人ともまだだぞ。アンケートを取ったら、次は分析が待ってる。データの偏りとか傾向を見ていくんだ。机のある場所がいい。フードコートにでも行って――」
ふと目がエスカレーターに留まる。昇りのエスカレーターだ。
「兄さん? どうしたの?」
「……なあ、この上って何があるんだっけか」
「え? 憩いの広場みたいな庭園でしょ。小さいころよく来てたじゃない。ほらお母さんが買い物してる間とか、私と兄さんと一緒に遊んで時間潰しして」
「そう……だったな」
「なんなら、庭園に行く? ベンチと机はあったと思うよ」
「あ……」
足が動かない。エスカレーターに向かえない。頭の中にもやが拡がったようになって、思考が鈍っていく。
魂を鎖で縛られるような感覚。これは羽三美から聞いた〈天上の意志〉とやらの強制力か……?
だとしてなぜ今、この場所でそれが起こる。ショッピングモールの屋上庭園に踏み入ってはならない何かがあるとでもいうのか。
「……月夜はなんともないのか? 羽三美は?」
「何が? 屋上行かないの?」
「やくも兄様、お顔色が優れないようですが……」
子供のころから庭園に一緒に出入りしていたはずの月夜には問題なく、女神の転生である羽三美でさえ何の制約も受けていない。
どうして俺だけが。
「いや、フードコートに向かおう。クレープ食べたくないか?」
『え! 食べたい!』
そろって目を輝かせる。矢雲は踵を返し、足早に二人を先導した。その場を離れ切る前に、ちらりと後ろを振り返る。
エスカレーターの上階が、黒い霧に覆われている気がした。
●
夜。紡綺は自室のデスクで頭を抱えていた。
「どうしたらいいのかしら……」
大学の夏期の課題が進まない。
通常のレポートならまったく問題ない。しかし紡綺はフィールドワークが苦手だった。自分で歩き回って、見知らぬ人に協力を依頼するという行為が、そもそもこれまでの人生の場面で発生しなかったのだ。
心理学部は統計ありきの学問である。そして統計にはやはりアンケートが欠かせない。
大学のホームページを利用したネット上でのウェブアンケートはどうだろう。いや、ダメだ。事前のお知らせもしていないのに、わざわざそんなところを開ける酔狂などそうはいない。
「こうなれば運命操作で……」
街中にアンケート台でも設置して、道行く人が記入したくなるように因果を紡いでみるとか。でもそれだと、回答結果にまで何らかの影響が出てしまいそうな気もする。
「何を操作なさるのです?」
「きゃあ!?」
後ろからかけられた声に心臓が跳ね上がる。
「ひ、
「今しがたでございます、紡綺お嬢様。ノックは何度もしたのですが」
貰井家には多くの使用人が務めているが、それらの統括役がこの
自分に因果に干渉する力があることは、三姉妹と矢雲以外に知る者はいない。運命操作という言葉を聞かれてしまっただろうか。もっとも聞かれたとしても、なんのことかは想像のしようもないとは思うが。
「それで何の用?」
「ご所望の紅茶をお届けに」
「あ、そうだったわね。ありがとう」
氷見子は湯気のくゆるティーカップを卓上に置きつつ、「なにかお悩み事がおありで?」と前振りもなく問う。
年齢は三〇代後半。感情の起伏が少なく、表情もあまり動かない。シャープなハーフフレーム眼鏡をかけていることも相まって、どこか冷たい印象を持たれがちだが、そうでないことを紡綺は知っている。
「ええ、実はね――」
氷見子は紡綺が家族以外で素を見せる数少ない人物だった。貰井家には勤めて七年ほどになる。
アンケート調査の件を伝えてみたところ、
「羽三美お嬢様とまったく同じ状況ですね」
「……言わないで」
そう、だから羽三美に遊園地でのデータ収集のアドバイスを求められた時、ちゃんとした答えを返せなかったのだ。
「では紡綺お嬢様も陽咲様に力添えを依頼してはいかがでしょうか」
「な、なんで矢雲君」
「これは……いつから陽咲様を名前で呼んでいらっしゃるのです?」
「この前の遊園地――って今はそんなことどうでもいいわ!」
「まあ……」
と何やら考える素振りを見せてから、氷見子は続けた。
「陽咲様であれば市中に不慣れなお嬢様の案内と護衛を兼ねられますし、さらには同年代の好青年。適任です」
「同年代は関係なくない? あと好青年じゃないわ。不愛想だし、あんまり笑わないし」
「そこは紡綺お嬢様と同じです。故にお似合いだと申し上げているのです」
「はい!?」
氷見子は何を言い出すのか。
こちらの抗弁を制するように、ずいと顔を近づけてくる。
「お嬢様が誰かにお願いをするところを初めて見ました。遊園地に陽咲様をお誘いされた時です」
「み、見てたの? でもだってあれは、他に頼れそうな人がいなかったから……」
「つまり陽咲様はお嬢様にとって頼れる人ということ。ご自身でも気がつかない内に、どこかで心を許しておられるのですよ」
「はあ、好きに言ってればいいわ」
実を言えば、彼へお願いしたことはもう一つある。倒壊を目前に控えた観覧車から、『羽三美を助けて』と心の底から告げたのだ。状況が状況だったとはいえ、ここまで誰かに気持ちをさらして懇願をするだなんて、確かに初めてのことだった。
矢雲は最初は警戒の対象だったが、今はそうでもない自分がいる。
その理由はわからなかった。
この話題はおしまいだと暗に含めて、ひらひらと手を振る。
しかし氷見子は話題を止めない。
「今宵、陽咲様は駅前の牛丼屋でバイトをなさっていると、羽三美お嬢様から伺っております」
「だから?」
「今からお願いに参りましょう。車はわたくしが出します」
「え゛っ」
いつになく強引な氷見子を前にして、紡綺に拒否権はないようだった。
●
夜の十時を回ったが、客が一向に来ない。
「めっちゃヒマっすね……」
厨房からバイトの後輩がぼやく。カウンターに立つ矢雲は首をかしげた。
「変だよな。いつもこの時間は混んでるんだが。駅前なのになんでか人通りもないし」
「そういう日かもっすね」
「うーん、白井君。今日はもう上がっていいよ。あとは俺一人でも普通にやれそうだ」
「マジっすか。注文、調理、レジを一人で!? まあ、陽咲さんならできるんでしょうけど。……じゃあお先に」
「おう、おつかれ」
矢雲もバイトの身ではあるが、その実績から人員の采配のある程度は任されていたりする。
閉店までは一時間。本当にどうしたんだ、今日は。いつも残業帰りのサラリーマンとかでごった返すのだが。
まあ、白井が言う通り、そんな日もあるのかもしれない。少し早いが、片付けられるものは片付けておこうか。
カウンターから厨房に向かおうとした時、入り口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ! 店内でお召し上がりで……」
ようやくご来店のお客様ににこりと微笑みかけて――戸口をくぐった人物を視界に入れるや、矢雲の表情と言葉が固まった。
「あら、矢雲君ってお客には笑うんですね。感心なこと」
貰井紡綺が現れた。およそ牛丼屋には似つかわしくない、政界パーティーにでも参加しそうな上品な服装だ。
「牛丼屋のドレスコードがわからなかったのだけど、これでいいのかしら」
「あるわけないだろ、牛丼屋に、ドレスコードなんて」
「思ったより綺麗な店構えですね。ここが〈牛丼の
「
「どうでもいいですが、早くエスコートをして下さい」
「空いてる席にどうぞ」
「これほどまでに手抜きの接客が存在したなんて……」
「全員にこうなんだが!」
こいつ、どこぞの高級レストランと勘違いしていないか。
カウンター前の席の一つに腰かけると、紡綺はアンニュイな吐息をついた。
「お水も出して下さらないの?」
「セルフだ。そこにグラスとポットあるだろ」
「セル……フ?」
困惑した様子で、スマホで“セルフ”と検索し始めるお嬢様。
マジなのか。注文を聞く段階までまったく進めないので、仕方ないからこちらで水を注いでやる。
「それで目的は? まさか本当にただの食事ってわけじゃないだろう」
「確かに話があって来ました。とはいえお店に入って何も注文しないのは無粋でしょう?」
「そりゃまあ、な」
紡綺はメニューを開こうともせず、優雅にオーダーした。
「この店のお勧めを」
「だから牛丼しかないんだよ!」
――つづく――
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