第6話 天上の意志と記憶の檻

「すっごい大きなクレーン車が見えるよ。何してるのかな?」

 緩やかに回る観覧車のゴンドラの一つ。そのガラス窓に顔を寄せて、羽三美はさみは眼下の光景を興味深く眺めていた。彼女はいつものお気に入りの白いワンピースを着ている。

 羽三美の対面に座り、矢雲やくももその視線に合わせる。

「あれは老朽化したジェットコースターの解体工事だな。そういえば園内のお知らせに書いてあった気がする」

「ジェットコースター……乗ったことないけど、なんか楽しそうだね~」

「やめといたほうがいいぞ。紡綺が絶叫していたぐらいだしな。俺たちが乗ったのは向こうにある現役のコースターの方だが」

「あはは、つむぎ姉様が叫ぶところとか」

「想像できないか?」

「ううん、虫とか見てけっこう叫ぶし」

 あいつ、大口開けて叫ぶなんてしないとか言ってたくせに。

 羽三美はくすくすと小さく笑った。

「それにしても姉様も過保護だよ。使用人たちを二〇人も連れて来るなんて。羽三美は一人でも大丈夫だったのに」

 テュポンくん着ぐるみに紛れて使用人たちが遊園地内に入って来ていたことは、早い段階からなんとなく気付いていたそうだ。それらの怪しげな動きをしているテュポンくん達を避けつつ、自分の夏休みの課題に必要な情報収集をこなしていたという。

 なかなか要領のいい少女だ。もしかしたら三姉妹の中で一番ハイスペックなのかもしれない。そんなことを言うと、姉二人は怒りそうだが。

 そしてあちこち回っている内に、事情を知っていそうな矢雲を見つけ、二人で話せそうな場所として観覧車に連れ込まれた――という経緯だった。

「そういえば前に相談したいことがあるって言ってたのは、この遊園地についてきて欲しいってことだったのか?」

「違うよ。課題は一人の力でやりなさいって先生の指示だもん。やくも兄様には、データ収集ってどうやったらいいかをアドバイスして欲しかったの。大学生ってそういうのよくやるって聞いてたから。結局相談する機会が取れないまま、今日になっちゃったんだけど」

「ああ、なるほど。でもだったら紡綺でも良かっただろ。あいつも同じ大学生で、確か心理学部だ。データ収集とフィールドワークは得意分野だと思うが」

「うーん、つむぎ姉様にも聞いたけど『よくわからないわ。なんなら効率的に情報収集できるような因果操作とか試してみる?』とか言うし」

「職権乱用も甚だしいな……いや、職ではないが」

 女神の力だかなんだか知らないが、ぽんぽんと人の運命をいじくってからに。情報収集できるような因果操作ってなんなんだよ。

「羽三美たちにとっては、この力は特別なものじゃないんだよ。当たり前にそこにある、みたいな」

「だから多用するのも抵抗がないって?」

「抵抗がないじゃなくて、疑問がないって感じ。……でもね」

 羽三美は手のひらでスマホを弄ぶ。キラキラのシールでデコレーションされたスマホが、窓から差し込む光を反射した。

「兄様と出会ってから、どうしてか疑問が出てきたの。当たり前に使っていたものが、もしかしたら当たり前じゃないかもしれないっていう疑問。どうして今になってそんなことを思ったのかな。閉じていた蓋が急に開いたみたい」

「何を言ってる……?」

「少しお話しよ。大切な何かを思い出せそうな気がする」

 観覧車は回る。

 人を運ぶゴンドラを吊り下げ、ゆるゆる、くるくると。それはまるで神代の女神たちが紡いだ運命の輪舞ロンドのように。

 


《――★★天上の意志と記憶の檻★★――》



「めもり姉様に“お前たちの力は生まれつき備わったものか”って質問したの覚えてる?」

「ああ、引っ越しのバイトの時だな」

 あのあとすぐにマンションが火事になった。だからちゃんとした答えは返ってきていない。確か“いつからだったっけ”とかで、はぐらかされたのだったか。 

「その日の夕食で、それをめもり姉様が話題にしたの。“いつからだったっけ?”って。そうしたらね、誰も答えられなかったんだよ」

「誰も……?」

「ずっと生まれた時からだと思ってた。疑問を持ってなかった。でも記憶をたどってみたり、姉様たちの覚えてる限りの話をすり合わせてみたりしたら、だいたい八年くらい前に力に目覚めたらしいってことになった。だから羽三美の場合は六才頃だね」

「待て待て、おかしいだろ。“らしい”ってなんだ。自分たちのことなのにわからないのか?」

「うん。覚えてないし、思い出そうとすると、頭の中に霧が立ち込めたみたいになって、それ以上考えられなくなる」

「それは……どういうことだ」

「天上の意志」

 羽三美はそう言った。聞いたことのない言葉だった。

「多分、それが関わってると思う。羽三美にはうまく説明できないから、〈天上の意志〉についてはつむぎ姉様に聞いて欲しいんだけど」

「さっぱりわからん」

「だよね~、えっとね……この世界と神様と人間をまとめるルールみたいなもの……かな。つむぎ姉様は“万物を統括する不可侵のバランサー”って言い換えてた」

 人と神と世界を調定する大いなる何か。

 それによって彼女たちは記憶に制限をかけられているということか? 

 しかし神というのであれば、一つ気になることがある。

「前に勉強を教えていた時、羽三美は“この世界にもう神様はいない”って言ったよな。芽守が割って入ってきたから聞きそびれていたが、あれはどういう意味だったんだ」

「言葉通りだよ。ずっとずーっと昔。人と神様との世界がはっきりと分かれていた頃の大昔。神様は大きな戦争をしたの。で、長い時間をかけてその争いが終わって、役目を果たした神様たちは、人間に転生して、人間の世界で暮らすことにしたんだって」

 少女の空想するおとぎ話を聞いているようには思えなかった。おそらくは本当にあったことなのだろうと、肌で実感する。

「でも何回も生まれ変わってる内に、神様だったころの記憶と持っていた力は薄れて、やがて失って――今ではもう普通の人間として暮らしてる」

「お前たちも、ということか。あくまでも人として。だったらなぜ……」

「その八年前に何があったか、だよね。でもさっきも言ったけど、それは思い出せないの。力に目覚めるきっかけとなった出来事を」

 つまり、その出来事は〈天上の意志〉とやらの制約に触れてしまうものだから、思い出せなくさせられている・・・・・・・ということだろうか。

 こういう神様事情の話を当然のように理解できているのは、モイライの力が発現してからだという。いつの間にか知っていた、という感覚らしい。

 また一つ引っかかる。

 自分のことだ。マンションの火事の直前、芽守から“先輩はどうして獣医を目指すのか”と訊かれ、即答できなかった。きっかけとなる出来事を思い出せなかったからだ。そう、まさしく頭の中に霧が拡がったようになって――

「っと?」

 自分のスマホが鳴っている。紡綺からの着信だ。しまった。元々は彼女の為に冷たいドリンクを探しに来たのだった。これはお怒りが炸裂する案件に違いない。

「もしかしたらやくも兄様も、どの神様かの生まれ変わりかもしれないね」

 電話に出る直前につぶやかれた羽三美の言葉が、静かに深く耳朶じだを打つ。

 だがその一言を反芻する前に、通話口から紡綺の怒声が放たれた。

『今すぐに観覧車から離れなさい!』


 ●

 

「とにかく観覧車のそばを離れて! 今どこにいるんです!?」

『まさにその観覧車の中なんだが……羽三美といっしょに』

「なんてこと……」

 手から力が抜けて、スマホを落としてしまいそうだった。

 だが放心している時間はない。紡綺は観覧車の全容を見据える。

「矢雲君、端的に伝えます。現在〈オリュンポスランド〉の来園者たちの多くに黒い糸が視えます。死の運命が広範囲に蔓延はびこっているんです」

『死……!? 理由は?』

「わかりません。ですが黒い糸は、観覧車の近くにいる人間に集中しています。おそらくこれからその観覧車に何かが起こると思われます」

『何かって言われてもな……! こっちは地上につくまでゴンドラから出れもしないんだ』

「とにかく警戒を。私一人では未来の詳細までは視えません」

『だったらすぐに芽守を呼べ』

「芽守は屋敷にいます。ここまで来るのにどれだけ時間がかかると思っているんですか」

『園内にいる。俺が出くわした。なんか内緒で付いてきたって言ってたけど』

「は、はあ!?」

 今日、私たちが遊園地に来ることは芽守には内緒にしていた。

 矢雲が指摘した通り、羽三美の見守りにかこつけてアトラクションを試してみたいという気持ちはあった。多少だけど。

 そしてその初めてのアトラクションで戸惑う姉の姿を妹に見せたくないという気持ちもあった。多少だけど。

 要するに“なになに。紡綺姉さん、遊園地ビギナーなの? 仕方ないなー、この芽守が色々教えてあげちゃおうかな”などと、数回程度のテーマパーク経験のある次女にマウントを取られたくなかったわけである。

 どこで情報を仕入れてついて来たのかは知らないが、こうなってしまえば好都合だ。

「わかりました。芽守と合流次第、私が未来を視ます」


 ●


「……偶然なのかな」

 と、羽三美はつぶやいた。矢雲は陰の差す彼女の顔を見返した。

「マンションの火事なんて、なかなか遭遇することなんてないよね。観覧車もそう。何が起こるかはわからないけど、こうも立て続けに危ないことに巻き込まれるものなのかな」

「こんな状況でナーバスになるのもわかるが、そう悲観するな。あと半周してゴンドラを降りれば、ひとまずは済む話だ」

「例の火事だけど、死の運命が近づこうとしていたのは、女の子じゃなくて兄様の方だったのかもしれない」

 いつもの無邪気さがなりを潜めている。

 この一連のアクシデントが俺に紐づくもの。さすがに突飛なこじつけに思えたが、羽三美の声音は深刻だった。

「八年前のこと、思い出せないけど、何となく感じるの。もしかしたら、もしかしたらね――」

 彼女はスマホを握りしめる。

「やくも兄様に黒い糸が絡むトラブルが続くのは……羽三美のせいかもしれない」

 その瞬間、がくん、と異音がして一度大きくゴンドラが揺れる。それきり景色は動かなくなった。

 観覧車が突然に停止した。


 ●


「遅いわよ、芽守――って、どうしてあなたまでその恰好を?」

 大至急呼び寄せた芽守は、テュポンくんの着ぐるみ姿だった。頭部だけ外して、汗だくだ。

「いやー、説明すると長いっていうか、紡綺姉さんこそそんなに焦ってどうしたの?」

「視たほうが早いわ。能力を使って。範囲は〈オリュンポスランド〉全域」

「え? なんで」

「早く!」

「お、怒んないでよ」

 手のひらを地面につける。彼女を中心に、不可視の力場が押し広がる。直後、芽守は目を見開いた。

「な、なにコレ……」

 芽守の能力下で紡綺が因果の糸を視た場合、その光景がフィールド内の芽守と羽三美にも共有される。現状では矢雲にもだが。

 観覧車に近い多くの人々から、黒い糸が伸びている。死が近くに迫っている。

「ね、姉さん!」

「わかってる。今から未来を視て、因果操作をするわ」

 糸ならば妹たちでも認識できるが、運命の観測は紡綺にしかできない。

 さあ、何が起こる。私の前では不測の事態など存在しない。あまねく未来をつまびらかに――

「え……!?」

 観覧車が黒いもやのようなものに覆われていた。これはマンションの火事の時と同じ。矢雲がその近辺の因果に関わってしまっているから、運命の観測自体ができなくなっているのだ。

 ならばこれならどうだ。

 紡綺は観覧車から外した視線を、近くにいる別の人間に向けた。

 黒い糸が出ている人間は、矢雲がいる観覧車と何らかの密接な関わりがあることから、同様に黒い靄に覆われて死の原因たる運命を見通すことができない。

 ゆえに“園内にいて”“かつ矢雲には関わらず”“危機に直面しつつも命に影響の出ない黄色の糸の人間の運命”を介して観覧車に何が起こるかを視る。

「だけど……」

 こんな隙間を突くような能力の使い方はルール違反にならないか? これが〈天上の意志〉の約定に抵触していれば、すぐさま力の跳ね返りが来るだろう。

 紡綺の頬にひとしずくの冷や汗が滴る。

 が、運命の観測は目論見通りに働いた。

 視えた。観覧車の倒壊していく様が。

 ひびの入った支柱が砕け、幾重もの固定機具をものともせず、無数の鉄骨をひん曲げながら、全てのゴンドラを引き連れて、前のめりに倒れていく。アトラクション待ちの人々や、ただ通りがかった人々が、ことごとく下敷きになった。舞い上がる膨大な土埃の中で、悲鳴だけがこだまする。

「あっ、く……っ!」

 強烈な死の感触。負のイメージの逆流。目まいと吐き気が紡綺を襲う。

 踏み止まれ。気を失うな。これはすぐに訪れる未来。しかしまだ来てはいない。すぐに因果操作を。誰がどう動けば、最悪の未来を回避できる。

 点検作業員を向かわせる? 間に合うわけがない。一般客に異常を気付かせる? パニックになるだけだ。適当な用事でも入れ込ませて、そもそも客たちを退園させてしまう?

 ダメだ。大多数はそれで事なきを得るが、ゴンドラの中に入っている矢雲と羽三美は救えない。

 諦めるものか。〈オリュンポスランド〉の全てを俯瞰ふかんしろ。解き、結び、因果の糸を紡げ――

「……! あれなら使えるかもしれない。芽守、矢雲君に電話を繋いで!」


 ●


 矢雲と羽三美の間に、光る糸の束があった。

『因果を寄り合わせた糸よ。それを切りなさい、羽三美』

 憔悴した紡綺の声が、スピーカーホンから聞こえた。

 糸は紡綺がいるであろう位置からまっすぐに伸び、ゴンドラのガラス窓を透過してここまで届いている。こんなこともできるのか。

「わかりました、姉様」

 ポシェットから取り出した糸切ばさみの刃を、羽三美は糸に押し当てた。迷わず切断。閃光が弾け、運命の歯車が組み変わる。

「何が起きたんだ?」

「兄様、あれ。さっきのクレーンが動いてる」

 老朽化したジェットコースターの解体工事にあたっていたクレーン車がこちらに向かってくる。

「あれはオールテレーン式のクレーン車か!」

『おーるて……なんです?』

「大型タイヤを複数装着して、550t吊りまで対応できるものもある最大級クレーン車の一つだ。遠目でわからなかったが、あんなもので工事をしていたのか」

『いえ、どうしてクレーン車の種類とか知ってるんです? 変態ですか?』

「お前の変態基準のハードル厳しいな……」

 例によって工事現場でのバイトで身に着けた知識だ。

『因果を操作して変わったのは、観覧車担当のスタッフが異常をいち早く悟ったこと。その人は支柱のひびとズレに気づき、とっさにクレーン車でなんとかならないかと思いついた。その足でクレーン車まで走り、もっとも迅速な救援要請をした。――私にできたのはここまで。そのクレーン車が観覧車の倒壊を止められるのかは……やっぱり黒い靄が邪魔して視えなかった』

「そうか」

『矢雲君』

「ああ」

『お願い、羽三美を守って。絶対に死なせないで。もちろん、あなたも』

「わかってる」

 観覧車がわずかに前方に傾き始めた。みしみしと軋むような異音がする。

 矢雲は地上の様子を見下ろす。車体からクレーンが伸びていた。観覧車の上部にフックをかけて、強引に後ろ側に引っ張るつもりだろう。

 粗っぽい方法だが効果的だ。どうやっても支柱の修繕や補強は間に合わない。この状態では観覧車を再稼働させて、ゴンドラを順次地上に送るなどの手段も取れない。であれば反対側から支えて、救助が来るまで現状を維持するというのが最善だ。

「けど、あれじゃーな……っと!」

「きゃっ!?」

 思いっきり力を込めて、ガラス窓を蹴り破る。強化ガラスじゃなくてよかった。

 羽三美が驚いている。

「に、兄様? 何をするんです」

「フックをかける位置が良くない。操縦士はわかってないみたいだが、上部に引っかけると力の作用が悪くなる。もっと真ん中か少し上ぐらいから引いたほうが車体も安定する。ただでさえ観覧車を引っ張るなんてこと自体が規格外なんだからな。下手を打てばクレーン車の方が引きずられて横転する」

「だからって、まさか……」

「俺が目印になって誘導する。それが一番確実だ」

「だ、だめだよ! どうなるかわからないんだよ! つむぎ姉様にも視えてない未来なのに!」

「未来なんて視えたこと、俺には一度だってない。望む結果が、向こうから勝手にやってくるなんてこともなかった。叶えたい未来は、いつだって手を伸ばした先にしかなかった」

「手を伸ばした先……」

 羽三美は視線を落とし、手に持ったままのスマホの画面を見つめる。

「……ゲームのガチャが好きなの。あれは運任せで思い通りにならないから」

「え?」

「良い未来だけを決められる力って、心のどこかでつまらないって思ってた。でも……怖いね。未来がわからないって、すごく不安」

「だから人生に張りが出るんだ。生きることに一生懸命になれる」

 矢雲は砕けた窓縁に足をかけた。

「やることやったらすぐ戻る。お前はここで待ってろ」

 ゴンドラから出て、慎重に鉄骨に足を乗せる。

 観覧車は中央ドラムから放射状に延びるスポークと呼ばれる無数の鉄骨によって、このホイール型を力学的に成り立たせている。その先にゴンドラが接続されているという構造だ。

 だからスポークをつたっていけば、中央ドラムまではたどり着ける。幸い、矢雲たちが乗っていたゴンドラは頂点を過ぎていた。時計でたとえるなら10時の角度だ。つまり鉄骨から中央ドラムに向かっては、下り調子である。

「くそっ、空気を読まん風だな……!」

 高所での強風に煽られる。観覧車の傾きが強くなった気がした。スポークの骨組みは隙間も多い。足を滑らせたが最後、五〇メートル直下へ真っ逆さまだ。

 どうにか中央ドラムに到着。安定しない足場に苦慮しつつ、身振り手振りでクレーン車の運転士にフックの位置を伝える。

 ほどなくライトの点滅で返答があった。よかった、気づいてもらえた。

 いったん縮めて、再び伸ばされたクレーンが、今度は矢雲のいる中央ドラム付近まで来る。しかしうまく鉄骨に先端のフックがかからない。

 直接こっちで引っかけてやるほうが確実だ。必死に手を伸ばしてみるが、

「このっ、もう少しなのに……っ」

「兄様」

「うおわっ!?」

 狭い中央ドラムの上、羽三美に真後ろから抱きつかれていた。

「は、羽三美!? まさかお前も鉄骨を下って来たのか!? 待ってろって言っただろう!」

「叶えたい未来は手を伸ばした先にしかないんだよね。だったらつかんでよ! 羽三美もそうしたい!」

 羽三美の足は震えている。よくもそんな状態でここまで来れたものだ。呆れを通り越して感心する。

「……了解だ。俺は今から無茶な体勢を取るから、落ちないように後ろから引っ張ってくれ。ちょうどクレーンが観覧車にするみたいにだ。力を貸してくれるか?」

「うんっ!」

 中央ドラムから身を乗り出して、限界まで腕を伸ばす。届いた。しかし工業用クレーンフックは直に見ると、予想よりも大きく重い。なにせ頑強な鉄の塊だ。それをどうにか手繰り寄せる。

「ま、まだ、兄様っ?」

「もうちょいっ……!」

 全力でフックを鉄骨に引っかける。オッケーサインを地上に送ると同時に、重機がフル稼働。束の間に観覧車の傾きが収まる。

「はぁぁ~、助かったね~」

「これは時間稼ぎだ。あとは今の内に助けが来てくれることを祈るしかない」

「あはは、最後は神頼みなんだ? 神様いないのに」

「人事を尽くして天命を待つってな。ここ国語のテストに出るぞ」

 中央ドラムの上で、二人寄り添って腰を下ろす。ゴンドラ付きの消防車はすでに何台か到着していた。あれで順番に救助していくのだろう。

「……観覧車の支柱の不具合なんて、やっぱりおかしい。今日のことも羽三美のせいなのかな……」

「さっきも言っていたが、それってどういうことなんだ?」

「わからないよ。漠然とそう思うだけ。でも兄様と一緒にいたら、どこかで思い出せるかも。兄様は羽三美たちの記憶を戻す鍵なんだよ、きっと」

 いつもみたいにすり寄ってくる。離そうとすれば落ちるので、今はなすがままだ。

「ねえ、これからも勉強教えに来てくれる?」

「そうしてやりたいのは山々だが、学費稼がないといけなくてな。その分バイトが多くて、時間はあんまり取れないかも」

「だったら専属の家庭教師として、羽三美に雇われてくれない? お給金はこれぐらいでいいかな?」

 さらさらとメモ紙に金額を書いて渡される。

「……値段間違ってないか?」

「あ、少ない?」

「すげえ高いんだけど。こんな額、見たことないんだけど」

「じゃあいいよね? けってーい」

 中学生に雇用されたと同時、消防車のゴンドラが俺たちに向けて上がってきた。


 ●


 羽三美に手を引かれ、矢雲は走る。地上に降り立ってすぐのダッシュだ。 

「おい、止まれって! どうしたんだ急に」

 観覧車から離れた休憩区画まで来たところで、ようやく足を止める。

「はあ、はあ……だってあのままだと事情聴取とかされそうだもん。家のこともあるし、悪目立ちするのは面倒だよ」

「それは……あるかもしれんが」

 ゴンドラを蹴破って、中央ドラムまで降りたりしたのだ。確かに色んな人間に目撃されているだろう。

 とはいえこれだけの混乱だ。人の群れに紛れて姿をくらますのは難しいことではない。

「とにかく紡綺たちに連絡しよう。早く安心させてやらないとな」

「だね。でも遊園地でのデータ収集はできなかったなぁ。うぅ……心残りだよー」

「レジャー施設ならどこでもいいんだろ。仕切り直せばいい。それにしたって課題のためとはいえ、遊園地に単身で出向く女子中学生ってそうそういないぞ」

「兄さん?」

 いきなりそう呼ばれる。羽三美ではない。いやもう、この声は一人しかいない。

 振り向くと、少女がいた。羽三美と対照的な黒いワンピース姿で、訝しげに俺を見ている。

「つ、月夜つくよか!?」

「やくも兄様、こちらの方は?」

「兄様……? 兄さんはその子に兄様って呼ばせてるの?」

 切れ長の瞳がかすかに険を帯びる。妙な威圧を醸し出したまま、月夜は慇懃に頭を下げた。

「私は陽咲ひさき月夜つくよ。そちらの陽咲矢雲の妹です。……あなたは?」

「貰井羽三美と申します。そういえば羽三美と同い年の妹さんがいらっしゃるって」

「月夜ひとりか? なんで遊園地にいるんだ?」

 目に見えて機嫌の悪い妹である。不機嫌の理由はわからない。どうにかなだめようと話を振ってみるが、月夜はじろりと矢雲をにらんで、

「中学の課題でレジャー施設のデータ収集があったから」

「お前もかよ……」



 ――つづく――


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