第5話 巡る遊園地と廻る運命

 〈オリュンポスランド〉

 入明日いりあす町の中央区に広面積を誇る、歴史あるテーマパークだ。設立は三〇年と古く、それゆえにレトロなアトラクションも目立つ。

 しかしながら昔馴染みのマスコットや、地域に根づいた娯楽施設という評価は上々で、地元民たちからは長く愛されている遊園地だった。

「今日の趣旨を改めて確認したい」

「どうぞ」

 その夢の国の入口ゲート前。陽咲ひさき矢雲やくもが言うと、貰井もらい紡綺つむぎは淡々と応じた。

「目的は二つ。羽三美の発見と、以降の動向の見守り、でいいんだな」

「ええ。そして羽三美に私たちの尾行を気づかれないことが大前提です」

 “羽三美が夏休みの自由研究でレジャー施設に一人で行くらしいから、こっそりついて行って見守りたい”というのが、先日に貰井邸で紡綺から受けた依頼だった。

 こういった娯楽の場における接客力と満足度の比例データを集めることが目的だそうだ。中学生の自由研究にしては高度な内容に思えたが、レベルの高い学校ゆえの課題なのかもしれない。

 そこで問題だったのが、“データ収集にあたっては、父母を始めとした協力者の助力を受けないこと”という学校側から提示された条件だった。

 上流階級の子女が通うお嬢様学校であれば、親族のパイプで労せず結果を出してしまう生徒も少なくないのだとか。いわゆるそのズルを防止するための措置なのだろう。

「羽三美は遊園地とかよく行くのか?」

「私の知る限りでは、行く機会はなかったと思います。多分、初めてです」

「独力で自由研究って意義はわかるが、そこは融通利かして友達と一緒に行ったら良かったんじゃないか? 初めての上に一人で遊園地って、課題目的だとしてもキツいだろ」

「それは無理ですね。あの子、友達いませんし」

「悲しいこと暴露してやるなよ……」

「もちろん私もいませんよ」

「胸張って言うことか」

 仮にも名家の令嬢である。一人で行動して、万が一がないとも限らない。

 そんなわけで妹が心配な姉は、このスニーキングミッションを立案するに至ったのだった。矢雲を誘ったのは羽三美を探す目を増やしたかったのと、自身のボディーガードを兼ねて、というのが紡綺の弁である。

「なんにせよ、動かないと始まらないな。そろそろ行くか?」

「そうですね。渡したチケットは持って来ていますか。私が自ら手配してあげたのですよ」

「あるが……なんで年間フリーパスなんだ?」

「チケットの種類が多くてよくわからなかったので、一番高価なものを選びました。なにか間違いがありますか」

「金の使い方に間違いしかない」

 こいつの金銭感覚はどうなっている。

 八月五日、午前十一時、天候良好、作戦開始。

 矢雲と紡綺は同時にゲートへと足を踏み入れた。


 

《――★★巡る遊園地と廻る運命★★――》

 


 夏休み期間中で、しかも日曜日。園内は親子連れで賑わっていた。

「今さらなんだが、ボディーガード役なら俺じゃなくて岩城さんで良かったんじゃないか?」

 歩きながら矢雲は訊いてみる。岩城とは貰井家の使用人の一人だ。

 手にしたパンフレットから目を逸らさないまま、紡綺は首を横に振った。

「岩城だと目立ち過ぎます。風貌からして夢の国にあるまじき存在ですし、あの強面こわもてで園内を練り歩きでもしたら、遊園地に多大なる迷惑がかかるでしょう。損害賠償の案件になるのは避けたいです」

「散々な言われようだな……。それで俺にお鉢が回ってきたわけか」

「私と連れ立っても歩いても違和感のない人間は、遺憾ながらあなたぐらいしか見つからなかったもので」

「遺憾言うな」

 友達はいないって話だから、近くの同年代で頼れそうなのが本当に俺だけだったのだろう。

 三姉妹の中で紡綺は、やたらと俺を警戒してくる。こうして肩を並べていても、ツンツンした空気は否応なく感じる。せっかくの休みに協力してやってるのに、ちょっとは感謝くらいして欲しいものだ。

「とはいえだ。広いフィールドで人ひとりを探すんだぞ。二人じゃ効率が悪いと思うんだが」

「二人じゃありませんよ? 捜索要員として、屋敷の使用人たちを二〇人ほど動員しています」

「どこに?」

「そこかしこに」

「逆にバレやすくなるだろう。使用人さんたちは羽三美と顔見知りじゃないのか」

「問題ありません」

「だからどういう――ん? んん?」

 周囲を見回す。〈オリュンポスランド〉にはマスコットであるテュポンくんというキャラクターがいる。

 タヌキだかクマだかをモチーフにした可愛い園内のナビゲーターでもあるのだが、妙に数が多い気がする。しかも何体かはヘッドセットとトランシーバーを装備していた。

「まさかテュポンくんの着ぐるみの中に……!?」

「あれなら岩城でもテーマパークの雰囲気に馴染めるでしょう。どちらかといえば羽三美の発見は使用人たちの役目で、以降の見守りが私たちの役目という感じですね」

 このお嬢様は知らないだろうが、夏場の着ぐるみ業務は地獄以外の何物でもない。マスコットの動かない笑顔の奥で、表情を歪めるアクターたちはとめどなく滴り落ちる汗と、熱気でこみ上げる嗚咽に耐えている。現代に甦った〈ファラリスの牡牛〉と称すに相応しい慈悲なき拷問器具――それが遊園地の着ぐるみだ。

「使用人さんたちも大変だな……。これ〈オリュンポスランド〉側には許可取ってあるんだよな?」

「いいえ。説明が面倒でしたし」

「なら、また因果操作で都合のいい状況を作り出したとか」

「それも違います。羽三美にも内緒と言ったでしょう。運命に強制力を付与するには、私が紡いだ糸をあの子が切断しなければなりませんから」

 貰井家の財力をもってテュポンくんに似せた着ぐるみを二〇体ほど作成し、どのような手段かを用いて使用人たちを園内に潜入させたらしい。

「やりたい放題が過ぎる……」

「使える手段は使ったまでです。ですが私たちも羽三美を探さないわけではありませんからね。さあ、どこから行きましょうか……あら」

 ようやくパンフレットから顔を上げた紡綺の視線が、とある一点に定まる。

「陽咲さん、あれはなんです?」

「なにって、コーヒーカップだろう。乗ってくるくる回るやつ」

「カップが回転するのですか。そんな単純な乗り物で喜ぶなんて、つくづく一般の方の感性は理解に苦しみますよ」

 言いつつ足は止めたまま、紡綺はコーヒーカップを見つめている。

「ただ、まあ、なんと言いますか。360度回転するわけですし、視野角を広く確保することで羽三美の発見に役立つかもしれません」

「え、乗るの?」

「捜索の一環です。可愛い妹のためです。やむを得ずです。やれやれです」

 すたすたと紡綺は早足で受付に向かい、矢雲もその後を追った。

 二人で一つのカップに入り、アトラクションが開始される。ゆるやかに回り始めるコーヒーカップ。

「この真ん中のハンドルの意味は?」

「回すとちょっと早くなる」

「くだらない機能だこと。ふふ」

 でも回す紡綺。

 ほどなくカップの回転は収まり、終了した。

「やはり何が面白いのかさっぱりです」

 若干よたつきながらも、どことなく満ち足りた表情だ。

「見える範囲に羽三美はいませんでしたね」

「探してたようにはとても見えなかったが」

「次に行きましょう。早く羽三美を見つけなくては」

 今日のお嬢様は止まりそうになかった。


 

「陽咲さん。あのみすぼらしい車は?」

「ゴーカートな。乗るのか?」

「ふう、乗って差し上げましょうか」

「なぜ上から目線だ」

 続いて紡綺が見つけたのは、小さなレーシングコースだった。

「車であれば、歩くよりも早く羽三美に近づけるでしょう。我ながら冴えた案が浮かんだものです」

「決められたコースを回るだけだぞ」

「運転はあなたがして下さい。私は免許がないので」

「聞けよ、人の話。つーかカートに免許はいらん」

 お嬢様のご要望にお応えしてカートを走らせる。コースの中盤くらいまで進んだところで、矢雲は追走してくる別のカートに気づいた。しかもそれはテュポンくんが運転している。

「後ろから追い上げて来てるのって、お前んとこの使用人の誰かじゃないか?」

「岩城かもしれません。免許持ってますし」

「だから免許は関係ないって。でもだとしたら、羽三美を見つけた報告をしに来たとか」

「報告は私のスマホに入れるよう指示していますが……。仕事とはいえ遊園地に来たのをいいことに、この機に遊ぼうなどと思っているのではないですか。まったく真面目にやって欲しいですね」

「お前が言うか」

「………」

 紡綺がじとりとした半眼でにらんでくる。

「な、なんだ?」

「お前お前と不躾な……いい加減に名前で呼んだらどうです」

「ああ、それは悪かった。じゃあ貰井、この後だが――」

「呼び捨てとは」

「……貰井サン」

「なんです、その片言は。妹たちのことは芽守、羽三美と呼んでいるのですから、私のこともそれに倣ってもらって結構です」

「……紡綺サン」

「しっくり来ませんね。なぜか妙に落ち着かない気分ですし。やはり呼び捨てでいいです。特例中の特例で」

「……紡綺」

「私もあなたのことはこれから矢雲君と呼びますので。ふふん、これで痛み分けですね」

 痛み分けの意味を分かっているのだろうか。どうして事あるごとに、俺との対立図式を作ろうとしてくるんだ。

 その折、運転を失敗したのか、謎のテュポンくんカートは急に進路を狂わせ、近くの芝生に突っ込んでいた。



「矢雲君。あの馬細工の群れは?」

 ゴーカートを降りて、次に紡綺が指さしたのは、

「メリーゴーランド。コーヒーカップの馬の背に乗る版っていう感じ。さすがにあれは羽三美の捜索には活かせないと思うが」

「乗馬の訓練にはなるでしょう」

「羽三美が関係なくなってないか!? あと乗馬の訓練にもならんわ!」

「もちろん矢雲君も乗りますよ」

「マジかよぉ……」

 メリーゴーランドは盛況だった。もっとも子供たちにだが。

 そして回り出す馬。

「ち、ちょっと! どこをさわってますか!?」

「持つ場所がないんだよ! どっかにつかまってないと落ちるだろうが!」

 スタッフの誘導に促されるままでいると、二人乗りにされてしまった。波打つ上下稼働の馬が、煌びやかなメロディーに合わせて円形の舞台を何周もする。

 周りの馬はみんな子供が乗っている。ギャラリーは親御さんたちだろう。その中で一組だけ大学生の男女二人である。なぜか観客には、先ほどのゴーカードで遭遇したテュポンくんが混じっていたが。

 さすがに紡綺は首まで赤くした。

「矢雲君。……恥ずかしいのですけど」

「乗るって言ったのそっちだからな」

 


「で、これはどういう理屈だ?」

「高いところから見渡せば、羽三美も見つかりやすいかと思いまして」

 ガタゴトと車体を微震させるジェットコースターが、七〇度角のレールの頂上を目指して前進する。

「あのさ。もう言っちゃうけどさ。紡綺も遊園地初めてだよな? 妹のお守りにかこつけて、あわよくばアトラクションを楽しみたかったんだよな? でも勝手がよくわからないから俺を案内人にしたってのが本音だよな?」

 紡綺はそっぽを向いた。

「……無駄口叩いていないで、あなたも羽三美を探して下さい。……あらあら、けっこう高いところまで上がるのですね」

「絶叫マシーンって言うんだぞ。わかって乗ったのか?」

「ふん、私をそこいらの女子と一緒にしないで下さいます? たとえどんなに驚いたとしても大口を上げて叫ぶだなんて慎みのない真似を、この貰井家の長女がすると思いますかあああああああっ!? いやあああああ!!」

 丁寧な伏線を張って、秒で回収する。コースターの加速に合わせて、紡綺は叫びまくっていた。

「はわわわ! た、縦回転!? そんなの全員そろって落ちるじゃないですか!?」

「バーを持て! 俺をつかむな!」

「いぃぃやああああっ!」


 ●


「うぷっ」とえづく紡綺を、矢雲は適当なベンチで休ませる。

「大丈夫か?」

「はあ、はあ……あれがジェットコースター。危険極まりない蛮族の滑車付き処刑道具……!」

「いや言い方」

 うなだれる紡綺はまだ回復しそうにない。

「飲み物買ってくるから、そこにいとけ。あと携帯の番号教えとく。なんかあったら連絡してくれ」

「どうぞ……」

 下を向いたまま、スマホだけ差し出してくる。勝手に登録しとけってことか。

 手早く自分の番号を入力してやって、「ほら」とスマホを紡綺に押し返す。「あー、はい……」と反応微弱。完全にグロッキー状態だ。

 ベンチは木陰になってるし、少々離れるくらいは大丈夫だろう。なんなら使用人たちも近くにはいるはずだ。

 紡綺を置いて、矢雲は冷たい飲み物を探しに行く。

 しかしすぐには自販機もドリンクショップも見当たらなかった。

「参ったな。園内マップは紡綺が持ったままだったか……」

 誰かに聞くか? 見回す視界に一体のテュポンくんを見つける。ちょうどよかった。ナビゲーターも兼ねるマスコットだから、すぐに教えてくれるだろう。

「すみません。近くの自販機ってどこにあります?」

『え? えー? どうかな? その辺にないの?』

 近寄って聞いてみると、そのテュポンくんはしどろもどろの挙動不審だった。

 もしかして中身は貰井家の使用人パターンか。こんな時に外れを引くとは――いや待て、今の声は。

 がしっと着ぐるみの頭をわしづかむ。

「やっ、ちょっとそれはなし! ダメだよ、エッチ! あ、あああ~!」

「……やっぱりか」

 頭部をひっぺがすと、汗だくの芽守が登場した。

「矢雲先輩! 着ぐるみの中身を見るのはタブーでしょ!? やらしい!」

「やらしくない。先に無断潜入っていうタブーを犯してるのはお前らだろ! はあ……芽守まで来てたとはな。羽三美の動向を見守れって、紡綺に言われたのか?」

「え、違うけど……。姉さんには何も言われてない。あたしが来てることも知らないと思う」

「ん? じゃあなんで来たんだ。そんな着ぐるみに入ってまで」

「……二人で遊園地行くって聞いたからさぁ……。ゴーカートとか楽しそうにしてるし、メリーゴーランドとか完全にカップルムーブだし、いつの間にか二人の呼び方も変わってるし……」

「ぼそぼそと何を言ってんだ」

「ふんだ!」

 矢雲の手から取り返したテュポンくんヘッドをまた被ってしまう。

「おい、芽守――うわっ!?」

「あっ!? 先輩!?」

 後ろからいきなり袖口をつかまれた。そのままぐいっと引っ張られ、無理やり走らされる。

「こっちに来て、やくも兄様」

 自分を勢いよく連行するのは、ターゲットである羽三美だった。


 ●


 飲み物を買いに行くと離れた矢雲がまだ帰ってこない。

 ふと握りしめたままのパンフレットに視線が移る。もしかしたらマップがなくて迷っているのかもしれない。だとしたら悪いことをしたが……正直、そこまで気を回せる余裕はなかった。

「う……」

 紡綺は顔を上げる。だいぶ気分はマシになってきた。ジェットコースターとやらの何が楽しいのか。コーヒーカップのほうがよほど風情があった。時代は縦回転より横回転だ。間違いない。

「ふぅ~……あら」

 深呼吸をしていると、目の前にテュポンくんがやって来た。気づかわしげな素振りで、こちらの様子をうかがっている。使用人の誰かが心配して近づいて来たのだろうか。

 ちょうどいい。矢雲を連れ戻してきてもらおう。

「あなたにお願いがあるのだけれど」

『あのー、しんどいんですか?』

「え? 声がこもってて聞き取りずらいです。とりあえずその頭を外してください」

『わっ、待っ』

 抵抗する間を与えず、紡綺はテュポンくんの頭部をすぽんっと外した。

「こ、困りますよ、お客さん!」

 中身は使用人ではなかった。自分と同年代くらいの若い男性スタッフだ。

「これは失礼を。ん……あなた、どこかで……」

「へ? ……ああ、俺も君に見覚えがある。大学のキャンパスで、陽咲をずっとにらんでた人じゃん」

 そう言われて思い出した。初めて矢雲と会った時、彼のとなりにいた友人らしき人物だ。とはいえ、会話をするのはこれが初めてだった。

「俺、しば平太へいた。陽咲の友達だ」

「貰井紡綺と申します。以後お見知りおきを」

「貰井……?」

 芝はその名に反応した。貰井製薬を連想したのかもしれない。しかし大手とはいえ、貰井と聞いただけですぐにそこと繋がるものだろうか。

 一瞬の疑念は抱いたが、さして気にせず紡綺は問う。

「矢雲君の友人……なら彼をどこかで見かけませんでしたか?」

「え? 陽咲と来てるのか? 二人で遊園地に? え、え、君らって付き合ってんの?」

「付き合っ……!? そんなわけないでしょう!」

「大学であいつを見つめてたのは、つまりそういうアレのアレで?」

「どれのどれです!? あの時は彼に糸が視えなかったから不思議で――ああ、もう、説明のしようがありません!」

「糸……? まあ、深く詮索はしないでおくよ。茶化されるのは陽咲も嫌がるだろうし」

「だから違うと何度言えば!」

「で、その陽咲とはぐれちまったんだな。よーし、俺に任せとけ! たまにはキューピッド役も悪くないね!」

「だーかーらー!」

 ろくに話も聞かず、芝はテュポンくんヘッドを再装着すると、すごい勢いで走り去ってしまった。

「はあ、なんなの。変な勘違いをして。矢雲君、早く帰って来なさいよ……」

 騒いだおかげか、ぼーっとしていた頭に思考力が戻りつつあった。

 誰と誰が付き合っているだ。一人で勝手に騒ぎ立てて。あんなぶっきら棒で不愛想な男に、この私が惹かれたりするものか。

 ……けれども今日ついて来てくれたことには感謝している。

 彼は学費を稼ぐためにいつも忙しく働いている。それなのにせっかくの休みに遊園地に同行させたわけだ。

 だからどこかでお礼を言うつもりだった。だったが――謝礼など普段から言い慣れていないせいか、それを口にするタイミングがつかめなかった。

「……うまくいかないものね」

 ついでにこの機会に、矢雲から因果の糸が出ていない原因を探ってみようとも思っていたが、それもわからず仕舞い。

 運命を定めるというのは、人知を遥かに超えた能力だ。それはクロト、ラケシス、アトロポスの名で知られるギリシャ神話のモイライ三姉妹が有する権能そのもの。主神たるゼウスであっても、彼女らの裁定した運命には抗えない。その絶対の力が及ばない唯一の人間こそが陽咲矢雲。彼には謎が多過ぎる。

 因果の糸。人の行く末――すなわち未来へと伸びる運命の道しるべ。

 糸には色があり、その者に訪れる直近の事象の正負を暗示する。

 あくまでも当人の主観であるが、良いことであれば“青”、悪いことであれば“黄”、変化がなければ“白”。

 他にも色は種類がある。最たるものは“黒”で、意味するものは“死”。こればかりは主観ではなく、動かぬ事実としてそこに存在する。

 慣れたつもりだが、あの色だけは視えて気持ちのいいものではない。

 芽守の能力の影響下にいない限りは、死の詳細までは見通せないことが、自分にとってはせめてもの救いか。

 事故であれ病であれ寿命であれ、他者の死にざまを都度知ることはマイナス面の方が大きい。それを気に留めず無視できる心が私にあれば、もっと楽だったのかもしれないけれど。

「本当、どうして彼の糸だけが視えないの……。何かが引っかかる。見落としているものがある気がする……」

 何気なく、糸を視る“目”に切り替える。

 来園者たちの因果の糸が可視化して、紡綺はそれらを視界に収めた。見開いた瞳が、そのまま止まる。

「な、なんなの、これは……」

 呆然とし、強張った指先からパンフレットがすべり落ちた。

 こんな光景は初めて見る。これからこの遊園地に何が起ころうとしている。

 楽しく笑い合う人々から伸びる糸が、ことごとく黒色だなんて。



 ――つづく――

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