第4話 裁断の女神とお勉強
「それじゃあ店長。お先に上がらせてもらいますんで」
「待って待って、
「……了解です」
嘆息をこらえつつ返答して、矢雲は古書店を出た。
因果操作によって作られた店長の急用とやらは片付き、臨時バイトを雇う必要もなくなった。
しかし芽守の働きぶりが店長にいたく気に入られてしまい、不定期ではあるものの、彼女はバイトを継続することになったのだった。
芽守も芽守で断ればいいのだが、むしろ積極的に手伝いに来ている節がある。紡綺からの強制労働の指示も介助されたようだし、小遣いに困るような家でもないだろうに。
さて、今日は久しぶりに午後のスケジュールが空いた。
まずはたまっている洗濯物に手をつけよう。部屋の掃除もやっておきたい。いや、夕食の買い物を先に済ます方が効率がいいか。近場のスーパーで、お一人様一パック限定の卵のセールがやっていたはずだ。
「なんか主婦みたいだな……」
「誰がです?」
独りごちた一言に反応があった。呼びかけられた背中に振り返ると、小柄な少女が一人立っている。
肩にかかる黒髪のミディアムボブに、清潔感のある純白のワンピースが良く似合っていた。
「ん? 君は、えっと……」
「
ぺこりと頭を下げる。
「そうだったな。前に会った時は中学の制服だったからか、私服だと印象が変わって気づかなかった」
「お気になさらず。ところで、これから何かご予定はありますか?」
「………」
なぜ俺の予定を聞く。当然、これも偶然の出会いではないのだろう。
ないって言ったらどうなるんだ。この娘は中学生。警戒するような相手ではない。さりとて貰井の三女。警戒して、し過ぎることはない。
こちらが無言でいると、羽三美は可愛らしい仕草で小首をかしげた。
「あら? ご予定は?」
「ないこともない」
「具体的には?」
「スーパーに卵を買いに行く」
「なるほど。――
パンパンと手を鳴らして何者かの名を呼ぶと、がたいのいいスーツの男が電柱の陰からぬっと現れた。剃り込みの入った角刈りにサングラスという、またいかにもな風貌だった。
「陽咲さんのお宅に、最高級の鶏卵を三ダースお送りしなさい。明日の朝一番で必着よ」
「かしこまりました、羽三美お嬢様」
岩城なるボディーガードらしき男は、どこかに電話をかけ始めた。俺の住所をどう割り出すつもりだ。
「他にご用事は?」
「……いや、もうない」
ここで洗濯やら部屋の掃除やら言うと、次はメイドでも送り込まれそうだ。
「でしたら本題を。実は陽咲さんにお願いがあるのです。羽三美に勉強を教えてくださいませんか?」
「勉強? 中学の?」
「はい。恥ずかしながら、わからないところがありまして」
「なんで俺?」
「動物のお医者さんを目指していると聞きました。たくさんお勉強をなさったのでしょう? 中学生程度の疑問になら、すぐお答え頂けると思ったもので」
「君の姉さんたちは?」
「つむぎ姉様は読書を嗜み、めもり姉様は音楽に興じ……お二人とも随分とお忙しそうだったので、小心者の羽三美は声をかけることができませんでした」
絶対そいつら暇だろうが。時間有り余ってるだろうが。そもそも小心者っていうのは、手を叩いて大の男を呼びつけたりはしないんだよ。
「だめ……ですか?」
「う……」
少女の無垢な瞳に見つめられ、首を横に振ることはできなかった。
「わかった。少しだけなら時間を取るよ」
「嬉しい! それではさっそく参りましょう」
「え、どこに――」
キキーッと矢雲の真横に、車が急停止する。
黒塗りのロールス・ロイスだった。イギリスの高級車で、お値段相場は3000万円以上。ちなみに一台14億円を超えるものも存在する。
運転手が出て来て、うやうやしく後部ドアを開く。
あっけに取られる矢雲に、羽三美は朗らかに言った。
「では貰井家の屋敷に招待させて頂きますね」
《――★★裁断の女神とお勉強★★――》
車に揺られること、おおよそ二〇分。
ほどなく到着したのは、巨大な柵門の前。運転手がどこかに無線で連絡すると、重い音を立てて門が勝手に開いていく。
ようやく到着か。そう思ったが、車はなおも前進した。植林に挟まれた長い石畳の路面を越え、さらにしばらく進んだところで、ようやく屋敷の輪郭が視認できるようになる。
「……敷地、広すぎないか」
漏れ出た矢雲の感想に、となりに座る羽三美は特に感慨もなさげに窓の外を見た。
「不便なことの方が多いんですよ。移動も警備も一苦労ですので、ただ広いというのも考え物です」
「ドーベルマンでも放し飼いにしてそうだな」
「うーん、ドーベルマンはいませんね」
「ドーベルマン以外の何かはいるのか……?」
「さあ?」
羽三美はくすくすと笑って、それ以上は明言しなかった。いや、何がいるんだよ。
まもなく停車。車を降りて、羽三美の先導で中庭を歩く。完璧に整えられた花壇に、立派なこしらえの噴水が目を引いた。
今度こそ屋敷の玄関に到着。
「さあ、どうぞ」
開かれる扉。大理石のエントランスホールが矢雲の視界を埋める。天上は見上げるほどに高く、煌びやかなシャンデリアが一面を鮮やかに照らしていた。絵に描いたような豪邸のラウンジだ。
「おかえり、羽三美。どこいってたの――って矢雲先輩!? ど、どうしてうちにいるの?」
奥から姿を見せた芽守は、矢雲を見つけた途端のけぞって驚いていた。
「あら、めもり姉様。陽咲さんに羽三美のお勉強を見て頂こうと思いまして」
「来るなら来るって言っといてよ! 準備とかあるのに! 綺麗にしとくのに!」
「どうして姉様に準備が……あ、綺麗にしておくって掃除の話じゃなくて、姉様自身ということでしょうか?」
「はあ!? なに言ってんの! はあ!?」
「では陽咲さん。羽三美の部屋に行きましょう」
「ち、ちょっと待ってよ! 部屋行くの!?」
「落ち着いて下さい、姉様。勉強を部屋でしなくてどこでしますか」
「そうかもだけど、だけど、だけど……」
「岩城」
芽守の相手もそこそこに、羽三美は手を打ち鳴らす。
先ほどの角刈りグラサン黒スーツの男が、今度は頭上から登場し、しゅたっと軽やかに着地した。
どこにいたんだよ、この人。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「あとで部屋に飲み物とお菓子を持って来て。もちろん二人分よ。あ、陽咲さんはコーヒーと紅茶、どちらがお好みでしたか?」
「……紅茶で」
「お任せくださいね。岩城、マリアージュ・フレールはあったかしら」
「もちろんでございます。すぐに用意して参ります」
ただのボディーガードかと思ったが、色々こなせるらしい。粛々とした礼をして、岩城は忍者のように消えた。
まだ納得のいっていない顔をした芽守を置き去りに、矢雲は羽三美の部屋に案内される。
「どうぞ、こちらにお掛けになって下さい」
足の短いローテーブルの前に、クッションを差し出される。
「さっそく始めるか。それで何の教科がわからないんだ?」
「んー、数学あたりにしましょうか」
「あたりってどういうことだよ」
教科書を開いて一時間。
いくつか適当な問題をやらせてみるが、羽三美は特に間違えることなく全て正解した。
「本当に数学が苦手なのか? 今のところパーフェクトなんだが……」
「では歴史にしましょうか。そっちは本当に苦手です」
「お前な。からかってるのか?」
「まさか。怒らないで下さい。羽三美は怖がりなんです」
「まったく……」
凝った首を巡らし、部屋の内装に視線を転じる。
イメージ通りというべきか、ファンシーな小物や可愛らしいグッズで埋め尽くされた部屋だった。奥のベッドには大きなクマのぬいぐるみが二体も陣取っている。あれで寝るスペースがあるのだろうか。
「羽三美の部屋は落ち着きませんか?」
「ああ、いや。そうじゃない。妹の部屋とはずいぶん違うから、ちょっと戸惑ってさ」
「妹さんがいらっしゃるんですね。ご年齢は?」
「十四歳。中学二年だ。実家で暮らしてる」
「まあ、羽三美と同い年。そうですか、なるほど……」
羽三美は何やら考え込み――ややあって。
「陽咲さん。兄様と呼んでも宜しいですか?」
「い、いきなりなんだ?」
「妹さんも十四歳なのでしょう? ならばそのように呼称されることに対して、陽咲さんに精神的な抵抗はないはずですし、倫理的な問題もありません。貰井家は女系家族ですから、ずっと頼れるお兄様が欲しかったんです」
「精神的な抵抗がないかを決めるのは俺で、倫理的な問題がないかを判断するのは周囲の人間だ!」
「ご了承頂けるまでこの部屋からは出しません」
「中学生に監禁されるだと……」
あれこれと押し問答を繰り返すが、羽三美はまったく引かず、ついには矢雲が折れる形となった。深い嘆息を吐き出して、肩を落とす。
「呼び方なんて何でもいい。好きにしてくれ」
「はーい、やくも兄様」
横に座りつつ、羽三美はぴったりと体を寄せてきた。勉強を再開する気にもなれず、矢雲は訊く。
「なあ。俺をここに呼んだの、本当は別の理由があるんだろ?」
「ううん。勉強を教えてほしかったのは本当だよ~。割合は三分の一くらいだけど」
「口調変わってるぞ」
「こっちが素。今までのはお嬢様モードなんだ。姉様たちにもこれでいってるけど、兄様の好きな方にするよ?」
「素でいい」
「うん、わかった。――そうそう、他の理由はね。興味があったから、かなぁ」
にこにこと無邪気に笑って、羽三美は続ける。
「最近のめもり姉様って、やくも兄様のお話ばっかりするの。アルバイトの時のこととか、すっごく楽しそうに。だから羽三美も会ってみたくなっちゃって」
「芽守が? 意外だな……。けどそれで理由の三分の二だろ。残りは?」
「兄様のヒミツを知りたくて」
「はあ?」
「でもそれは今度でいいかな。また羽三美に勉強教えに来てね。約束して?」
頬ずりをする勢いで、やたらとすり寄ってくる。
いきなり部屋のドアが勢いよく開いた。
「飲み物とお菓子お待たせー!!」
魚競りのごとき威勢の良さで、芽守が突入してきた。突撃といった方がいいかもしれない。
「めもり姉様ったら。ノックもなく入ってくるだなんて。そもそもお菓子は岩城に頼んでおきましたのに」
「ちょっと待って。近くない? 距離近くない? あたしの遠近感狂ってんのかな? 眼科予約した方がいいのかな?」
「そんなにまくし立てないで下さい。やくも兄様も困ってしまいますよ」
「せ、先輩のこと兄様って呼んでんの!?」
「兄様が構わないって仰るんですもの、ね―兄様?」
「この短時間で何があったのよ! こら、先輩にべたべた抱きつくなっ!」
「やーです」
姉妹は矢雲の周りをぐるぐるしながら、いつ果てるともない口論を続けていた。もう勉強どころではない。そっと教科書を閉じ、ティーカップに口をつける。
紅茶は文句なしに美味かった。
●
「なんか……機嫌悪くないか?」
レジカウンターから芽守に声をかける。本棚の整理をしていた彼女は「別に」と矢雲に一瞥だけして、またふいっと本棚に向き直った。
今日は古書店のバイトだ。店長は休みで、芽守がシフトに入ってくれる日なのだが、出勤と同時にこの態度である。しかし、まばらに来るお客には愛想のいい応対をしていた。
「なんで俺にだけ……」
「自分の胸に聞いたら?」
と、言ったのは芽守ではなかった。
レジ横の椅子にちょこんと座る少女が、矢雲を見上げている。
少女の名は
以降、みさきは二人に――わけても芽守に懐いていて、こうして古書店に足を運んでは雑談を楽しんだり、興味のある本を探したり、半ば遊び場のように使っている。
元より客の少ない店なので、それ自体は一向に構わなかったが、話してみると予想以上に大人びた――というよりおませな女の子だった。
「陽咲さんは乙女心がわかってないんだもん。芽守おねえちゃんの不機嫌は陽咲さんのせいなんだからね」
こんな具合である。俺は苗字に“さん”付けで、芽守は“おねえちゃん”呼びと来たものだ。
引っ越し先で初めて出会った時は、引っ込み思案で大人しい印象を受けたものだが、中々どうしてアグレッシブな性格だ。むしろ根本がそんな性格だったからこそ、あの極限状態でベランダから飛び降りるなんて決断ができたのかもしれないが……。
「いや、でも『機嫌悪くないか?』って聞いたら『別に』って言ったぞ」
「そのまま受け取っていいわけないんだよ。女の『別に』は『はい、そうです』の意味なんだよ。ちゃんと言葉の裏を読んでよね」
小学二年生に女を説かれた。
「みさき、こっち来なよ。面白そうな本があったから読んだげる」
「わーい」
芽守が呼ぶと、みさきは椅子からぴょんと飛び降りる。嬉しそうにすぐさま走っていくあたり、やはり相当芽守が好きなのだろう。
「なんの本? なんの本?」
「んーとね、『天秤にかけられる姉妹』だって。ドロドロの愛憎劇みたいだね」
「あいぞーげき?」
小学生に何を読み聞かせる気だ。そしてその責めるような俺への目線はなんだ。
ほの暗い朗読が始まった直後、「おーっす」と軽い挨拶と共に敷居をまたぐ男が現れた。
「いらっしゃいませ――って芝か。珍しいな」
「レポートのお題にでも使えそうな本はないかと思ってさ。ちょうど陽咲がバイトしてたことも思い出して」
芝平太。キャンパス内を走り回る犬を捕獲する際、何かと不幸な目に遭っていた大学の友人だ。
適当に本を物色しながら、おもむろに芝は言う。
「なあ陽咲。最近忙しい?」
「俺はいつも忙しいよ」
「はは、そうだった。でも今年の夏は俺も忙しくなりそうだ」
「何かあるのか?」
「色々あるんだよ」
要領を得ない会話だった。いつもより活気が少ないように感じるのは暑さのせいだろうか。訳はありそうだったが、本人がはっきり言わない以上、無用な詮索はやめておいた。
カゴに古びた史学書を入れつつ、彼は芽守に横目を向ける。
「ところでもう一人の店員さん何してんの? 少女に昼ドラみたいな内容の本を読んでやってんだけど。しかもちらちら陽咲の方を見ながら」
「わからないが……気にしたら負けだと思う」
●
角刈りの頭が、運転座席のシートからのぞいている。
羽三美に勉強を教えて数日。貰井邸への送り迎えは、全てこの岩城という男が務めてくれていた。三姉妹のボディーガードなんだか給仕なんだか執事なんだか、とにかくオールマイティーにこなす役どころらしい。
有能ではあるのだろう。しかしこの無口さ加減だけはどうにかならないものか。
自分とて多弁な方ではないが、こうも車中に沈黙しかないと、さすがに気疲れしてしまう。
「あの、岩城さん?」
意を決してしゃべりかけてみる。数秒の間のあとで、「何か」と淡泊な応答があった。
「いや、えっと……静かだなと思って」
「曲のリクエストがあれば」
「ああ、そういう意味じゃなくてですね。岩城さんが静かな方だと」
「羽三美お嬢様から陽咲様は大切なお客人と窺っております。主のお客人であれば、使用人が無用に会話を交わすことは控えるべきかと」
「俺にそんな気遣いはいりませんよ」
「左様ですか」
また無言。
「……岩城さんは貰井家で仕えて長いんですか?」
他に聞くことも思いつかず、当たり障りのない問いかけをする。また数秒の間があって、
「お嬢様方に拾われて、六年になります」
「拾われて……?」
「陽咲様」
それ以上の質問を断ずる声音で、岩城は言う。
「私にとってお嬢様方は、何よりも優先すべき対象。いついかなる時も、身命を賭して御身をお守りする覚悟です。故にですね。もちろんないとは信じております。信じておりますが――」
急にその声音が低くなり、ドスの利いた口調へと転じる。
「お嬢にちっとでも手ぇ出してみぃ……ドラム缶に詰め込んで日本海に流したるけぇのぉ……」
漏れ出す殺気と共に、ギチギチィとハンドルが軋んだ。
「やくも兄様? なんだかお元気がないようですが」
「いや、帰りのことを考えると気が重くてさ……」
羽三美に勉強を教える最中、垣間見えた修羅の形相を思い出す。あれはやばい奴だ。どんな経緯で貰井家に仕えてんだよ。そしてなんで俺に敵意むき出しなんだよ。
「よくわかりませんが、帰るのが嫌でしたら羽三美の部屋に泊まってもいいですけど」
「それこそ日本海に旅立つ羽目になるだろ……というかお嬢様モードはやめるんじゃなかったのか?」
「あ、そうだったねー」
ころっと羽三美は態度を変えた。甘えた猫のようにすり寄ってくる。
引き離しても離れないのもいつものことだ。矢雲は構わず、美術の資料集を開く。
羽三美の中学校は、良家の子女が通う私学の女子校だ。それゆえか音楽史や美術史といった一般中学ではあまり馴染みのない科目もあったりする。
「次は古代ギリシャ彫刻だったな。ギリシャ人は芸術において、人の姿こそ世俗であると同時に、神聖であるとも考えた。ギリシャ神話の神々の多くが人間の姿形をしているのは、こうした考え方が影響している。裸像が多いのも、肉体の美を重要視していたからだな」
「へえ~。兄様って美術が専攻じゃないのに、よくそこまで教えられるよね」
「美術館展示のバイトもやったからな。役割は会場案内だったんだが、来館者からの質問もばんばん来るんだよ。答えられるように色々調べてる内に、自然と詳しくなっただけだ。日本、北欧、ギリシャあたりの神話なら大体わかる」
「すごいなぁ。でもねー、この世界にもう神さまはいないんだよ」
他愛のない冗談だと、流そうとした。しかし妙に胸に引っかかる言葉だった。
神様はいない。
「それはどういう――」
「お菓子お待たせー!」
ばーんと扉が開いて、またもや芽守が登場した。
「もうっ、めもり姉様。羽三美はお勉強中ですよ。それにお菓子ならもう部屋に用意していますので」
「またそんなに密着して……矢雲先輩もなんで自分から離れないのよ!」
「いや、離れようとはしたって。でも離れないんだって」
わーわーと姉妹の口論が始まる。
「だいたい羽三美はそんな成績悪くないでしょうが! いつまで矢雲先輩に教わるつもり!?」
「めもり姉様には関係ありません。今は私のターンです!」
「お子様はさっさとお菓子でも食べてターンエンドしたら!?」
「むぅ! 今日はやくも兄様に相談しようと思っていたことがありますのに! 姉様は早く出て行って下さい!」
「あたしが聞いてあげるってーの!」
「結構ですっ!」
姉妹喧嘩の収まる気配は一向にない。「俺、帰るからな~」と小声で告げて、矢雲はそそくさと部屋を出た。
●
最初は屋敷の広さに驚かされたものだが、話を聞いたり、何回か足を運んでいる内に多少の構造はわかるようになった。
貰井邸はいくつかの棟によって構成されていて、使用人たちの詰め所や作業場になっているのが東棟。来賓応対や商談なんかに利用されるのが西棟。
そして三姉妹の居住区画となっているのが、この中央棟だ。
気になるのは、屋敷のところどころで目に入る例のマーク。火事マンションから飛び立ったヘリのボディにも刻印されていた紋様。
「あの貰井製薬だよな、やっぱり……」
「陽咲くん」
エントランスホールまで着いて、そこで声をかけられた。
「お邪魔してる。もう帰るところだから安心してくれ」
「べ、別に追い出そうとはしていません。羽三美の勉強を見てくれているのでしょう」
「ああ、まあ、そんな感じだ」
羽三美は優秀だ。別にわざわざ俺に教わらなくても――とは思う。因果の糸とやらに絡む、何らかの思惑はあるのかもしれないが。
「羽三美から何か相談を受けましたか?」
「いや? 特には」
そういえばさっき芽守と口論していた際、羽三美がそんなことを口走っていたような。大して気にも留めず、部屋を出て来てしまった。
「そうですか。まあ、いいでしょう。陽咲くん、今週末の予定は? またアルバイトでも入っていますか?」
「今週は空いてるけど」
「スケジュールが詰まっていても関係ないですけどね。どうせ因果操作して空けさせますから」
「やめろ」
「陽咲くんに糸がないので、操作は周囲の人間に対してとなりますが。あなたの予定を調整するのに、あなた自身を因果に組み込めないのは、かなり面倒なんですよ? 少しくらい感謝してはいかがです」
「感謝するポイントが一ミリでもあると思ってんのか」
そもそも頼んでないんだよ。俺の人生に平然と介入してこようとするな、この女は。
「で、週末がどうした。うわっ?」
いきなり俺の胸に何かを押し付けてきた。小さな長方形の紙? チケットだ。
紡綺は目線を床に逃がしながら、声を小さくして言う。
「私と遊園地に行きなさい」
――つづく――
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