第3話 測りの女神と命の色

 食事における最高のスパイスは空腹だと聞いたことがあったが、まったくその通りだと貰井芽守めもりは実感した。

 彩り豊かな野菜サラダに、湯気をくゆらせる澄んだスープ。メインのリブロースステーキの肉汁の香りが鼻孔を刺激し、ともすれば疲労の抜けないこの体が皿に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えるほどだ。

 貰井家専属のコックの腕に間違いはない。

「それで芽守。どうなの?」

 胃を慣らすためにさっそくスープから――とスプーンを手にしたところで、紡綺つむぎにそう訊かれる。

 望まぬアルバイトを強要してきた敬愛すべき姉は、ホワイトクロスのかかったロングテーブルの上座側に座っていた。

 ここは来客用の大広間だが、姉妹が三人そろって夕食をとる時などは、よくこの場所を使ったりする。

「どうって、古書店でのバイトは今日で三日目だけど、やっと慣れてきた感じかな。作者の名前順に本を整理するのがどうしても手間取っちゃって」

「その報告はいらないわ」

 再び持ち上げかけたスプーンが、姉の一喝に止まる。

「陽咲矢雲の秘密。それを知る手掛かりは掴めたかと訊いているの」

「その……まだだよ。ていうか因果の糸が出てない理由とか、先輩自身にもわからないんでしょ? 本人もわからないのに、あたしが傍から見ててわかるもんなのかな?」

「しらばっくれている可能性もあるわ。意図的に隠しているなら、どこかできっと尻尾を出す。そこを暴き出すために、あなたを彼の近くに送り込んだのよ」

「あたしの夏休みを返して……」

 真夏の日差しを受けながらバイト先まで赴き、ろくに利かないエアコンの生温い風を受けながら、レジ打ち、商品陳列、在庫管理、古本買取に精を出すわけである。

 働くって大変だ。世間のアルバイターたちに敬意を表したい。勤労感謝の祝日の意義がようやくわかった気がする。

 そして再々度スプーンを口に運ぼうとして、

「妙案があるわ。聞きなさい、芽守」

 との一声に、またスープを飲むことは叶わず、手をテーブルに置く羽目になった。

「姉さんの妙案って、ほんとに妙な案だよね……で、どんなの?」

「色仕掛けよ」

「うーん、アウト」

「セーフに決まってるじゃない」

「判定基準が自分本位過ぎない!?」

 妙案の斜め下の駄案が飛び出してきた。

 どうしよう、あたし。どうするの、あたし。

「考えてもみなさい。普通にしていてボロを出さないのというのなら、不意打ちであれば何かしらの反応があると思わない?」

「えぇ~、どうなんだろそれ。だからそういうの、発案者の姉さんが自分でやったらどうなのよ」

「そんなに軽々しく異性に肌をさらせるわけないでしょう。はしたない」

「羽三美! 今の聞いた!? ちょっと助けてよ!」

「ごちそうさまでしたー」

 黙々と食べていた親愛なる妹は、真ん中の姉の支援要請に応じもせず、スマホを片手に早々に退室していった。



《――★★測りの女神と命の色★★――》



 思ったより真面目に働く、というのが矢雲の芽守に対する印象だった。

 押しかけバイトなんぞ聞いたこともないが、勤務態度は悪くなかった。メモはしっかり取るし、質問も積極的に聞きに来る。機転も利くし、覚えも早い。

 何かしらの裏があって近づいてきたのだろうが、それはそれとして頑張っている姿は評価したい。

「今日は客が少ないな。雨だからか?」

 レジ台で伝票整理をしながらぼやくと、そのひとり言を聞き留めた芽守が笑った。

「晴れてる日でも、お客さんそんなに来ないじゃん。売り上げちゃんと出てんの?」

「店長の道楽でやってるような古書店だ。採算は度外視なんだろう。俺はバイト代さえ出れば、それでいいよ」

「矢雲先輩は苦学生なんだってね」

 適当な会話をしながらも、芽守はしっかり手を動かしている。棚の整理もずいぶん手際よくなってきた。

 ただ気になることが一つ。今日はやたらと俺の様子をちらちらと窺ってくる。何かを狙っているような、タイミングを計っているような、そんな素振りだ。

 どうかしたのかとこちらから問い質そうとした矢先、芽守がレジ台にやってきた。正面に立ったかと思うと、腰を曲げて身を乗り出してくる。

「せ、せんぱぁい。しとしと降る小雨の日ってこう、なんかこう、変な気分になったりしません?」

「うん? 芽守は低気圧の影響が体に出るタイプか?」

「違うし! そうじゃなくてぇ」

 今日の芽守は高校の制服に、店頭用エプロンという恰好だ。前かがみになったブラウスの胸元が開いている。

「あっ、やだ先輩、どこ見てるの?」

「さびれた書店とはいえ、接客業で身だしなみは重要だからな。ちゃんとボタンを上まで留めとけよ」

「……はい」

 無言でボタンを留めると、芽守は棚整理に戻った。

 ほどなく、「せんぱぁい」とまた甘ったるい声で呼ばれる。

「……いつもそんな口調じゃなかったろ。今度はなんだ?」

「棚の上の方片付けたいんで、脚立押さえててもらえますかぁ」

「お前、スカートだろ。俺がやるから、芽守が脚立押さえててくれ」

「紳士か!」

 謎の非難を浴びせかけられる。

 極めつけは、

「きゃー、先輩。スカートの裾が本に挟まったよ。このままだとあたし、あられもない姿を披露することになっちゃうよ!」

「本を外せば?」

「まあ、そうなるよね」


 ●


「もう絶対やらないから!」

 屋敷に戻った芽守は、エントランスで待ち構えていた紡綺に開口一番そう言った。怒り心頭の妹に、肩をすくめる姉。

「落ち着いて、芽守。あれはあなたの演技が良くなかったと思う。棒読みだったし、照れもあった。児戯に等しいクオリティで、見るに堪えないおままごとの延長でしかなかったもの」

「落ち込んでる相手の傷口に粗塩すり込んでくるスタイルなんとかならないの? ……ってか、なんで知ってんの?」

「書店の向かいの道路にうちの車が止まってたの気づかなかった? そこから見ていたわ。指示した以上、現場監督はするつもりでね」

「余計なお世話過ぎる……」

「ところで妙案があるわ」

「でたよ」

 文字通りの妙な案である。自信も満々に紡綺は告げた。

「古書店だけでは観察の機会が足りないでしょう。明日から彼が掛け持つバイト、その全てにあなたも行きなさい」

「うーわ」


 ●


「……というわけで、今日から全部のバイトについてく……」

 朝一で古書店に現れた芽守は、疲労の隠せない顔でそう言う。

「だからどういうわけなんだよ!」

「三姉妹の次女って、中間管理職みたいなとこあるから……」

「断れなかったってことか? でもなあ、全部ってしんどいぞ?」

「がんばるよ。もう因果操作で各バイト先に欠員が出るようにした後だし」

「そういうのはやめろって、マジで」

 矢雲は嘆息した。お膳立ては済んでしまっているらしい。その因果操作という現象を受け入れつつある俺もどうなんだ。

 ともあれ忙しい毎日が始まった。



 一日目、正午。バーガーショップ〈ヘレネスバーガー〉

「いらっしゃいませー! アンブロシアバーガーを単品でお一つですね。ご一緒にお飲み物のネクタルスカッシュはいかがでしょうか? 今なら『合法的にハッピーになれるセット』をご注文頂きますと、お子様限定で黄金の盃がついてきますよ~」

 活気に満ちた声でカウンターに立つ芽守。昼時のファーストフード店は戦場だ。途切れないドライブスルーを捌く合間を縫って、矢雲は芽守の様子を見に行く。

「ここからまだ忙しくなる。いけるか?」

「大丈夫だよ。それよりここの店の宣伝口上おかしくない?」

「考えるな。与えられた使命を果たせ。たとえ強盗が押し入ってきたとしてもスマイルを絶やすな」

「熱意がバイトの枠を超えてる気がする……」

「そりゃ今期のシフトリーダーだからな。顧客満足と従業員満足の向上を目指すんだ。同業他社には絶対に負けん」

「もはや代表取締役レベルの熱意と責任感なんだけど」

「ほら、新規のご来店だ。オーダー頼むぞ」

「いらっしゃいませー! 午後から巨人一族を根絶やしにするご予定のある方にはこちらの『ティタノマキアセット』がおすすめでーす。社会への反逆を企てるお客様には『非合法のアンハッピーセット』が――」



 一日目、午後。高層ビルの窓清掃。

「あああ! ムリ死ぬムリ死ぬムリ死ぬぅ!」

「おい、暴れるな!」

 地上七〇階の高層ビルの屋上から吊り下げられるゴンドラが、芽守の絶叫によって不安定に揺れる。

「ゴンドラがある現場ってだけでありがたいんだ。それにハーネスが腰についてるから、万が一落ちたとしても問題ない」

「問題ないわけないでしょ! 万が一の話とかしないで!」

「口じゃなくて手を動かせ。そっちの窓は任せたぞ」 

「あうう、あうう……!」

 泣きながら窓に専用のモップをかけていく。風に煽られるたびに、芽守は叫んだ。

「こんなの死地だよ! 助けて姉さん、紡綺姉さん! お姉ちゃーん!」

「その死地に送り込んだのがお前の姉貴だろ」



 二日目、午前。ペットショップ〈エキドナ〉

「爬虫類なんかさわれないって!」

「さわる必要はない。ケージの清掃だけだ」

「向こうからさわりにくるかもじゃん! そのイグアナかカメレオンみたいなのに!」

「良い着眼点だ。そもそもがトカゲ亜目イグアナ下目カメレオン科となるから、大きなグループとしてカメレオンってのは――」

「どーでもいいし!」

 獣医学部の実地勉強の意味合いもあって、矢雲はこのペットショップでのバイトを重宝している。

「だったら犬のコーナーで、商品の補充をやってくれ。俺が爬虫類コーナーを――」

「すいません、店員のお兄さん」

「はい、いかがなさいましたか?」

 一瞬で接客スマイルに切り替え、お客の質問に答えていく。

「――そうですね。この種類は寒さに強いので、日本でも飼いやすいと思います。あと混種なので病気への耐性もありますよ。それと餌はこれとこれがお勧めです」

 手際のいい応対にそこはかとなく感心しつつ、芽守は犬コーナーに向かう。

「ねえ、店員のお姉さん。ちょっと質問があるんだけど」

 その最中、男性客に呼び止められた。

「はい? あ、あたし?」

「犬を飼いたいんだけど、病気に強い子がいいんだ。ほら、ペットの病院代って馬鹿にならないからさ」

「えぇと……」

 さっきの矢雲の接客を思い出す。交配させた種類は病気に強いとかかなんとか。

 混……混……なんというのだったか。そこはよく聞こえなかった。もうそれっぽい意味の言葉で乗り切るしかない。そういえば羽三美がゲームの話でこんなワードを出したことがあった。

 芽守は最大の笑顔で応じた。

「はい! あの子とかどうでしょう。パグとチワワの合成獣キメラでして――」

「うおーいっ!」

 一〇メートル向こうから先輩に怒られた。



 二日目、午後。〈蟻酸マークの引っ越し〉

「女子高生が引っ越しのバイトとか……」

「ついてくるって言ったのそっちだろう。文句言わずに運べ。軽い荷物を優先して持たせてやってるんだからな」

「お気遣いどーも」

 ぜえぜえと肩で息をしながら、芽守は両腕に段ボールを抱えて階段を登る。

「なんでエレベーターがないの!? ねえ、なんで!?」

「建築基準法で31メートル以下の建物には、エレベーターの設置義務がないんだよ。ただでさえ古い団地だからな。オーナーがケチったんだろ」

「義務はなくても人情ってあるじゃん!」

 この団地マンションは五階建てだが、引っ越し先のお宅は三階だ。そう考えれば、まだ救われる話なのかもしれなかったが。

「ありがとう。それはこっちの部屋に置いてね。あ、これはそっち」

 部屋の中で依頼人の奥さんが、矢雲たちに指示を出す。

「まさかこんなに若い子たちが来てくれるとは思わなかったわ。テキパキ働いてくれて助かっちゃう」

「いえ、何なりとお申し付けください」

 背すじを伸ばして、矢雲は頭を下げる。

 一方、指定された部屋に段ボール箱を運ぶ芽守は、よろめいた拍子に何かにぶつかった。

「きゃっ」

 と、尻もちをついたのは小さな女の子だった。

「あ! ごめん、荷物で見えなかったよ。ケガしてない?」

「うん、だいじょうぶ」

 段ボール箱を床に下ろして、女の子に駆け寄る。小学校低学年くらいの女子だ。

「おねえちゃん、すごいんだね。大きい荷物をひとりで持てるんだもん」

「余裕、余裕! まっかせなよ! もう少しで全部運び終わるからさ」

 本当は腰がバキバキで、腕なんかまともに上がらない。今晩は筋肉痛の全身パレードだろう。しかし“おねえちゃん”と呼ばれたからには強がりたいのが、次女とはいえ姉なる者の心情だ。

「新しい家、綺麗でいいね。荷解きは大変だろうけど、ママとパパの手伝いするんだよ」

「パパはいないよ。今日からママと二人暮らし」

「あっ」

 しまった。事情を知らないのに、余計なことを言った。

「あ、あたしも父さんはいないんだ。でも姉さんと妹がいるし、最近知り合った先輩はなんだかんだで面倒見いいし。毎日楽しいよ。えっと、だから――」

 あたしは何が言いたいんだ。自分でもわからないことをペラペラと並べ立てて。この子を逆に傷つけてしまったらどうする。

「その、ごめん」

「なんで謝るの? ママといっしょだからさみしくないし、友達はこれからいっぱい作るから」

 少女はにこりと微笑んだ。可愛らしい笑みだった。

「……そっか。良い未来になるように祈ってるよ」

「おねえちゃん、ありがとう。優しいね」

「まーね。じゃ、さっさと片付けようかな」

 少しだけ軽くなった足を動かして、残りの荷物を運ぶ。ほどなく全ての作業は終了した。


 ●


 団地内にある公園。そのベンチの一つに二人は腰かけていた。

「あぁ~、もう一歩も動けない……」

「よく頑張ったな。少し休憩してから帰ろう。ほれ」

 矢雲は冷えたオレンジジュースを芽守に手渡した。

「わ、買ってきてくれたの? えへへ、ありがと。苦学生なのにごめんね?」

「ジュース一本くらいどうってことない。晩飯の総菜が一品減るだけだ」

「どうってことなくないんじゃない、それ」

「仕事のあとのご褒美ほど美味いもんはないんだよ。いいから黙って飲め」

「はーい」

 缶を開け、ぐびりと喉を鳴らす。

「ぷはっ、最高~!」

「な?」

 夕方の日差しが、遊具を赤く染める。

 さっきの引っ越し先の奥さんが、自転車で出かけるのが見えた。買い物にでも行くのだろうか。

「ねえ、先輩。こんなにバイトをかけもちしてるのって学費を払うためなんだよね」

「まあな。獣医学部は在学期間が長くて金がかかるんだ。家もそんな裕福じゃないし、援助は頼みたくなかった。高校卒業と同時に実家を出たよ」

「獣医か~。あんまり馴染みのない職業だけど、どうしてそれになりたいの?」

「どうしてって――」

 即答できない自分がいた。

 動物が好きで? ――その通りだ。

 だからケガをしたり病気をしたりした動物を助けたくて? ――間違いない。

 しかしその根本はどこだ? 何かきっかけがあったはずだが、なぜかそれを思い出せない……。

「先輩?」

「……理由は色々だ。時間がある時に話してやるよ」

「もったいぶるな~」

 適当にはぐらかす。心の深くに沈殿する澱みが、不意に胸中をざわめかせた。

「俺もこの機会に聞いておこうか。お前たちの持つ力について」

「ん? それはこないだのカフェで紡綺姉さんが大体話したでしょ」

「大体な。聞きそびれたこともある。たとえば、その能力は生まれつき備わったものなのか、とかな」

「ああ、そんなこと。この力は――……あれ。そういえばいつからだったっけ……」

「おい、そういう冗談はいらな――」

 大気を震わす轟音が、続く言葉をかき消した。

「な、なんだ?」

「先輩、あれ!」

 団地マンションの一つから火の手が上がっている。しかもあれは、さっき荷運びした棟だ。

「火事……? うそ、なんで。そ、そうだ。あの女の子、まだ部屋にいるよ! た、助けなきゃ!」

「待て!」

 駆け出した芽守の腕をつかんで止める。

「なに!? 早くしないと……!」

「落ち着けって! 見える限りで出火元は二階。さっきの部屋の真下だ。ああいう爆発の仕方はおそらくガスが関係してる。そこを通って三階に行くのは危険すぎる」

「じゃあどうすんの! 消防車待ってられる感じじゃないよ! あんなに煙も出てる!」

「その煙が問題なんだよ! 装備のない素人が突入したところで、あっという間に一酸化炭素中毒だ!」

 そうこうしている間にも、もうもうと黒煙が広がりつつある。

「けど、それじゃあ、あの子が……」

「因果操作でどうにかならないのか?」

「……無理だよ。因果の糸が伸びる先は未来だから。今現在起こっていることはどうしようもない。それでも姉さんならなんとかしたかもしれないけど……」

 芽守はうなだれた。

「もしもあたしが紡綺姉さんだったら、あの子の糸の色を視て災難を予見できたかもしれないのに。あたしの能力だけじゃ何の役にも立たないよ……」

 その時、芽守のスマホに着信が入った。紡綺からだ。

『もしもし、聞こえる?』

「姉さん!? 今どこ!? 用件は後で話すから、あたしが言う場所に今からすぐに来て!」

『もう来てるわ。上を見なさい』

 言われて見上げる。

 マンションの屋上の端に人影が見えた。西日の逆光の中で長い黒髪をなびかせるのは、誰あろう貰井紡綺だった。

「なんでそんなとこにいんの!?」

『言ったでしょう。指示したことに対する現場監督はするって』

「うっそ、見張ってたってこと?」

『見守っていたと言いなさい。それよりも早く範囲指定を。芽守の力の影響下に入らないと、運命操作ができないわ」

「で、でも羽三美もいないと糸が切れないよ」

『羽三美も連れて来てる。屋敷でごろごろしてたから。暇つぶしに付き合いなさいって』

「暇つぶし……?」

『ひつまぶしの言い間違いよ。この件を片付けたら、夕食はうなぎにしましょう』

「色々ひどくない、姉さん」

『さて、ゆっくり会話している時間はないのでしょう。わかっていると思うけど、あなたが私たちの能力の起点なのよ?』

「承知してる……よっ」

 芽守は勢いよく自分の右手を地面に押し当てた。

「全速で範囲を広げる。先輩は動く準備しといて! すぐに姉さんからの指示が来るよ!」

「……了解だ!」

 瞬く間に拡大した芽守のフィールドが、団地全域を飲み込んだ。

 同時、マンションの住人達から発する因果の糸が、紡綺の元へと集約されていく。下から見上げる様は巨大な光の鳥籠のようだった。

 そして羽三美が糸を切る。団地を覆っていた光膜が弾けた。紡ぎ直された運命の強制執行だ。

「おい、火事だぞ! 消火器持ってこい、消火器!」

「消火栓もすぐに使えるようにしとけ!」

「先に近くの部屋の人たちを避難させろ!」

「消防署への連絡は済んでんのか!?」

 火事に気付いた――いや、たまたま・・・・カーテンを開けたり、なんとなく・・・・・部屋の外に出たり、火事に気付かされた・・・・・・住人たちが飛び出してきて、声を掛け合って連携よく動き始めた。信じられないほど行動が早い。

『陽咲君、急いでそのマンションの裏手に回って』

 芽守のスマホからスピーカーで紡綺の声が聞こえた。

「わかった。今から何が起こる?」

『住人達の初期消火によって、火の勢いを弱めることには成功します。あと五分後に消防車も来ます。でも煙の勢いに巻かれて、少女の救出は間に合わない。……その子から出ていたのは黒い糸でした』

 芽守の瞳に焦りが映る。

「黒……! でもせめて黄色にするぐらいは運命を変えられたんでしょ!?」

 黄色は確か本人に危険が迫っている時。では黒色は……話の流れから察するに、おそらくは当人に“死”が訪れる時か。

『そう、せめて黄色にできるように因果の糸を紡ぎ直すつもりだった。でも急にその子の糸が視えなくなった。まるで闇に塗り潰されたみたいになって、未来の観測が利かなくなった』

「ど、どうしてよ?」

『わからない。でも多分、陽咲君が関わるからだと思う。私の紡ぐ運命に組み込めない彼が、今から少女の救出に向かう。陽咲矢雲という不確定因子が、私の能力を阻害しているとしか考えられない』

「今はそんなことはどうだっていい」

 紡綺の説明を聞きながらも、すでに矢雲は走り出していた。その後を芽守も追う。

 未来が見えない? だからなんだ。俺たちのやることはもう決まっている。

『そうね。今じゃなくていい。いずれ必ず解き明かしますけど。では話を戻します。完全に視えなくなる前に、少しだけ少女の糸を結うことができました。私の力がまだ有効なら、その子はベランダ側に出ているはず。あとはあなた達に任せます』

「十分な情報だ」

 建物を回り込んで、マンションの裏手へ。

 黒煙が噴いている。泣き声が耳に届いた。女の子だ。タオルで口を押さえて、ベランダに避難している。だがあの煙の勢いでは時間の問題だった。

 ベランダの真下まで駆け込み、矢雲は声を張り上げた。

「聞こえるか!? 受け止めるから飛び降りろ!」

 他に方法はなかった。少女がいるのは三階。それでもやるしかない。

 しかし応じない。足がすくんでいるようだ。何度も叫んで促すが、一向に動いてくれない。

「下がって、先輩。あたしが説得する」

 芽守が前に出た。

「あたしだよ。わかる?」

「あ、引っ越しのおねえちゃん……?」

 少女が反応した。

「心配しないで。大丈夫。信じて飛び降りて」

「で、でも高いよ。怖いよ。失敗しちゃったら……」

「あたしに糸が視えたなら、成功するって自信を持って言えるのにね……ううん、そうじゃないか」

「お姉ちゃん?」

 芽守はぐっと拳を固めた。

「絶対に受け止める! あたしが祈ったんだ。君にあるのは良い未来だよ!」

「っ、うん!」

 ベランダから身を乗り出し、少女は飛び降りた。

 芽守が必死に抱き留める。衝撃に負けて後ろにバランスを崩す。すかさず矢雲がその背中を支え、二人して仰向けに倒れ込んだ。

 少女は芽守の胸の中で泣いていた。生きている。

「よくやった……」

「足震えてるっての」

 夕焼け空にヘリが飛び立っていくのが見えた。

 あんなもんで団地マンションの屋上に乗り付けていたのか。ちゃんと航空法とか守ってんだろうな。飛行場以外にヘリが離着陸するには国土交通省の認可がいるんだぞ。

「ん?」

 目をこらす矢雲。黒いヘリの側面に見覚えのあるマークが刻印されている。CMでも度々目にしたことのある印だ。

「貰井製薬……?」


 ●


「ねぇー。ヘリで来てたんだったら、それで助ければよかったんじゃないの?」

 夕食後。紡綺の部屋を訪れた芽守は、本日の不満を訴えてみる。

「救助用のヘリじゃないもの。装備も大してなかったし、あんな低高度じゃマンションの壁に近づけもしないわ」

 スマホでニュース速報を見ながら、紡綺は言った。

「それよりもよかったじゃない。死傷者はなし。事故原因は老朽化によるガス管の劣化で、全面改修工事を取り急ぎ行うって。法定点検を実施していなかったオーナーの責任よ、これ」

「矢雲先輩の見立てじゃ、ケチなオーナーっぽいって話だったからね」

「その陽咲君のことよ。ここ連日のバイト同行で、手がかりになりそうな情報はあった?」

「うーん」

 ちょっとぶっきらぼうだけど、面倒見が良くて、優しい人だった。少女を受け止めて倒れた自分を、後ろから支えてくれた時の感触を思い出す。力強くもあった。

 頼りになる先輩。でもそれを言うと、この姉は怒るのだろう。

「特になかった。ごめん、姉さん」

「そう。仕方ない。バイトの同行は今日限りで終わっていいから。ご苦労だったわね」

「……それなんだけど、もうちょっとだけ続けようかなーって」

「どうして?」

「え、えっと、ほら。もしかしたら思わぬ収穫があったりするかもしれないじゃん。それに夏休みは長いし、ひつまぶしってやつ?」

「暇つぶしでしょ。あなたがやるっていうなら好きにすればいいわ。言っておくけど、現場監督はもうしないからね」

「最初から頼んでないし!」

 紡綺は座っていた椅子の背もたれを軋ませた。

「だけど彼の秘密を暴くためには、ここからどう動くのがいいかしら」

「つむぎ姉様。次の作戦はこの羽三美にお任せください」

 部屋の扉が開かれ、末の妹が姿を見せた。

「あら、羽三美。期待していいの? 芽守でもうまくいかなかったのよ」

「めもり姉様は我ら三姉妹の中でも最弱ですから」

「はあ!?」

 芽守の抗弁は受け流し、羽三美は紡綺の前に進み出る。

「それで、どのような策で攻めるというの?」

「ふふ、これから考えようと思っています」

「なるほど、ノープランというわけね」

 悪役っぽい含み笑いが、夜の空気を揺らす。

「なんだよ、この雰囲気だけの会話……」

 妹と姉を残して、芽守は早々に退室した。



 ――つづく――

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