第93話

 微妙な空気がマスターとの間に流れる。

 心配はしてくれているのだろうけど、あまり甘やかせば俺が反省しないと思っているのだろう。


 マスターは椅子からベッドの方に移動して、俺の頭に手を伸ばそうとして、引っ込めて、また手を伸ばそうとして、また引っ込める。


「反省するまで、ナデナデは禁止だからね」

「……この前の【何でも】の報酬を使ってもか?」

「ええ……どんなに私に撫でてほしいの。二人に頼みなよ」

「人それぞれ違いがあって、どれもいい」

「……とりあえず、してあげないからね。何でもは別のことに使って」


 ナデナデさえしてくれない【何でも】って逆に何だったらしてもらえるのだろうか。金銭とか物販限定なのだろうか。


 俺が落ち込んでいると、不意に頭の上に手が乗せられる。


「……怒ってるんじゃなかったか?」

「怒ってはいるけど、そこまで落ち込ませるつもりじゃなかった。……まったく。……仕方ない人なんだから」


 ぽすぽすと頭が撫でられる。いや、そうじゃない、その撫で方じゃなく、優しくヨシヨシしてほしいんだ……。


「……そういえば、これ、マスターのベッドだよな。……退かないと寝れないよな」

「大丈夫だよ。どうせ立ったりは出来ないだろうから。……一緒に寝るのも初めてじゃないから、そんなに気にしなくてもいいよ」


 立ち上がろうとしてみるも、本当に身体が上手く動かせない。

 まるで自分の身体じゃないように言うことを聞かない。諦めていると、マスターがベッドの上に座る。


 なんとなく昨日の朝のことを思い出してしまう体勢だ。


「……どうしたの?」

「いや、何でもない」


 こんな状況で……というか、こんな状況でなくとも「昨日のことを思い出してドキドキしていました」などと言えるはずもなく、マスターから目を逸らして誤魔化す。


「……やっぱり体調が悪いの? 初代はまだいるみたいだから呼んでこようか?」

「いや、身体は元気なんだが……」

「どう見ても元気ないよ」


俺の言い訳を聞こうとせず、マスターは「もう」と怒った声を出す。


「……カルアとシャルにはちゃんと謝ってね。心配してたから。いっつも心配かけてるよ」

「……はい」

「ちゃんと他の人の気持ちも考えて、ランドロスが怪我をしたら心配する人はたくさんいるんだから」

「……ああ」


 それからも色々と小言を言われ続ける。

 一通り言い終わったのか、マスターは満足したように頷いて俺の頭をヨシヨシと撫でる。


「これからは真っ当に生きるんだよ。ランドロス」


 ……割と真っ当に生きてきたつもりだったから傷つく。これ、俺が悪いのだろうか。

 そんなことを言うことは出来ず、コクリと頷く。


「……今日は、一緒には寝てあげないからね。ネネのお部屋に行ってくるから。あ、ここに笛を置いておくから何かあったら鳴らしてね」

「ああ……」


 マスターはプンスカと怒ったまま廊下に出て行く。……俺が悪いのだろうか……。これは男として当然の反応ではないのだろうか……。


 とりあえず、別のことを考えよう……シルガのことを考えるか、気持ちが萎えるし都合がいい。


 …….やはり、改めて考えても死んでいるとは思い難い。

 俺以上の至近距離で爆発して、肉体が四散していたが……生きている気がする。


「……いや、普通は即死だよな。あんなの」


 幾ら高速で治癒魔法が使えようが、即死していたらどうしようもない。

 間違いなく死ぬような状況だった。周りに人間も多くいたので、もし生きていたとしてもトドメを刺されていただろう。


 不気味だ。アレは、最後の悪あがきという顔ではなかった。

 理屈が合わない。どう見ても即死なのに、余裕を持った表情だった。


 ……やはり、生きていると思って闘技大会の様子を見たほうがいいか。


「……次は勝つ」


 今回は相討ちだったが……魔力さえあれば、もっと上手く立ち回れただろう。

 あと、イユリからシルガの手の内も聞いておいて……。


 いや、認めよう。シルガは強かった。俺が失っていた相手に対する殺意や、攻撃性……必死さや、何でもしてやるという強い意志を持っていた。

 情けない言い方をすれば、俺が日和っていたから勝てていたはずの戦いを逃したのだ。


 最近の俺は……まぁ酷いものだった。終始シャル、カルア、マスターと女の子にデレデレしていた。……少し、気合を入れ直した方がいい。


 動かない身体を無理矢理少しでも動かす。少しでも動けばその動きを繰り返していき、少しずつ動かせる範囲を増やしていく。


 ピクピクと動く筋肉。機能的には問題がないはずなんだから、無理矢理動かしても大丈夫だ。ゆっくりとだが、確実に動けるようになっていき、千切れていた方の手の開閉も出来る。

 末端から中央にかけて少しずつ動ける量を増やし動けない場所は腕で無理矢理動かしながら、身体を起き上がらせる。


 ベッドの上で筋肉を揉み解しながら、神経に感じるむず痒さを無視して伸縮させていく。


 失っていたのは主に上半身だったからか、下半身はちゃんと動いてくれる。下半身を動かした反動で上半身を動かし、その動いた感覚を掴んで何度も何度もその動きを繰り返すことで、元の調子に戻していく。


 ……これぐらいは、慣れたものだ。とりあえず、走るぐらいは出来るようになっておくか。


 靴を取り出してベッドから降りてトントンと軽く調子を確かめていると、部屋の扉が開いて、怒った表情のマスターがドンドンと足音を立ててこちらに向かってくる。


「ランドロス! 無理はしないって約束したよね?」

「い、いや、これぐらいは無理じゃないというか、何でバレ……」

「ネネは耳がいいから、隣の部屋で動いていたらすぐに分かるよ。それより、バレないと思ってこんなことをしようとしてたんだね」

「い、いや……別に、何かをしようとしてたわけでは……」

「じゃあ、何で靴を出してるの? 外に出ようとしてるよね」

「……こ、これは……その」


 マスターはトンと俺をベッドに押し倒して、組み伏せる。


「ちゃんとゆっくりと寝てなさい」

「いや、本当にちょっと身体を動かそうとしているだけだから。旅をしていたころは、時々こういうこともあったから大丈夫だ」

「大丈夫じゃない」


 抜け出そうとするも身体が上手く動かせないせいで抑えられては動けない。ベッドの上で揉み合っているうちにマスターと身体が密着し、なんだか身体が絡んで不味いことになっている。


 俺の胸にギュッとマスターの顔が埋められていて、めくれている寝巻きの中に腕が突っ込まれている。

 俺の手もマスターの腹部に触れていたり、足同士が絡み合っていたりと無茶苦茶になっていた。


 これは、まずい。マスターの感触に先程の決意がガリガリと削られていく。


「分かった、分かった、ちゃんと寝てるから、な」

「無理はしないと約束したけど」

「とりあえず……落ち着いて退いてくれ」

「……逃げるからダメだよ」

「逃げないから、逃げないから、な?」


 マスターは疲れたのか、そのままべったりと俺の方にもたれかかってきて、身体がくっついてしまう。

 俺と揉み合って息を乱したマスターの吐息が首にかかり、俺の服の中に入り込んでいる手が汗でべったりと俺の肌に張り付く。


 少女がギルドの仲間を守ろうとしているのだと分かってはいる。大人のように振る舞いはするも、きっといつも必死だったのだろう。


 今、こうして……勝てるはずもない力づくで俺を抑えようとしているのは、俺の大怪我で、張っていた虚勢が剥げてしまって、どうしたらいいのか分からないからなのかもしれない。


 ハァ、ハァと、マスターの胸が上下してとくり、とくりと動いているマスターの心音まで感じ取れる。必死なマスターに意識を引かれそうになりながらも、首を横に振る。


「大丈夫だ。俺は、無理なんてしていない」

「してるよ。無理をしてる。だって、表情が、目つきが戻ってきてるもん。見たら分かるよ。ギルドマスターなんだから」

「数日だけだから、大丈夫だ」

「大丈夫じゃない。せっかく、ちょっとずつ傷も癒えていたのに、そんなの、ダメだよ」


 それを言うなら、マスターの方がよほど無理をして、傷ついてきているだろう。俺だってマスターに恩を返したいと思っている。仲間として大切にしたいと、子供である彼女を守りたいと思っている。


 だから……だからこそ、シルガのことは、俺がどうにかしなければならないだろう。

 どうやったのかは分からないが、シルガは異様な強さを持っている。ダマラスでさえ勝てないだろうし、どういう手段で人間を虐殺しようとしているのかは分からないが……俺が対応しなければならない。


「……どんどん、元に戻ってる。目つきが怖くなってる。何があったのか、教えてよっ……頼りないギルドマスターかもしれないけど……」


 少し暑い夜に締め切った部屋で二人で揉み合ったことで汗が出てくる。衣服越しに、あるいは別の場所では直接に互いの汗が混じっていく。

 俺が答えられずにいると、マスターもそのことに気がついたのだろうが、俺から手を離すことがない。


「……教えられない」

「……私が、まだ……子供だから?」

「……いや、俺がマスターを大切に思っているからだ」

「そんなの……そんなの……私もだよっ……!」


 マスターの背に手を回す。

 汗に濡れた幼く柔らかい肌と、その奥の筋肉を感じさせない感触。思わず抱いてしまった細く小さい身体が、ピクンと小さく跳ねる。


「……さっきの説教は……そのままマスターにも返る言葉だろ」


 俺のゴツゴツとした指先が、触れるだけで幼い皮膚に沈み込む。汗に滲んだ肌の感触。

 暑くて仕方ない状況のはずなのに、不思議と不快さはなかった。けれど、どこか息苦しく、少女の汗の匂いに溺れるようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る