第3話

 この島には夜が来ないのだろうか。いつまで待っても、闇の近付く気配は感じられそうにない。

 風が止まり、鳥たちが飛び去り、まったく音がしなくなると、時が止まっているのかもしれないと錯覚しかけた。だが、どうやら違うようだ。すぐ隣からは、ささやかな寝息が聞こえる。

 ル・スラだ。どうやら、雪遊びではしゃぎ疲れて、眠ってしまったらしい。

 呆れながら、俺はル・スラを見下ろした。

 見た目の印象では、ル・スラもイ・イルも同年代なのだが、イ・イルが見た目よりも老成した雰囲気をかもし出しているのに対し、ル・スラはまったくの逆だった。最初に名乗った時を除くと一切言葉をしゃべっていない事実が、余計に彼女を幼く見せ、幼児のように感じる時もあるほどだ。

 懐かしいと感じてしまうのは、おかしいだろうか。だが、思い出すのだ。弟たちや妹が、幼かった頃。

 いつも、思うがままに、加減を知らず、全力で生きていた――

「イ・イル」

 俺はル・スラを挟んだ向こうがわにいるはずのイ・イルの名を呼んだ。

「何?」

「居場所を知っているなら、俺を創造主の所に案内してくれないか」

 俺は本題を切り出しながら、イ・イルに振り返る。

 白の中に、激しい朱が埋もれていた。その様子は、少しだけ幻想的に見えた。まるで、炎が雪に包まれているようだ。

「君は創造主に会いに来たの?」

「わざわざ海を越えてこの島まで来て、他に何をするってんだ」

「……そうだね。他に理由は無いだろうね」

 イ・イルは静かに、長い息を吐く。

「いいよ。案内しても。だけどその前に、君がどうしてこの島に来たのか訊いてもいい?」

 イ・イルの言葉は、口調の穏やかさからは考えられないほど鋭く、俺の胸を貫いた。彼が口にした問いは、耳に入るだけで、自動的に俺を傷付け、未だ俺の中に生々しく残る傷を抉るのだ。

 今度は俺が静かな息を吐く番だった。

 白い雪に包まれながら、青い空を見上げる。少し首を傾ければ、海の蒼と炎の朱。

 ここには、綺麗な色しかない。俺が暮らしていた村には、ひとつもなかった鮮やかさばかりだ。

「あまり話したくない」

「だろうなとは思ったけど、理由もなしに創造主の所に連れていけっていうのは、ずうずうしすぎないかな?」

「承知の上で、それでも嫌だと言ったら?」

「別に。いじめたり追い返したりはしない。だけど、案内もしない。それだけだよ。説明しなくても、ル・スラなら案内してくれるかもしれないから、彼女に頼る?」

 俺は手の中にある雪を握り締めた。

 ル・スラに案内を乞うて連れてこられたのが、ここだ。彼女が案内役として頼りになるのかどうか、怪しいものだった。言葉が通じているという認識を改めなければと考えはじめているくらいだ。

 もしかすると、冷たくない雪でぞんぶんに遊んだ後に案内してくれるつもりだったのかもしれないが――正直、あまりあてにはならないと思う。

 仕方ないか。確かに、理由も説明せずに俺の望みに付き合えというのは、むしが良すぎる。

 俺は諦める事を決めた。胸の上に熱を持つ手を置いて、ますます酷くなるだろう痛みに備えた。

「大して珍しい話じゃないぞ」

「うん」

「面白い話でもない」

「構わないよ」

 俺は目を伏せる。鮮やかな色がすべて消え失せ、薄暗い闇が訪れる。

 その闇の中に浮かび上がるのは、記憶。

「俺の国では今、戦争してるんだ。俺が子供の頃からだから、結構長く続いてる。もう、終わりかけてたけど」

 最初に蘇った記憶は、戦争がはじまる前の、家族全員が揃った食卓だった。

 爺さんがいて、両親がいた。姉がひとりと、弟がふたり、それから妹がひとりいた。笑顔が溢れる、賑やかな家だった。俺もその中に、違和感なく混じっていた。

 楽しい日々だったと、思う。

 けれどもう、そんな日は帰ってこない。

「最初にいなくなったのは親父だ。戦争がはじまってすぐに徴兵された。みんなで帰りを待ったけれど、帰って来たのは遺髪だけだった。次にいなくなったのは爺さんだ。親父――爺さんにとっては、息子だな。息子を奪った戦争のくだらなさに腹を立てて、偉い奴に訴えに行ったけど、その場で斬り捨てられたらしくて、冷たくなって帰ってきた。最後が、姉貴と一番下の弟だ。俺たちが住んでいた村は国境が近くて、戦場になってさ。戦いがはじまる前にみんなで逃げたんだが、ふたりだけは逃げ遅れて……後で村に戻ってみたら、酷い死体が残ってたよ。散々な目にあったんだろうってひと目でわかるくらいの、むごい有様だった」

 思い出したくもない記憶の中にある鈍い色付きは、もしかすると闇よりも暗いかもしれなかった。土の色と、枯れた木の色と、どす黒い血の色ばかりが広がっていたように思う。もちろん、他の色もあったのだろうけれど、印象に残っていなかった。

「そして君は、怒りを覚えた?」

「ああ」

「敵の国はもちろん、自分の国にも」

「ああ。それと、もっと大きなものにも」

「だけど今の君が抱える一番強い感情は、なぜか、怒りではない」

 落ち着きのある少年の声は、これまでと何ひとつ変わっていないはずなのに、冷たい響きとなって俺の中に沈み込んだ。

「お前はなんでも知っているのか?」

「まさか。僕が判るのは、ほんの少しの事だよ」

「だが、まるで俺の心を読んでいるようだ」

「たまたまだよ」

「たまたま当たるような事か?」

「違う違う。たまたま当てたわけではなくて――たまたま、君が抱えるものが、僕に判る事だったんだ」

 ますます訳が判らなくなったような気がして、俺はイ・イルとの会話を断ち切った。ただでさえ混乱気味の頭が、余計におかしくなりそうだ。

 だが、有意義な会話であったと思う心もある。自分だけのものだというのに、はっきりと理解できていなかった感情が、イ・イルのおかげで整理できた気がしたのだ。

「悲しいんだ」

 そう。俺は、悲しかった。八人いた家族が、あっと言う間に半分になってしまった事が。

 四人は戦争に奪われた。その現実に腹を立てた事もあるけれど、怒りを抱える事で爺さんは死んでしまって――だから俺は、素直に怒る事を恐れているのかもしれない。

「君をここに連れてきたものは、悲しみだ」

「ああ」

「ここに来る以外の方法で、癒す事はできなかった?」

 イ・イルの問いに、俺は答えられなかった。

 答えが判らないからではない。答えは判っている。「できる」だ。母親は、父や祖父を失ってからも家庭を支え続けた、たくましい人だった。上の弟も、妹も、笑顔を、素直に泣く事を、生きる意味を、忘れてはいなかった。だから、四人で力を合わせていけば、やがて違う感情に支配される日が来るだろうと、思えた。

 だが、違う。そもそも、イ・イルの問いは、的外れなのだ。

 俺が強い感情の力を借りてここまで来たの事実だ。だからといって、その感情のやり場を求めていたわけではない。もっと根本的な問題なのだ。

 もう、嫌なのだ。

 もうこれ以上、家族に悲しい想いをさせたくない。

 俺はもうこれ以上、悲しい想いをしたくない――そのために、俺はここに来た。創造主に、会いにきたのだ。

「イ・イル!」

 突然、ル・スラが起き上がる。イ・イルの名を叫びながら、小さな雪の粒を飛び散らせるほどの勢いで。

 その飛び散った雪は、イ・イルの上に降りそそぐ。一瞬、炎の色が完全に白に飲み込まれて消えた。

「酷いな、ル・スラ」

 イ・イルは起き上がり、雪の中から炎が生まれる様を俺に見せた。

「僕は別に彼をいじめたわけじゃないよ。傷付けようとしたわけでも。少し話を聞きたかっただけだよ」

 ル・スラは名を呼ぶ以外何も言っていなかったはずだが、弁解しているとなると、イ・イルは何かを感じ取ったのだろう。

 やはり不思議なふたりだと、第三者の気分で――イ・イルの言葉を聞く限り、俺の話をしているようだが――見守っていた俺は、ル・スラが長い髪を揺らしながら突然振り返った事に、ひどく驚いた。

 突然振り返ったからではない。そのくらいで、いちいち驚いていられない。

 少し拗ねたような表情が、とても悲しそうに見えたから驚いたのだ。まるで、そう、まるで、俺の心を写し取ったかのように見えたから。

 ル・スラは小さな手を伸ばし、俺の手を取った。小さな手で、懸命に、俺の手を包み込んだ。

 彼女が何をしたいのか、俺には判らない。もしかしたら祈っているのだろうか。

「ル・スラは、言葉を知らないのか?」

 どちらとも定めず問いかけると、意外にもル・スラが先に応えた。無言で首を振ったのだ。

 否定しているのだろうが、否定になっていないと思うのは、俺の気のせいだろうか。

「知らないわけではないよ。うすうす感じてると思うけど、ル・スラはちゃんと、君の言葉を理解している」

「なら」

「話せないわけでもない。いつものル・スラは、僕とちゃんと会話しているからね」

 俺はイ・イルとル・スラとの間で視線を泳がせた。

 そんな真実を聞かされてしまうと、彼女が口をきけないのは、俺のせいなのではないかと思ってしまう。まったく身に覚えはないと言うのに。

「別に君のせいじゃないよ」

 イ・イルは肩を竦めながら言った。

「いや、ある意味では君のせいなんだけど……そうだな。感情が高ぶりすぎて、言葉が上手く出てこないって経験、ある?」

「ああ」

「そんな感じなんだよ。今のル・スラは」

 やはり、イ・イルの言葉は訳が判らなかった。

 イ・イルとル・スラは、この島の者だ。いわば、常識が俺とは違っている存在だ。何を感じて、どう行動するのか、よそ者の俺が判らなくて当然なのだ。

 判ろうとするからいけないのだろう。はじめから判ろうとしなければいいのだろう。そう考えながらも俺は、理解しようと思考した。

 ル・スラが触れる手は、とても温かいのだ。その温もりは、俺が良く知るものと同じで――海の向こうの故郷で俺を待つ、家族を思い出させる。

 判らない事は、その喜ばしい現実を拒絶してしまう気がして、とても寂しく思えるのだ。

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