第2話

 果実を食べ終えた頃には、俺の体の傷はすべて癒えていた。積もりに積もった疲労も回復しており、体が軽く感じるほどだ。そのおかげか、気力も充実していた。

 俺は立ち上がり、めいっぱい体を伸ばす。

 俺の後を追うように、ル・スラも立ち上がった。悪く言えばしまりのない気の抜けた笑顔、良く言えば見るものの心を和ませる笑顔を浮かべて、俺を見上げてくる。

 風が吹くと、長い髪が俺の腕に絡んでしまいそうだった。ああ、なるほど。この髪の長さも、妙だと思った名前も、今ならば納得できる。彼女は、俺の常識が通じない場所の住人なのだ。

「お前は創造主を知っているか?」

 俺が訊ねるとル・スラは、大きな蒼い瞳を更に大きく見開いた。それから、小さく頷いた。

 知っているのか。なおさら都合がいい。

「じゃあ、創造主のところ……」

 ル・スラは、ふいに俺の腕を掴んだ。細い指に強い力を込めて。そうして俺の言葉を遮ると、俺の手を引き、歩き出した。

 創造主のところまで連れていってくれるのだろうか?

 俺の言葉は彼女に通じるようなのだが、彼女はけして言葉をしゃべってくれなかった。意志の疎通ができているようなのに、一方通行でしかない事実は、少し不安だ。

 しかし、多少の不安に惑わされて、ル・スラの手を払う事はできなかった。彼女は俺にとって、創造主へ繋がる唯一の手がかりなのだから、信用するしかない――それは、さほど難しい事ではなかった。彼女には、恩がある。彼女は俺の体を気遣って、傷を癒す実や飲み物を持ってきてくれたのだから。

 俺はおとなしく、ル・スラの導きに従って歩いた。靴を失った足の裏に柔らかな感触を得ながら、長く続く砂浜を抜ける。遠ざかる波の音に安堵する自分に気付いて、波に飲まれて溺れ死にかけた事実にかなり傷付いていたのだと、今更ながらに自覚した。

 砂浜を越えた先には、森と言ってよいのか、木々をはじめとする緑の密集地があった。みずみずしく、力強く伸びる草木は、風に揺られているだけだというのに、自らの意志で動いているように見えた。そのせいか、侵入者を拒んでいるようにも見えて、俺は一瞬足を止めた。

 だがル・スラは迷わず突入し、草木を分けて突き進む。彼女にそうされると、俺も従うしかなかった。

 森の終わりに近付くと、ル・スラの歩みが速くなった。歩くを通り越して、小走りと言っていい速度で、まるではしゃぐように進む。俺は彼女と共に森を抜け――目の前に現れた一面の白に、愕然とした。

「おいおい……」

 ここは創造主の島だ。俺の常識ではありえない事が、すでにいくつも起こっている。だから俺はもう、「ありえない」という理由で驚かないようにしようと心に決めていたのだが……その誓いはどこへ行ってしまったのか、俺はあまりのありえなさに動揺していた。

 森を抜けたところに広がる白は、雪だった。いや、雪ではないかもしれない。雪に似た別の何かだろうか? とにかく、見た目は雪そっくりで、手で触れてみても、足で踏みつけてみても、やはり雪そっくりの感触だった。

 だが、冷たくないのだ。俺は薄着の上、あちこち破れた服を着ているし、裸足なのだが、それでも寒いとは思わない。ここちよい気温の中にあるというのに、雪は溶け出す様子を見せないのだ。

「なんだこれは」と俺が問いかける前に、ル・スラは雪の中に飛び出して行った。誰ひとりとして踏み入った事のない、汚れなく積もる白に点々と足跡を刻みながら、走り回る。かと思うと、唐突に雪の中に倒れ込んだ。

「ル・スラ!」

 俺が呼ぶと、ル・スラは元気よく手を上げた。転んだのではなく、自ら雪に抱かれる事を選んだのかもしれない。

 ル・スラはすぐに上体を起こした。そして俺に向かって、両手で大きく手を振る。

 無邪気なその様子と、白い雪まみれの蒼い髪が滑稽で、俺は思わず微笑み――微笑んだ自分に驚いて、慌てて表情を引き締めた。

 穏やかに笑っている暇など、ない。

 俺は雪を踏み分けて、ル・スラへと近付く。

 俺が近付いている事に気付いたル・スラは、雪玉をつくり、俺に投げつけて遊びはじめた。大抵は俺に掠める事もなく、雪の中に落ちて混ざったが、いくつかは俺の体や顔に当たった。だがやはり冷たさはなく、軽い衝撃を覚えるだけだった。

 ル・スラのそばに辿りつくと、俺は彼女の腕を掴んだ。何も言わずにそうしたので、彼女は驚いたようだった。立たせようと、俺が彼女の腕を引き上げようとすると、何度も首を振り、拒絶した。

「悪いが、俺はお前の遊びに付き合う余裕はないんだ」

 俺が冷たく言い放っても、ル・スラの態度は変わらなかった。しまいには俺の腕を振り払い、もう一度雪の上に寝転んだのだ。

 あまり彼女の事を知っているわけではないが、こうなっては梃子でも動かないだろうと本能的に感じ取った俺は、深くため息を吐く。いや、実際には、梃子など使わなくとも無理に引きずる事はできるだろうが、俺の目的地へ案内してもらう事が重要なのだ。彼女の機嫌を大幅に損ねるやり方は賢くない。

 俺は、ル・スラの隣に腰を下ろす。もう一度、諦めを交えたため息を吐いてから、冷たくない雪に倒れ込み、上半身も埋めた。

 するとル・スラは、再び楽しそうに笑った。俺の行動に満足したようだ。

 真上を見る。高く、遠くで、空色が輝いている。その中で、白い雲が風に流れ、華麗な色の羽を持つ鳥が飛び回っていた。

 音はほとんどない。時折聞こえるのは、鳥の鳴き声と風の音。それから、ル・スラの笑い声。

 のどかだった。わずかにでも気を抜けば、眠りに落ちてしまいそうなほど穏やかな時間だった。

「ル・スラ! そんなところで何をしているんだい?」

 いつの間にか目を閉じていた俺だが、いくらか離れたところから届く声を耳に入れると、即座に目を開けた。そして起き上がり、声がした方に振り返った。

 雪の向こうに、少年が立っていた。目が覚めるほどの朱い髪と瞳が、まるで炎のように熱い。

 彼が持つ色は、この島でいくらかものめずらしい物を見てきた今、もはや驚くに値するほどのものではなかったのだが、やはりありえないほどに鮮やかだった。間違いなくル・スラと同じ人種だろうと、俺はひとりで勝手に納得する。

「……あれ?」

 少年は俺の存在に驚いたようだった。ル・スラに向けただろう笑みを強張らせ、見開いた両目で俺を見下ろす。

「君、誰? この島の生き物じゃないよね?」

 少年の問いかけに、俺は正直に頷いた。

「海を渡ってここまで来た」

「海? へぇ!」

 俺の返事に、更に驚いたそぶりを見せてから、少年は笑う。

「凄いな。この島がここにできてから、すごく長い時間が経っているけど、多分初めてだよ。外の人が自力でここまで来たのは。意志が強かったのか運が良かったのか知らないけど……うん、とにかく凄い」

 言って少年は、俺に手を差し出した。

 握手を求めているのだろうか? そういった文化には、大きな違いはないのだろうか? 俺は恐る恐る手を出し、少年の手に触れる。

 すると少年は、俺の手を強く握り締めた。握り締めたまましばらくは、微動だにしなかった。

 握手とは少し意味合いが違うように感じる。ならばどういうつもりだろうと、俺が疑いはじめた頃、少年は俺の手を大きく振り回し、そして手放した。

「ル・スラは君に懐いてるみたいだね」

 未だ雪の中ではしゃぎまわっているル・スラを見下ろしながら、少年は言った。

 懐かれている……のだろうか。色々良くしてもらっているし、嫌われているとは思わないが、俺が振り回されているだけのような気がする。

「うん、でも、判るな。ル・スラが君を大好きで、君のそばが心地よいと思う気持ち」

「……俺は判らん」

「そうだろうね。でも、気にするほどの事じゃないよ」

 少年は満面の笑みで言った。

 そう言われると、余計に気になってしまうものだが――少年の笑顔は鉄壁で、崩れそうになかった。

「お前は、ル・スラの仲間だな?」

 短く問うと、少年は首を傾げ、短く考え込んでから頷く。

「大きな意味でなら、多分一緒。でも、細かく言えばまったく違うよ。僕も君を好きだと思うし、君のそばが心地よいとも思うけど、ル・スラほどじゃないからなぁ」

 彼の容姿や言動は、俺より幼い。しかし、「きっと見た目通りの年齢ではないのだろう」と思わせるだけの、確固たる穏やかな強さが、彼の表情には宿っていた。とりわけ、真っ直ぐ見つめてくるようでいながら、どこか遠くを眺めているようにも見える、情熱の色をした瞳に。

 もちろん、普通の場所で彼に出会っていたら、そんなものを感じ取れなかったか、感じ取ったところで気の迷いだと流しただろうが、ありえないものばかりが溢れかえるこの島では、見逃せないものだった。

 しかし俺としても、なんとなく逆らえないまま、ただ見上げている状態は気に入らない。雪を掃いながら立ち上がり、少年を見下ろす。ささやかな反抗だった。

「僕はイ・イルだよ」

 少年――イ・イルは、ル・スラの隣にうつ伏せに倒れ込み、雪に自分の跡を残す。

「ここの人間は皆そうなのか?」

「何が?」

「妙な名前だ」

「名前? ああ、名前、ね」

 イ・イルは雪の中で目を伏せてから、くすくすと声を出して笑う。

「そうだね。君には聞き慣れない音かもしれない。これは、創造主だけの言葉の響きだから」

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