第4話
「そろそろ行こうか」
立ち上がり、雪を掃いのけながら、イ・イルが言った。俺に言っているのだと思うのだが、俺が立ち上がるよりも先に、歩き出してしまう。
俺は慌てて立ち上がった。そうすると、未だ俺の手を包み込んだまま雪に埋もれているル・スラに、腕が引っ張られる形になる。
むげに振り払うには忍びなく、俺はル・スラを引っ張り上げた。俺の力に従って立ち上がったル・スラは、新しい遊びを見つけた子供のように無邪気に、楽しそうに笑った。
俺はイ・イルを追いかけるため、ル・スラと手を繋いだまま歩きだす。彼女が手を放そうとしないから、というのは言い訳で、本当は手放したくなかっただけだ。温もりも、失った弟に良く似た柔らかな手のひらの感触も。
手を繋いでいる間も、ル・スラは自由だった。自分が何かをすると俺が巻き添えになるという当たり前の事を、少しも意識していないようだ。俺は、さくさくと雪を踏みしめる音だけが鳴る静けさに、酔う事ができなかった。彼女は突然繋いだ手を振り回す。かと思えば、突然走り出し、白い雪に乱雑な足跡を残すのだ。俺が支えなければ転んでいただろうと思う状況も、一度や二度ではなかった。
「少し、落ち着け」
そう言いながら俺は、叱りつけるほどでもないちょっとしたいたずらをした弟にしたように、ル・スラの頭を押さえつけるように撫でた。
ル・スラははじめ、嫌そうにじたばたしたが、すぐに楽しそうに笑いだし、おとなしく歩くようになった。それでもやはり、俺の手を放そうとはしなかった。
やがて雪が絶え、俺の目の前に野原が現れる。足首まで覆い隠す程度にまで伸びた青々しい若草が、一面に広がっている。その中でまばらに、白や黄色の小さな花が咲いていた。俺でさえ心が和む光景だ。姉や妹が見たら、喜んだかもしれない。
前を行くイ・イルは突然草の中で足を止め、わずかな時間だけかがんだ。彼の手は、少し悩むそぶりを見せた後、薄紅色の花を摘んだ。
立ち上がったイ・イルは、振り返り、俺たちが追いつくのを待っていた。いや、俺たちを、ではなく、ル・スラを、だったのだろう。
「ル・スラ!」
イ・イルは手にした花を、そっとル・スラの髪にさした。
まるで、夜の海に花が浮かんでいるようだ。
はじめは何が起こったか判らない様子だったル・スラは、やがて無邪気に笑い、俺の正面に回り込む。深い蒼の中に咲く薄紅色を、見せ付けるように。
どう反応すればル・スラが満足するのか判らなかった俺は、ぎこちなく笑いながら頷く。それが気に入らなかったのか、ル・スラが頬を膨らませたので、ごまかすように頭を撫でた。もちろん、花を潰さないように。
「可愛いよって、ひとこと言ってあげればいいのに」
「言えるか」
「そんな、照れなくても」
そう言ってイ・イルは笑ったが、別に照れたわけではなかった。いや、もし、その言葉を言おうと思っても、照れて言えなかったかもしれないが。
見てくれや印象の可愛らしさよりも、もっと違ったものを感じ取っただけだった。残酷な美しさや、儚さといった、曖昧な何か。その正体が判らないうちに、別の適当な言葉を口にする事にためらいがあったのだ。
まだ少し不満があるらしいル・スラのために、俺は足元に咲いていた薄黄色の花を摘んだ。そっと手を伸ばし、薄紅色の花と並んで蒼い髪に飾ると、ル・スラはようやく笑顔を取り戻した。
俺はほっとした。少し、嬉しくなった。
「ところで、イ・イル」
「なんだい?」
「真面目に案内する気があるんだろうな」
「少しくらい余計な事をする心の余裕くらい持とうよ」
イ・イルは大げさにため息を吐き、大げさな動きで俺を茶化す。
言い方はともかく、言っている事はそう間違ってはいないのだろうと思いつつ、単純に不愉快だったので、俺は冷たく返した。
「そんなものを持つ人間がここまで来ようと考えると思うか」
わずかに沈黙した後、イ・イルは困ったように笑った。
「そりゃそうだ」
納得したイ・イルは、俺から目を反らし、ある一点をじっと見つめた。
草花以外何もない平野の先に何があるのだろう。興味を持った俺は、イ・イルと同じ方向を見た。意識して見ると、何かしらの塊の影がぼんやり見えた気がした。
「あそこに何かあるのか」
俺が訊ねると、イ・イルとル・スラが同時に頷く。
「近くで見れば判るよ」
イ・イルは再び歩き出した。俺は黙って従った。ようやく俺の手を放したル・スラは、両手を広げてくるくると回りながら、蒼い髪をなびかせながら、俺の横を進んだ。
近付くにつれて、ぼんやりとした影がはっきりと形をとり、やがて色や細かな様子も目視できるようになる。影がひとつだったのでひとつの物体だと思っていたが、そうではなく、地面に植えられた、俺の背よりも高く伸びる柱の前に、翠の髪を持つ少女が立っていたのだ。
少女は俺たちが草を踏み分ける音を聞きつけると振り返った。ル・スラほどではないが充分に長い、真っ直ぐ伸びた翠の髪を揺らしながら。
やはり、瞳の色も翠だった。間違いなく、ル・スラたちと同類だろう。
優しい色の目は、穏やかな眼差しでイ・イルを見、次にル・スラを見、最後に俺を見ると、少し警戒する様子を見せた。
「リ・マー」
イ・イルは翠の髪の少女の名を――おそらく、名前だろう――呼んだが、少女は警戒を解かなかった。若干身構えた状態で、俺と――たぶん、俺とだ――少し距離を置く。
「そっか。そうだね。君が、三番目だ」
「なんのだ」
「怯えなくてもいいって事は、リ・マーが一番判ってるはずなのに。ここによそ者がいる事自体に怯えてるのかな」
イ・イルは俺の質問に答える事なく勝手にひとりで納得し、それきりリ・マーに声をかけるどころか見ようともせず、彼女が離れる事で空席となった柱の前に立ち、見上げた。
何を支えるわけでもなく伸びる柱には、何か文字が刻まれていた。見た事もない文字で、なんという意味を持つ言葉なのか、さっぱり判らなかった。
「これはなんだ?」
俺が柱を指差しながら質問すると、イ・イルは少しだけ首を傾げる。
「なんて言えばいいのかな。墓標、に近いかも?」
「誰か死んだのか」
「厳密に言うと違う。だから、なんと言っていいのか判らないんだ」
イ・イルは、柱のてっぺんに向けていた視線を、ゆっくりと下げはじめる。何行も刻まれた文字を通り越し、自分の目の高さまで来てもまだ止めずに、草に埋まった、土との境目を見下ろすくらいまで。
彼が見るものと同じものを見ようとした俺は、草の中に、また別の人の姿があるのだと知った。
閉じた目を開ける様子もなく横たわる人物は、華奢だが背が高く、柔らかだが凛々しい、端整な顔立ちをしている。一見したところ女性との印象を持ったが、線の細い男と言われれば納得できてしまうくらいで、確信は持てなかった。
ただ、不思議と、ル・スラたちとは違う人種なのだろうとの確信だけは持てた。どうしてと問われても、理由は言えない。本能的に違うと感じてしまっただけなのだ。
草に埋もれた短い金の髪のきらきらとした輝きが、秋に実る麦の穂の美しさに似ていて、惹かれるように俺はその場に膝を着いた。そうして、立っていた時よりも近付くと、横たわる人物の異常を如実に感じ取る。
確かめるために手を伸ばし、微動だにしない顔の上に掲げる。いかに深く眠っていたとしても、必ずあるはずの息の流れを感じ取る事ができず、俺は少し肩を落とした。
「死んでいるのか」
イ・イルは首を振った。
「微妙に違うと思う。だけど、周りの者にとってはきっと同じだ。もう二度と、動かず、しゃべらないだろうからね」
イ・イルは俺の隣に膝を着く。そして、苦痛に耐えているような表情を、俺に向けた。
「この人が、君の探していた人だよ」
表情と同じ痛みを秘めた、落ち着いた声。
「ここに横たわる、二度と目覚めないだろう人が、創造主だ」
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