第三十四話 楽師の長い旅(7)

「俺を呼べ。体を貸せよ」

 シハルは迷った。物理的に叩き壊せばいいのであればヴァルダに任せれば間違いないが、あの箱を物理的に破壊したところで中身が出るだけである。

「じゃあ、力でねじ伏せて見せろよ」

 シハルの逡巡を察して、ヴァルダはわざわざ意地の悪い言い方をする。手作りの雨師だと聞いていたが、思っていたよりもずっとよくない気配がする。ただ低俗な悪霊をつかまえて箱詰めしたというよりは、気配は神に近い。嫌な予感がした。

 とにかく仕組みはヴァルダと同じくはずだ。何とかして核になっているものを取り出して解放することができれば、雨をとめられるかもしれない。つまり物理的に壊すだけでは足らないわけだ。

 シハルは朱輪を握りしめ、池のように広がる水たまりへと足を踏み入れた。無駄と知りつつ滝のように顔に流れかかる雨を手の甲でぬぐう。

「それでぶん殴るつもりか?」

 なぜかヴァルダはおもしろがるような声を出す。とりあえず中身を確認しないことにはどうにもならない。これだけの大雨を降らせる力を発揮していながら、なぜか中身のことがよくわからなかった。

「そうです」

 どういうわけかヴァルダは「ウハハハ」と下品な笑い声をあげた。何がおもしろいのかまったくわからない。

「シハルさん! 危険ではないですか?」

 隣でリシャルドが叫ぶ。なんと水たまりの中にまでついてきていた。

「大丈夫です。ちょっと箱を壊してから戻りますから。危ないのでさがっていてください」

 そこでシハルは「おや?」と思う。リシャルドはおびえる様子もなく楽器を手にしたまま立っている。シハルと同じようにずぶ濡れであることは変わりないが、動揺は感じられない。これまでシハルが見てきた人々はこういった尋常ならざる事態を避け、遠巻きに見ているのが常だった。

「そばにいますよ」

 薄暗い中だが、リシャルドがにっこりとほほ笑んだのがわかった。すかさずヴァルダが「ふんっ」と鼻を鳴らす。

 ざぶざぶと箱に近づいていくとそれがかすかに発光しているのがわかった。どうりで周りが見えるわけだ。だが相変わらず中身の正体はわからない。嫌な気配だけがする。どこかで感じたことがあるような。もしかしたらシハルの力が弱まっているために重大な事実を感じ取れない状態になっているのかもしれない。本当にこの箱を破壊することで解決するのだろうか。

 朱輪を握る手がぬるりとすべりそうになった。朱輪が、意思があるとは思えない金属の半円が、まるで嫌がるような動きをしている。邪悪なものを察知した様子でもない。ただ近づきたくないとでもいっているかのようだ。

「どうした? 自信過剰なお前にしてはめずらしいな。びびってんのか」

 ヴァルダがくつくつと下品な笑い声をあげているが、とりあえず無視する。

「シハルさん、その箱を壊さないのですか?」

 リシャルドがいる。なぜかあの楽器を胸の辺りまで引きあげていた。不思議と楽器からの敵意が消えている。シハルをじっと見つめているような気配だ。

 もう一度シハルは箱を見てから、朱輪を握った手を振りあげた。その途端、リシャルドの楽器から噴き出すような殺意が発せられた。それはまるで山蛇が小動物を捕食する直前に発するものに似ている。

「やめろ」

 すぐにヴァルダが低く吠えた。まるで楽器の気配を確認するのを待っていたかのようなタイミングだ。あの楽器が自分に何をしようとしていたのか、シハルは気になって朱輪を容赦なく振りおろす。

「やめろって言ってんだろうが!」

 あっけなく箱は砕けて木くずとなり水たまりに沈んでいく。中には大量の札も入っていたが、それもただの紙片にかわり水たまりに消えた。そして予想通り核となる何かが水底で淡く発光しているのが見える。

「それはわたしに言ったのですか」

 てっきりリシャルドの楽器に向けられたものかと思っていた。

「シハル、さがれ」

 めずらしくヴァルダが真剣な声色で吠えた。

 その途端、全身が水に包まれた。雨ではない。まるで水の柱にとじこめられたようだった。そして水の中であるはずなのに、はっきりとあの楽器の弦がはじかれる音がする。

「ちょっと大物すぎるでしょう。残念。せっかく開けてもらってもこれは食べられませんね」

 なぜかあきれたようなリシャルドの声が聞こえる。

 確かに。雨師というには大物すぎた。

 水に体がしめあげられる。この気配は――。

 真正の神、竜神だ。

 しかも自身をぞんざいに扱ったシハルにかなり腹を立てている。その怒りがシハルの体を貫くように襲ってきた。それだけで気を失いそうになる。

 もちろんシハルだって、箱の外からこの存在に気づいていたら殴りつけるなどという危険な真似はしない。どういうわけか、あの箱は巧妙すぎた。額の印さえなんとかなれば、対処できる。だが水の中ではどうにもならない。しだいに息も続かなくなる。意識が遠のいていった。

(殺そう)

 竜神が「言った」。

 人の言葉ではない。神に仕えていたシハルだからわかっただけだ。それはただの神の意思であり、人間に伝えてやるべき何かではない。そのままシハルの体に大きな力が加わった。水がシハルを押しつぶそうとせまってくる。もはや何も考えることはできなくなっていた。

(これはまた――ずいぶんと強力な加護だ。面倒だな)

 突然、シハルは水から投げ出された。水たまりの底に叩きつけられたはずだが、どういうわけか痛みは感じない。

 竜神からはシハルに対する関心がすっかり消えていた。そもそも真正の神にとって無関係な人間などは眼中にはない。

 人でいうなら、虫に嚙まれ腹が立ち叩き潰そうとしたが、潰せなかった。追うのも面倒で放ったまま忘れたくらいの出来事だろう。中には執拗にその虫を潰しにかかる者もいるので、シハルにとっては運がよかったとしかいいようがない。

 まだ朦朧とした意識の中でシハルは竜神の「言った」ことの意味をぼんやりと考えていた。強力な加護とは、つまり殺そうとしたシハルことだろう。実際竜神の力はシハルには及ばなかった。まさかあの村の神がまだシハルを加護しているとでもいうのだろうか。助かったとはいえ、それは非常に不愉快な話である。

「私に神の加護が……」

 シハルはうわごとのようにつぶやいた。

「はぁ?」

 ヴァルダが燐光のようにかがやく青い目でシハルの顔をのぞきこみ「むちゃくちゃしやがる」と、迷惑そうに吐き捨てた。シハルのことか、竜神のことか。おそらくシハルのことだろう。雨はやんでおり、水たまりは消え失せていた。

「シハルさん、大丈夫ですか」

 リシャルドの声がするが、暗闇でよく見えない。するとリシャルドのものらしき手にそっと泥の中から助け起こされる。リシャルドはあのとき「食べられない」と言っていた。竜神を、いや、当初あの箱の中にいるだろうと思われていた低俗な悪霊を食べるつもりでシハルに開けさせたのだろうか。

 ――とんでもない悪食だ。

「当てが外れて残念だったな」

 ヴァルダがあざ笑うかのように言うとリシャルドは「えーっと、まぁ、そうともいえますね」と、気まずい様子でそれを認めた。

「ちょうどいい悪霊も、女の魂も食えなかった。お前のかわいいペットはどうなるんだ?」

 ヴァルダが詰めよると、リシャルドはしばらく黙った。そしてさほど長くはない沈黙の後「あなたは低俗な悪霊というわけではなさそうですしね」と、開き直ったような声で言う。

「そんなことよりもシハルさんの手当てを急ぎましょう。僕の大切な恋人ですから」

「それはもう無効だ」

 ヴァルダが嚙みつくような声をあげた。

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