第三十五話 楽師の長い旅(8)

 当てが外れた。――といえば確かにその通りだが、リシャルドにとっては悪いことばかりだったとはいいきれない。

 長い銀色の髪はまだ湿り気を含んだままシーツの上に無造作に広がっている。ようやく見つけた美しい恋人だ。その髪に指を絡めるたくなるが、そのすぐ傍には小さな犬に似た化け物が番犬のごとくリシャルドを睨みつけていた。

「いつまでここにいるんだ。もう用済みだろ」

「恋人を残してはいけません」

「遊びは終わりだ。見ての通りお前がこのお調子者をのせるからひどい目に遭った」

 よくもまあとリシャルドはため息をつく。ひどい目に遭ったのはこっちも同じだ。箱から竜神が出てくるなど悪夢でしかない。

「僕がいなくてもこうなったような気がしますがね。それにあなたも煽ってたじゃないですか」

 リシャルドは宿屋の主人に借りたシーツの前をかき合わせた。とりあえず雨はやんだので町の人々は安堵した様子である。しかし服はずぶ濡れで、明日の朝になってもこの町を出られそうにはなかった。着替えも限られているので、服が乾くのを待つしかない。

「煽ったのはそっちのヤツだ」

 ヴァルダという化け物は鼻先でリシャルドのギタアを指した。

「そうでしょうか」

 箱の中身をギタアの食事にと考えたのは確かだが、なんの力もないリシャルドには箱を開けることすらできない。思うにあの箱はこのギタアと同じ仕組みのものである。

「――ところで、それは一体何だ?」

 ヴァルダは気色悪いものを見るような調子である。化け物同士でも理解し合うことができないらしい。

「それは僕にもわかりませんが、大事にかわいがってあげないと、近くにいる人間を食らってしまうので仕方ないのです」

「仕方ないことあるか。さっさと捨てろ」

 短い足を踏みならして怒っているが、姿が不格好な小動物であるためなかなか滑稽である。

「あなたこそ、何者なんですか。この子がただの悪霊ではないと言っています」

 リシャルドはそっとギタアの表面をなでる。ずいぶんと濡れてしまったはずだが、いつも通りすべらかだ。その官能的な曲線を指でなぞると、震えるようなよろこびが伝わってきた。

「ただの悪霊でたまるか。格が違うんだよ、格が」

 リシャルドはしばし黙る。

「――そういう意味ではないようなのですが」

 実はギタアが伝えようとしていることの意味がリシャルドにも理解できない。ヴァルダのことを疎んじているのは伝わってくるが、かすかに怯えのようなものも感じられる。格だとかそういう話ではなく、ただ「悪霊ではない」ことは確かだろう。こんな様子のギタアは初めて見る。

「とにかく、悪霊ではないのでしょう?」

「しつこいな」

 ヴァルダはうんざりしたように鼻を鳴らす。実はしつこいのはギタアなのだが。めずらしく何度もヴァルダのことを確認しようとリシャルドをせかしてくる。

「え? 西? 西で、また戦? ――さて何のことでしょう」

 ギタアは唐突にここではない土地のことを訴えはじめた。いつものように一方的に言いたいことだけが流れこんでくる。はたから見ればリシャルドは完全にギタアに取り憑かれている状態ということになるだろう。しかし根が楽観的なのかこの状態がつらいと思ったことはあまりない。恋人が亡くなったときくらいのものだ。だがそれもギタアを空腹にしてしまったリシャルドの責任だと思ってしまうあたり、すでに常軌を逸している自覚がある。

「――そいつはもしかして零落した神か」

 ヴァアルダがふんふんとにおいを嗅ぐような様子でギタアに鼻先を近づける。即座に「寄るな」というギタアの大きな拒絶が鳴り響く。やはり怯えている。

「俺に西の戦がどうとかいう話をして鎌をかけたつもりか。西で何が起こっていようと俺には関係ないね。いや、悪霊らしく西に出向いて死者の魂を食い散らかしてやれば満足か?」

 凶悪な顔に悪霊らしい笑いを貼りつけてこちらを睨みつけてくる。リシャルドが黙っていると今度はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「まぁいいさ。そいつの扱いには気をつけるこった。誰の仕業かしらねぇが、その楽器の形をした箱の中に零落した神をぶちこんだらしい。人でも食らって返り討ちに遭ったのか? ざまぁねぇ。人の魂は食うわ、取り憑くわでもう神だった記憶すらないんじゃねえのか。シハルに頼めばさっきみたいに粉々にぶっ壊してくれるぜ」

「そ、それはちょっと………」リシャルドは心持ちギタアを守るように抱きかかえた。ギタアがいなくなっては生活できない。

 どういうわけかシハルはとんでもない力を持っているらしい。それはギタアの様子からもわかった。ヴァルダに対する怯えとは違う。気になるので近づいてみたいという好奇心と、謎の力を持った人間に対する警戒が混ざり合ったような微妙な様子である。

「零落したとはいえ神であればわかるだろう。こいつの価値が。以前こいつを加護していた神はこいつをずっと手元に置いておきたくて狂っちまったぜ」

 さも楽しそうに笑っている。リシャルドにとってもギタアに対抗できる恋人という唯一無二の存在であるが、どうやらそれだけではないらしい。

「シハルさんはいったい何者なんですか?」

「今やただの呪術オタクだよ」

 間髪入れずそう言って、またバカのように笑っている。そして笑いながらぴょんとシハルが担いでいた大きな箱の上に飛びのった。

「この箱の中、呪物でいっぱいだ。あの竜神入りの木箱にも興味を持っていたみたいだが、中身が抜け出しちゃコレクションにはならないな。まぁ、ただ単純に抜け出しただけですんだのは奇跡だが。あの状況じゃ殺されて当然だ。だからもうよせといっちゃいるんだが聞かない」

 リシャルドは呆然と箱を見つめた。随分と重そうな箱だと思っていたが、よくないものが詰まっているらしいと聞いて少し身を引く。あの竜神が納っていた箱のような危険物が大量に入っているのか。これは一筋縄ではいきそうにない恋人である。だが当然あきらめるつもりはなかった。なにしろギタアと共生できそうな女性に出会ったのは初めてである。シハルを逃したら一生独り身になってしまう。そんなさみしい思いはしたくない。

 それでなくともリシャルドはシハルのことがとても気に入っていた。美しく無邪気でかわいらしい。ギタアのことがなかったとしてもアプローチしていただろう。もう一度眠っているシハルの顔を盗み見る。すべらかな頬にわずかな赤みが戻っていた。せめてもう少し一緒に旅をすることはできないだろうか。この人とチーズやハムなどの他愛ない話をしながら過ごせればどんなに癒されることだろう。世界中のおいしいものをもっとたくさん食べさせてあげたい。

「あきらめろ」

 まるで見透かしたようにヴァルダが言った。もはや笑っていない。

「悪いことは言わねぇ。神と取り合うことになるぞ。そんな零落しきったクソみたいな神が憑いてたところでどうにもならん」

 ギタアからフツフツと怒りが伝わってきたが、リシャルドはその体を抱きとめるようにして抑えこむ。

「じゃあ、あなたは何なんですか。神が相手でも問題ないと?」

「だから格が違うんだよ」

 ヴァルダは先ほどからそれしか言わない。正体不明である。正体が知れてはまずいのだろうか。ギタアのいう「西の戦」とはどう関連しているのだろう。

 確かにきな臭い噂はいくつか耳にした。気の遠くなるほど長い間、平和であった西の大国が乱れつつあるという。内側では汚職や反逆が頻発し、隣国は強大な力を得て侵略される危機にも面しているという。とうに戦さを忘れた人々は戦々恐々と日々を過ごしているという噂だ。危険なのでそちらには近づかないようにしようと思っていたところだ。

「西から来て神に対抗できるほどの力を持った悪霊ですか」

 ヴァルダはまたぴょんと箱から飛び降りる。

「……くだんねぇこと気にしてるんじゃねぇ」

 そう言って不細工な尻尾を振りながら部屋を出て行ってしまった。

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