第三章 ゆたかな村

閑話 峠

「何が『お嫁さんになりたい』だ。自分の立場がわかってんのか」

 またその話か。

 懸命に短い足を動かして前方をちょこちょこと行く犬のようなモノの尻を見ながらシハルは峠道を歩いていた。

 シハルのよく知る山とは樹木の種類が違う。巨木といっても差し支えない木々の隙間を縫うような細い道である。人通りもほとんどないようで、今にも山に飲みこまれてしまいそうだ。大きく繁る葉に阻まれて陽光はあまり届かず、昼間なのに薄暗い。もう少しのぼれば、木々は少なくなり少しは明るくなるだろう。

 峠道といってもそこまで険しい道ではないし、シハルは山道に慣れていた。村にいたころは神事で山に入ることが多かったからむしろ町中より落ち着く。ただその時は神の加護があったため疲労とは無縁だったが、今は前方の犬のようなモノが動いてしゃべるだけで疲弊する。

 ずいぶんとよく動くようになったし、話すことにも不自由がないようだが、かえってうるさいし、口汚くどうでもよいことばかり言う。

 きちんと動物の毛のように見える土色のしっぽが尻といっしょにふりふりと動くさまは悪辣な言葉遣いとは裏腹にかわいらしさすらあった。だがやはり全体的に不細工である。短い足もそうだし、体のバランスも悪い。

 額の忌まわしい紋様を打ち消すという方法を学んだものの、歩いている分には不都合がないのでそのままにしていた。

 ただ空腹は耐えがたい。

「黙ってください。お腹がすきます」

 犬のようなモノ――ヴァルダは凶悪な顔でふりかえった。後ろ姿はともかく顔は狂犬だ。洞のような暗い目の奥に燐光のような青く暗い輝きが宿る。

「『お嫁さんになりたい』だと? あのクソみたいな神から解放されてずいぶん変わったじゃないか」

 本当にしつこい。

 シハルは無言のままヴァルダに歩みよるとその体を抱きあげた。被毛は完全に動物っぽく、手触りもやわらかい。ただ動物にはある温かみというものが皆無だ。まるで死骸のようである。とりあえずシハルが空腹に倒れない限り、割れてしまう心配はなくなったようだ。

「放せ」

 これ以上動き回りながらしゃべられては峠を越えられなくなってしまう。食料はできるだけ温存したい。

 これをまた背負っている薬箱に詰めこんでしまおうか。いや、もし中をひっかき回されたら片付けが大変だ。

 存外おとなしくしているヴァルダを抱えながら少しでも空腹を回避する方法に頭をめぐらせていたため、気づくのが遅れた。

 足先にピリッとした小さな異変を感じる。この感覚におぼえがあり、シハルは辺りを見渡した。

 やはり。

 ちょうど道の両脇に細長い石碑がたっている。建てられてからかなりの年月が経っているようで、立派な苔に覆われ一部くずれかけているところもあった。どうやら誰も手入れはしていないようだ。

 これと似た物がシハルのいた村から山に入る道にも立っていた。ここから先はこの峠に住まう神に気づかう必要があるという印であるとともに神像の一種でもある。人間が通ることを許可はしてはいるが、騒いだり、ふざけたりすれば神罰を下しますよという領域に入る。だが人が入ってはいけない禁域、聖域よりは制限がゆるい。

 シハルは一歩さがると、その場で膝をついた。

「お邪魔します」

 深く礼をしてから、膝行し左の石碑の前でまた礼をする。右の石碑の前でも同様のことを繰り返した。

 本当は何か食べ物を供えるべきなのだろう。村では山に入る前に石碑の前に葉で包んだ餅と香、そして酒を供えた。だがここに食べ物を置いていってしまったらシハルは峠で飢え死にしてしまう可能性もあり、それはそれでご迷惑をかけることになる。

 とりあえず他に持ち合わせている物といったら香くらいである。金雪香を供えて、祝歌(しゅくか)をあげた。特に空気に変化はない。こういった場合、受け入れられたもしくは拒否されたというのが空気で伝わってくるものだが。

 シハルはまた額に触れる。そこまで自分の力が落ちているのだろうか。いや、入ってほしくないという場合はかなり強くあちらから伝えてくるはずだし、それはこちらの力には関係ない。

 とどまっていても仕方がないので腰をあげるが、そこでふと首をかしげる。

 このむき出しの悪霊を持ったままこの結界を越えられるだろうか。越えたとしても出してもらえるのかどうかも不安である。こんな凶悪なモノ、普通の神なら忌避する。そもそもシハル自身が神に仕えるものとして不適格の烙印が押されているのだった。

 この峠の神に不適格だと定められたわけではないので知ったことではないが、どこの何ともしれない元神職者を不快に思う可能性もある。

「うーん」

 シハルは額をなでた。可能な限り厄介事は避けたい。

 神の目をあざむくことは簡単だ。この不適格の烙印を打ち消してしまえばそれでいいし、それ以外にもシハルは神に対して意を通すためのあらゆる手段を持っている。

「でも……」

 シハルはそっと二本の石碑の間に存在するであろう結界に手を伸ばす。

「あまり拒絶されている感じがないんですよね。歓迎されている感じもないんですが」

 確かに指先にはこちらとあちらの境目を感じる。反応がないのはやはり不気味だ。

「何かの罠ですか?」

 指先を動かしながら、シハルは逆の手で抱えているヴァルダを見る。

「これ、どう思いますか」

 しかしヴァルダは黙ったままだ。シハルが意識を失っているわけではないから、聞こえているはずである。

「へそを曲げましたね」

 結界の中に邪悪な気配はなかった。だが初見の神はどんなものか知れたものではない。シハルの認識が正しければここにいるのは古代から存在する真正の神である。その力はその辺の悪霊を祀り上げたものとは次元が違う。

 その辺の適当なものを祀り上げた神がみな悪いということはないように、真正の神がすべて正しいということもない。中には荒ぶる神もいる。

「乱暴をされたらどうしましょう」

 ヴァルダは無視を決めこんでいる。

 シハルは小さくため息をつくと、ヴァルダをゆすりあげて抱えなおした。ちょうどそのときヴァルダの耳がぴくりと動く。何か物音を察知したような反応だ。

 シハルも耳をすます。

「誰か……いますね。人でしょうか」

 草を踏み分けて歩く音が近づいてくる。シハルはそっとヴァルダをおろした。

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