ゆたかな村(1)
どれほど歩いたのかわからない。気づくとまた見覚えのある辺りに出ている。目じるしに木の根元から伸びたひこばえに裂いた袖を引っかけておいたので間違いはない。
まるで自分の心境を表すようにぐったりと垂れ下がっている布切れを見つめ、うんざりしてしゃがみ込んだ。小鳥であろうかわいらしい声が小馬鹿にするように聞こえてくる。
ずっと一本道をのぼり続けたはずなのに、どうして峠のふもと付近に戻っているのだろう。しかもこれで何度目なのかもわからなくなっていた。
「ちくしょう。何だってんだ」
トレッティは峠道の先を睨みつける。もう一度のぼる気力がわいてこない。
地図を見る限りこの峠を越える以外の方法は見当たらないのだ。戻って近隣の村に聞いた方が早いだろうか。あまり足跡は残したくないが、帰りはもっと急ぐことになるだろうからこの峠道では不安である。
暗い道のどこかで鳥が飛び立つ音がした。
夜になったらとてもじゃないが進めない。朝のぼり始めたときは昼過ぎには例の村に着くと考えていたがこの調子ではとても無理だ。
出直した方がいいだろうか。
そんなことをあれこれ考えながら歩いていたので人がいることには全然気づかなかった。
「すみません」
「うわ!」
トレッティは大きく飛び退る。
見ると大道芸人のように派手な衣装を着た人物がいた。衣装は銀糸で縁取られた高価そうなものだが、背中には古臭い箱を背負い、複数の荷物をかついでいる。そして足の短い不細工な犬を連れていた。芸人であれば犬は見せ物だろう。
総じて金は持ってなさそうだ。
だがこんな薄暗い道でいきなり出会ってしまうにはあまりに薄気味悪い人物だった。
「あんた、誰だ? ここで何をしている」
ふもとの方から来たということは峠を越えるつもりだろうか。正直同行者は歓迎できない。それでなくともこちらは若い女というだけでなめてかかられるのだ。
できればこの場を離れたいが、情報は欲しい。トレッティの中で素早く損得勘定がはじまった。
「峠の向こうの村から来られたんですか?」
考えている間に、向こうから問われる。こちらの質問は無視か。
トレッティの中で警戒心がもたげた。何者か名乗りもせずに例の村の話を探ってくるなんて怪しさしかない。
やはり逃げるべきだろうか。いや、長く旅をしているので足には自信がある。できるだけ情報を引き出して、いざとなったらすぐさま立ち去ろう。
「あんたは? 今からこの峠を越えるつもり? もう時間的に無理じゃないの?」
同じく質問には答えない。こちらの状況は知られたくないが、情報は引き出したい。相手も同じだろう。
これは駆け引きになりそうだと緊張の糸が張り詰めてゆくのを感じる。
「無理なんですか」
突然、気弱な声を出すので、一気に気が抜けた。
よく見るとあどけない顔をしている。長身だが、歳下か。仰々しい衣装には似合わない無防備な雰囲気がただよっている。
トレッティは遠慮なく相手の頭のてっぺんから足先までをじっくりと観察した。
胡散臭いことには変わりないが害意は感じられない。少し警戒しすぎただろうか。
「その犬、なんか芸とかやるの?」
足元の犬が気になる。見せ物にするには中途半端だ。人を集めるにはかわいらしさが皆無だし、不恰好で気色悪い以外の大きな特徴もない。
「芸? どうでしょう」
しゃがみこんで犬の背をつついたり、脇をくすぐったりしているが、犬の方は微動だにしない。
主人を無視している。
「そいつ言うこと聞かないの? 全然ダメじゃん。頭悪い犬?」
犬が突然トレッティを見上げた。
こちらが言っていることを理解しているのか、悪魔のような形相で睨みつけてくる。「悪魔のような」というか、悪魔だといわれても不思議ではない。不細工な顔だが、滑稽というよりは異形である。井戸の底のような暗い目の奥にチラチラと不穏な輝きが見えて、夢にでも出そうだ。
「ひっ」
たまらずトレッティは犬から距離を置いた。
「すみません、さっき機嫌を悪くしてしまって……」
トレッティが怯えているのを感じとったのか、その人物は犬を抱き上げた。抱かれた瞬間、短い足がくたっとたれさがり、ぬいぐるみのようになるが、顔とのギャップがひどいため結局気色悪い。
「――それで、村に行くわけ?」
気を取り直して相手を探ることにする。もしかしたらこの峠を越える方法を知っているのかもしれない。
「はい。峠を越えたところにとても豊かな村があると聞きました。見に行きたいです」
またその人物をじっくりと観察する。トレッティはこれまでたくさんの胡散臭い人間を見てきたつもりだが、それでもこの人物はこれまで見たどのタイプとも違って見えた。得体が知れない。本当に害意がないのか、それとも害意を巧妙に隠しているのか。
しばらく腕組をして考える。
違う状況でもう一度この道を行けば何かが変わるかもしれない。もし不都合があっても、あの大荷物であれば簡単にまけるだろう。細長い棒状の荷物が武器ではないかと少し気になるが。
「一緒に行ってやろうか。まだ間に合うかもしれない。もし途中で暗くなったら引き返せばいいし」
「いいんですか? それは心強いです」
子供のようにうれしそうに笑う。
まったく何を考えているのか読めない。村に行って何をするつもりなのか。普通に芸で金を稼ぐつもりなのだろうか。
「では、暗くなる前に急いで行きましょう」
犬を抱えたままいそいそと峠道をのぼり始めたが、突然ぴたと足をとめた。それからトレッティをふりかえる。
「つかぬことをうかがいますが、この峠道で何か不思議なことはなかったですか?」
心臓が跳ね上がる。トレッティが迷子になっていることを勘付かれているのか。
「不思議なことって、なに? たとえば?」
「たとえば……?」
考え込むように首をかしげる。
それから犬を片手に持ちかえて、空いた方の手をあちこちに向けては首をひねっている。指先で何かを感じとろうとしているかのような動作だ。
主人の動きに合わせて犬の足がぶんぶんふりまわされ、凶悪な顔の眉間のシワがぐっと深くなる。
「――峠から出られなくなる、とか」
その人物はちらりとトレッティを見る。
とりあえず黙った。
すぐに話そうとすれば早口になってしまい動揺をさとられる。自身の心臓の音を感じながら、たっぷりと間をとった。
「この道は一本道だけど?」
否定も肯定もしないでおく。
「ところであんた、名前は? 何者なんだ?」
さらに話題も変えておこう。他人に弱みを握られてはならない。
「私はシハルといいます。何者でもありません」
「何者でもないって……普通なんかあるでしょ。どこどこの出身のこういう職業の者です、とか」
シハルと名乗った人物は急に心もとなげに眉根を寄せた。まるでトレッティがいじめているようではないか。
「ま、まぁ、いいよ。いろいろあるよね。あたしはトレッティ。同じく何者でもないわ。ほら、さっさと行くよ」
おかげでこちらのことも言わなくて済む。
ただやはりシハルという人物が何なのか気にはなった。後ろ暗いことがあるから自分のことが言えないのではないか。悪いことをして追われているのかもしれない。面倒ごとはごめんだ。
それに「峠から出られなくなる」という指摘も遠からずだった。正確には峠の向こう側にたどり着かないだけで、引き返すことはできそうだが、何を根拠にそう考えたのか。
引き続き警戒は続けた方がよさそうだ。
歩き始めたもののまたふもとの道に引き戻されるのではないかとそわそわと辺りを見渡してしまう。先ほどとまったく景色が変わらないことも不安だ。
一方シハルは気負う様子もなくしっかりとした足取りで峠道をのぼっている。大きな背負い箱だけではなく、ズタ袋のようなもの、棒状の荷物、それから不細工な犬を抱えているのに苦になっている様子がない。
犬がときおりトレッティの様子を監視するように目を向けてくる。仕草が人間っぽくて本当に気色悪い犬だ。
「そろそろ峠ですね」
シハルが道の先を指差すのでトレッティは思わず「ええ! うそっ!」と、声を上げてしまった。
目を凝らすと確かにどこまでも続くと思われていたのぼり道の先に空が見える。そこから下りの道になるということだ。深い森のようだった周りの景色もいつの間にか見通しがよくなっている。
どういうことなんだろう。
トレッティはふもとの周辺を何周したか記憶すらない。確かに一本道だったのに。
動揺しているトレッティを相変わらず犬がじっと見ている。何か文句でもありそうな顔だ。
「思ったよりも早く着きましたね。あとはおりるだけなので楽です。日暮れには間に合いそうですよ」
シハルはトレッティが驚いている理由を予想より早く峠に着いたためと誤解しているようだ。誤解してくれているなら否定する理由もない。
「あんた、ずいぶん足が丈夫なんだな」
誤解を補強するためのトレッティの言葉にシハルはうれしそうに笑った。本当に反応が子供のようだ。
視線を前に戻すとちょうど頂上の付近で何かが動いていた。動物だろうか。トレッティは目を見開く。
「あれ、あそこに誰かいる」
村の人間だろうか。
これは困ったことになった。村の住民に見つかりたくはない。だがここで引き返せばすごく怪しい。
どうしようかと首をめぐらせていたところで、またあの犬と目が合った。いや、合っているのか確信がないがこちらを見ているような気がする。
トレッティは大きく舌打ちをした。
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