第2話 夢枕の棋譜指南
彼の外見は安心感を覚えた。
供養屋の依頼を受けて、いつもの改札に現れたのは大学生くらいの男の子だった。僕はどちらかというと人見知りする方だが、彼からは攻撃性を感じなくて、どことなく安心する。
ひょろりとして、清潔感のあるストライプのシャツをあっさりと着ている。縁の太い眼鏡が、野暮ったさよりもファッショナブルさを醸し出して、穏やかな瞳と合っていた。
「祖父が死んだんです。半年前に」
「それは、ご愁傷様です」
僕の行きつけの喫茶店で向かい合って、僕はバニラの、彼はチョコのアイスクリームを突いていた。
彼の名前は山形誠。僕はミヤジマと名乗っている、自称「供養屋」だ。消せない思い出、振り切れない後悔、そうしたものを物語にして昇華する、思い出を供養する者という意味で名付けた。
原則、お金は材料費などの必要経費だけもらっているため、仕事ではない。だから供養屋は職業ではない。
打ち合わせのときの飲食代は必要経費に含めてもらうことで、僕は少しだけ値の張るこの店のアイスクリームを心置きなく食べられる。そしてそれが、供養屋として物語を紡ぐ対価の代わりだと思っている。
それだけが対価だと思っているわけではないのも、たしかだけれど。
「元々病気を患っていて、危ないと言われたときには乗り切りました。でも、家族が油断した拍子に亡くなってしまったんですよね」
彼は悲しむ様子もなく飄々と語る。半年も前で高齢の祖父ならば、覚悟はその遥か前にしていたのだろう。今さら悲しむことではない。
だが、全て整理されているならば、供養屋には来ない。
「あの、僕は供養屋を名乗っていますが、死者の霊を弔うようなことはできませんよ?」
「ああ、すいません。そういうことではないんです。降霊術で祖父に会いたいとかいうわけでもありません」
誠君はポリポリと頬を掻いた。
「その、定番なのですが、祖父と最後に交わした言葉が引っ掛かってしまって。祖父は亡くなる直前、ちょっとした風邪を引いていたんです。もちろん、それが文字通り命取りになることもわかっていましたが、まあ、そんな風邪なんかで死にかけるなんて、弱っちいね、って言っちゃったんです」
僕の手元にはボイスレコーダーがある。ランプの色を確かめた。ちゃんと録音中になっている。
「軽口ですし、それで祖父が怒るとは思いません。冗談が通じる人でしたし、孫には甘い人でしたから。でも、怒りはしなくても悲しませてしまったのかな、なんて思ってしまって」
誠君の顔は笑っている。悲しんでいるのか悔やんでいるのか、それとも自分の失敗を嘲笑しているのかはわからない。悲しみながら笑うことはできるし、怒っているのに笑う人もいる。供養屋として、様々な人間に出会って来たけれど、そこまで見抜けるほど僕は人間というものに通じていない。
「上手く言葉にできないのですけど、夜一人になると、なんだかなあ、って気持ちになってしまって。供養屋さんのウェブページに書いてあった、『思い出、供養します』ってキャッチコピーを見て、そういうことなのかなと思ったんです」
僕は頷く。解釈は人それぞれだと思うけれど、だいたい僕が思い描いた通りの意図が伝わっている。
「おじい様と、仲が良かったのですね」
「そうですね。よく将棋をしました。僕もそれなりに練習したし、アマチュア二段くらいはあるつもりなのですが、全然勝てませんでした。強かったなあ」
彼はスマートフォンを操作して、僕に写真を見せた。
「祖父です。三年前くらいの」
痩せた顔で、眼鏡を鼻に引っ掛けて大口を開けて笑っている男性が映っていた。細く、節くれだった手は、僕よりも力強いのではないかと思わせる皺が刻まれている。
「よく似ていらっしゃいますね」
「いろいろな人から、そう言われます。祖父にそっくりだって。父からは、将棋の指し方まで似ていると言われました。僕としては、祖父ほど豪胆ではないし、あんなに晴れやかに笑える人間ではないと思っているのですがね」
そうだろうか。彼が声を上げて笑うと、周囲の空気を和ませるような気がする。口元は違うが、目元の印象がそっくりなのだ。
「あなたには、人を安心させる才能があると思います。おじい様もそうだったのかもしれません」
「ああ、祖父はそうですね。いわゆる人たらしというか、どうしてか、人が集まってくるんです。商売が上手くいったのは、周りの人たちに助けられたからだ、と何度も聞きました。それを受け継いでいるとしたら、嬉しいですね」
アイスクリームを食べ尽くし、冷えた口の中をコーヒーで温めた。僕はこのときのコーヒーが一番美味しく感じる。
誠君は、祖父との別れ方が納得できなくて、半年経った今も心の棘になっているようだ。仲が良く、似た者同士であったからこそ、祖父の気持ちがわかるのかもしれないし、愛情もあるのかもしれない。この件は、供養屋として引き受けられる。
「改めまして、ご依頼を承りたいと思います。もう少しお話を聞かせてください。そうですね。おじい様が亡くなった当日の様子など、いかがでしたか」
僕がじいちゃんの訃報を聞いたのは、バイト先の居酒屋だった。シフトまたぎの休憩時間、スマートフォンには母からの着信が五件入っていた。
急いでかけ直して、病院で祖父が亡くなったと知った。僕はバイトを早退し、喪服用のスーツとネクタイを持って電車に飛び乗った。
特急列車を使っても実家までは遠く、最寄り駅に着く頃には終電ギリギリだった。駅には妹の車が停まっていて、窓から顔を出して手を振っていた。
「いつの間にか死んでいたらしいよ。看護師さんも気づかないうちに、ほとんど老衰みたいな死に方したんだってさ」
妹は淡々と語る。冷たいとは感じなかった。身内が死ぬのは初めてだが、覚悟していた別れであったせいか、大きな悲しみは感じなかった。
ただ、将棋の腕で追い越せなかったことだけ、僕の頭には浮かんでいた。
「それは、苦しまなくてよかったな」
「そうだね」
何を話せばいいのかわからなかった。何を話しても、今ではない気がした。
実家は暗くなっていた。妹がリビングの照明をつけると、いつもの実家だった。こんな時間に帰ったことがないから、妙な気分になる。
「お母さんたちはもう寝ている。今日はバタバタしていたし、明日は忙しくなるから。明日は通夜で、明後日は葬儀。ああ、日付変わっているから、もう今日だね」
「そっか」
「客間に布団敷いといた、使って」
「ありがとう」
シャワーを浴びながら、現実感の無さに戸惑う。人が死んだと聞かされて、既に受け入れ始めている自分がいた。
多分、実感するのはこれからだろう。死体と対面し、儀式が進む過程で少しずつ腑に落としていくのだと思う。きっと。そうでなければあまりに呆気ない。
僕が死ぬときに、「亡くなった」という一言だけで済まされたくはない。
その日は涙も出ず、移動の疲れもあってすんなり眠りに入れた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
じいちゃんが住んでいた家は、僕の実家ではない。父さんの生家にあたる家にばあちゃんと二人で住んでおり、今はばあちゃんだけになっている。じいちゃんの遺体も、今はそこにあるらしい。
朝になって、僕は持ってきた服を適当に着てばあちゃんの家に行った。喪服を着るのは明日でいい。
玄関に手をかけるとそのまま開いた。相変わらず防犯意識がない。奥からはテレビの音が聞こえる。
「こんにちは」
声を上げると、男が出てきた。父さんに雰囲気が似ている、叔父の信二さんだ。
「誠君か。大きくなったな」
「もう成人しているんでね」
「そうか、そんな歳か」
信二さんは父さんの弟にあたる。今は東京で仕事をしているらしい。業種は知らない。
「信二さんも昨日帰ってきたの?」
「ああ、急いで帰ってきたよ。喪主は兄貴だけど、俺がサボっていいわけないからな」
「男手がいるだろうからって、僕が先に来たんですけど、どうですかね」
「ああ、助かるよ。葬式自体はセレモニーホールでやるんだが、数日間はこの家に祭壇を立てるんだ。拝みに来る人が沢山いるだろうからな」
僕は信二さんと白黒の幕を張ったり、大きな木製の祭壇を組み立てたりした。ばあちゃんは、ずっと電話を掛けている。ちらりと様子を覗いたら、分厚いノートをめくりながら一軒一軒掛けているようだった。なんとなく、祖父の人生が想像できた。
「あまり、すぐにこういう話をするのはどうかと思うんだが、誠君もすぐに大学に戻るだろうから、相続の話をしなくちゃいけない」
作業がひと段落ついて、信二さんと僕は適当にお茶を淹れ、適当に茶菓子を摘まんでいた。
「相続って、父さんと叔父さんでやるんじゃないんですか」
じいちゃんの子供は二人で、それが僕の父である健一と、信二叔父さんだ。どちらも健在なので、法的にはその二人に相続されるはずだ。
「まさか、じいちゃんに隠し子がいた、とか」
「それはないな、さすがに」
叔父さんは控えめに笑った。父さんと比べて、鋭いというか、知的な印象を受ける。
「遺言状があったんだよ」
「遺言状?じいちゃんからですか」
「母さん、誠君にとってはお祖母さんも知らなかった。俺が昨日帰ってきて、いろいろと整理していたら出てきた。手続きするべき保険証券や株式があるんじゃないかと思っていたが、まさか遺言状とはな」
「何て書いてあったんですか」
「まだ見ていないよ。ああいう物は、関係者が揃っている場で開けるものだ。それに、兄貴と君宛てなんだから」
「僕ですか」
信二さんは肩を竦めた。
「どういうわけか、君に特別伝えたいことがあるみたいだよ。ま、親父は君のことを一番気に入っていた。顔も性格もそっくりだし、親父に良く懐いていたからな」
楽しそうに叔父さんは言うが、僕は何が書いてあるのか想像がつかなかった。これは気になる。
「不謹慎かもしれませんが、早く読みたいです」
「そっちの一家が揃うまで待ってくれ。勝手に開けたら兄貴に怒られちまう」
その日の午後七時、早めの夕食を終え、これから交代で火を絶やさないように番をする、そんなとき。父さんが立ち上がり、言った。
「遺言状を開けよう」
僕はスマートフォンで簡単に調べていたことを補足する。
「一応言っておくけど、弁護士が立ち会って書いたものじゃないと、遺言状は法的な拘束力を持たないよ」
ばあちゃんが関係者に片っ端から電話していたが、そうした弁護士は名乗り出なかった。そのことから、この遺言状には力がない。
「そうなのか。ううん、どうしようか」
「とりあえず開けてみたら?」
妹が無責任さすら感じる声で言った。
「それもそうだな。内容によるか」
親父も納得し、下手な字で「健一へ」と書かれた封筒を開けた。
「字、汚いな」
思わず突っ込んでしまい、あちこちから笑いが漏れた。
「親父は悪筆だったからな」
「お兄ちゃんと同じじゃん」
そんなところまで似ているらしい。
「健一、何て書いてある」
ばあちゃんが急かす。
「待て待て。読むの大変なんだよ。ええと、大した家柄じゃないが、基本的に財産は本家筋の健一に譲る。大した家柄じゃないって、遺言に書くなよ」
僕は思わず笑ってしまった。じいちゃんらしい。たしかにこれは弁護士に預けるものではなさそうだ。
「重要なものは金庫の中。番号はばあさんが知っている。ばあさんが耄碌して忘れていたら、健一と信二の誕生日が手掛かりだ」
「耄碌するには、十年ほど早かったね」
ばあさんが電話機の横からメモ帳を千切ってサラサラと番号を書いた。
「ほら、これだ。あんたのいいようにしな」
父さんはメモ用紙を受け取って、遺言状に目を落とした。
「ええと、本来なら健一と信二で半々なのだろうが、健一の方が養う家族が多いので、健一が相続するように。なお、俺が死んだときに信二が結婚相手を連れてくるような天変地異が起こった場合は半々にせよ。天変地異って、信二、父さんに何を言ったんだよ」
「天地がひっくり返っても結婚しないだろう、って言った」
「それで天変地異か。ええ、それで、家族のためなら、売ろうが捨てようが構わない。健一の思うように扱え。ばあさんを頼む。以上だ」
はあ、なるほど。じいちゃんらしい。
とはいえ、信二さんにとっては損な内容なのだが、どうするのだろうか。これは従う義務のない遺言状だ。
「親父の遺志を尊重して、俺は相続権を放棄するよ。いつ海外に行くかわからない生活だしな、ある意味好都合だ」
「そうか」
祖母ちゃんの意見は、と思って見やると、泣いていた。今のどこに泣く要素があったのかと驚いたが、たしかに僕も、あまりにもじいちゃんらしくて、まるでじいちゃんが語っているような気がした。
それが、もう戻らない声であることも、一緒に思い出していた。
「次を読もう。誠宛てだ。これは短いな。将棋盤と駒を誠に譲る。ああ、まったく、あの人は」
父さんが目を押さえた。僕は笑いだしてしまった。わざわざ遺言状なんて大袈裟なものを用意して、その内容が将棋盤を譲る?
気づけば僕は泣いていた。とめどなく涙が流れ、じいちゃんとの思い出が詰まった将棋盤を抱えて声を上げていた。
内容はジョークのようだけど、僕にとっては何より嬉しい相続品だった。僕はじいちゃんが大好きだった。そして、じいちゃんも、そんな僕のことをよく知ってくれていた。
そのとき、前の正月休みに会った際、交わした言葉が思い出された。
「そんな風邪なんかで死にかけるなんて、弱っちいね」
「お前が勝つようになるまで死なん」
あのときも、僕は将棋で負けた。強いじいちゃんが、風邪なんかで死ぬわけがないと思っていたし、本当に、僕がじいちゃんより強くなるまで生きていると信じていた。
どうして最後の言葉があんな無神経なものだったんだ。
最後まで泣いていたのは僕だった。
葬儀が終わり、僕は実家の客間で眠っていた。
葬儀というものは、随分と仰々しく、形式ばった時間のかかるものであると知った。あっさりしすぎると、死を実感できないのかもしれない。
親戚や弔問客に囲まれて休まらなかったためか、気づかないうちに眠ってしまっていた。
「おい、誠」
僕を呼ぶ声に気付き、そこで自分が寝入っていたことがわかった。
誰だろう、何時だろう。目を開けると、布団の傍に足が見えた。視線を上に遣ると、いたのはじいちゃんだった。
「誠、悪いな。死んじまった」
「夢枕に立つってやつだね」
「そんな言葉、よく知っているな」
じいちゃんは胡坐をかいて座り、僕は体を起こした。向かい合って座ると、間に将棋盤があるような気がしてしまう。
「お別れだ。最後の挨拶にと思ってよ」
見慣れた屈託のない笑顔でじいちゃんは言う。
「僕でいいの?父さんとか、ばあちゃんとか、言うことあったんじゃない?」
「そりゃあ大丈夫だ。全員回って、お前が最後だ」
「あ、そうなんだ」
妹より後だったのか。まあ、死者にとってその辺の細かい順番なんてどうでもいいか。
「じゃあ、最後の言葉を伺いますよ」
「おう、心して聞け」
僕は慇懃にふざけ、じいちゃんはわざとらしく咳ばらいをした。
「実は心残りがあった。お前、最後に俺に言った言葉、あれはちょっと弱った人間に言うには優しさが足りないぞ」
「ああ、やっぱりそうかな」
「祖父として注意しとかんと、と思っている間に死んじまったもんだから、言えずじまいだった」
「その節は大変失礼いたしました」
「ま、気にしてないけどな。冗談だとわかっているし。それに俺も、まだ死なないと思っていたんだよな」
じいちゃんは太ももをボリボリと掻いた。照れているときの癖だ。僕たちはこうして、真面目な話をするのが苦手だった。だからおどけて、冗談に混ぜて本心を伝え合う。
「ま、なんだ。お前はもう自分で考えられるし、俺にはもう何がなにやらわからん時代だしな、大したことも言えん。せいぜい、体には気を付けろよ。そういえば、将棋盤と駒な、あれ、百万円で買ったいい物だから、お前にやるよ。父さんには内緒な」
「百万円⁉」
じいちゃんは悪戯っぽく笑って親指とひとさし指で輪をつくった。
「意外とお金持ちなんだ、俺は」
「それは薄々気づいていた」
「ああ、言わないといけないことがあったんだ。忘れるところだった。お前な、攻め時だと思ったらすぐに攻め込むの、良くないぞ」
「え、何の話?」
「将棋の話だ。俺がわざと作った隙に素直に踏み込んでくるから、こっちは捌きやすかった。じっくり、自分のペースで攻めてみろ。それで強くなる」
「それ、生きている間に言ってよ」
「悪いな。死ぬまで孫に尊敬されたかったんだ」
そう言って、じいちゃんの姿は消え、僕は再び夢の中に戻った。
死んでも変わらないんだな、あの人は。
翌朝、僕は大学に戻るつもりで荷物を整理していた。
「誠、ちょっと来てくれ」
父さんの声がして、作業を中断してリビングへ行くと、床に書類や箱が散乱していた。
「どうしたの」
「形見分けだ。欲しいものがあったら持って行け。信二のやつ、遺言だからって何も持って行かずに帰りやがった。これくらい、罰は当たらないってのに」
今になって思うと、父さんの口調は明らかにじいちゃんの影響を受けている。血を継いだのは、僕だけじゃない。
「でも僕も将棋盤貰うし、それでいいんだけど」
「じゃあ、とりあえずそれ持って帰れ」
ダイニングテーブルの上に置かれた盤は、傷と凹みだらけでとても値が付きそうには見えなかった。元が良くても、今売ったら二束三文だろう。何が百万円だよ。じいちゃんらしい冗談だ。
「持ち運ぶには大きいな」
郵送した方が良さそうだ。盤の隣に紙が散らばっていたので目に入る。住所のようなものが並んでいる。
「これは?」
「ん?ああ、それは不動産の権利書だ。ばあちゃんの家とか、畑とか、山とか。そういや、東京の土地もあったぞ。昔の商売の名残だろうな。土地が欲しいのか」
「いや、いらないよ。固定資産税なんて、学生のうちから払いたくない」
手を合わせて帰ろうかと思った僕の目に、あるものが留まった。
「これ、貰っていいかな」
「そんなものでいいのか」
「意外と、今でも格好いいかもよ」
僕は縁の太い眼鏡と、そのケースを手に取った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「この眼鏡、ですか。これは僕が自分で買った物なんですけれど」
誠君は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「物語なので。そうやって突っ込みを入れてくれるくらいがちょうどいいんです。現実をそのまま描写するだけでは、それは日記になってしまいます」
「それはそうですね。面白がるくらいが、丁度いいのか。祈るだけが供養じゃありませんもんね」
供養とは、食べ物を捧げたり火を焚いたり、何かを伴って冥福を祈る行為だ。ときには笑い声や踊りだって供物になる。
供養する思い出に捧げるものは新しい思い出だと思う。こうして、現実との違いを楽しんでもらった思い出が供物になると、僕は自信なく信じている。
「物語の中で叱ってもらえるとは思わなかったですね。てっきり、気にしていないと言われるとか、死ぬ前に話す機会が訪れるとか、そういう展開かと思っていました」
それも考えたが、話を聞くうちに、こっちの方が誠君のおじい様のイメージに合っていると感じた。真面目で感動的なやり取りが苦手な人だっているし、そうしたやり取りが似合わない関係性だってある。
たとえ改まった場でなくても、本心が通じ合う人たちはいるのだから。
「うん。これでじいちゃんに叱ってもらったことにします。なんだか、本当に言われたような気がしてきました」
誠君は本を閉じて、そのまま手を合わせた。
そのまましばらく、無言の時間が流れた。僕はコーヒーを啜り、空いたストロベリーアイスの皿を眺めて待った。
やがて誠君は「さて」と言って目を開けた。
改札で見送って、僕は上着のポケットに両手を突っ込んで家へと歩く。
彼は気づいただろうか、それとも僕の考え過ぎだろうか。
遺言状は誠君と父の健一さんに宛てたものがあった。それだけしかなかった。なぜ叔父の信二さんへ宛てた遺言状は無かったのだろう。
妻である誠君のおばあ様にも、妹さんにもなく、なぜ健一さんと誠君だったのか。それはおそらく、男子だからだ。
遺言の内容は相続に関することばかりだった。おばあ様は、普段から話していたから、もしくは財産は男子が継承するものだとおじい様が考えていた、と解釈できるが、どちらにしても信二さん宛てが無いのはおかしい。
普段は東京で働いているため、近くで住んでいる健一さん以上に話しているとも考えにくい。
おそらく、誠君への遺言状はイレギュラー。本来は健一さんと信二さん両方に遺言状を書いていた。
健一さんの遺言状に書かれていたという、「基本的に財産は健一に譲る」の文面。基本があるなら例外がある。それは将棋盤のことではなく、信二さんの遺言状に書かれていたとは、考えられないだろうか。
信二さんは先んじて遺言状を発見していた。自分のものを処分することは容易い。そこに何が書いてあっても、家族に知られることはない。
おじい様は悪筆だった。遺言状を誰より先に読み、外側の封筒だけを信二さんが偽装したものと入れ替えても、ぱっと見の筆跡だけなら誤魔化せた可能性はある。何しろ、家族ですら読解に苦労するほどなのだから。
僕が考えた流れは、おじい様は生前、信二さんの仕事で発生した不良債権を買い取った。遺言で、それを信二さんが相続するように書き残していた、というものだ。一族のものではなく、信二さんの失敗によって生じたものは、健一さんではなく、信二さんが背負うべきものだと考えてもおかしくない。
東京の土地の権利書があったと健一さんは言っていた。過去、おじい様が事業を展開していたとしても、遠く離れた東京の土地は資産として浮いている。それが怪しいと思う。
信二さんはそれを相続したくなくて、自分への遺言状を握りつぶした。
だが、普通はそれをする必要がない。
通常の債権ならば、おじい様が買い取った時点で、おそらく信二さんの損失はほとんど補填されている。相続税や固定資産税がコストだとしても、そもそも価値が小さい資産にかかる税は僅かだ。相続した後、安くても売ってしまえばいい。損にはならない。
ここからは完全に推測だが、信二さんが入手した東京の不動産は、後ろ暗い、犯罪行為が関わっている物件である可能性がある。
自分がそれに関わっている可能性を、微塵も疑われたくなかったのだろう。あたかもおじい様が元から所有していたように健一さんに思わせ、信二さんから切り離そうとした。世代を経て、誰も真実を知らないときまで封じ込めるために。
それが正しければ、健一さん、そして将来の誠さんは、知らずに爆弾を抱え込んだことになる。
具体的に何なのか、可能性が多すぎてわからない。そもそも、僕の推測が全て間違っているかもしれない。いや、きっと間違っているだろう。
記憶の底に埋まり、二度と明るみにならず消えていく悪事があっても、僕は非難しない。全てを明らかにすることが幸せにつながるとは信じていないし、僕は探偵でも警察でもない。物語を紡ぐ供養屋だ。
思い出、供養します。
それが、死んだ思い出ならば。
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