第5話 雨、喧嘩
真夏の蒸し々とした空気がまだ残る夜七時過ぎ。湿気を含んだ重い空気に厚く暗い雨雲が急にビルの間から顔を出した。
パンっと勢いよく音がして、一呼吸遅れて衝撃が私の頬を襲った。
手のひらで頬を叩かれたのだということはさらにその後で分かった。
痛みはない。叩かれた場所は少し痺れているだけだ。
それが、相手に手加減されたものだとわかるのにまた数秒。思わず私は口にしていた。
「あ……ごめんなさ」
「謝らないでください!」
顔を真っ赤にして、彼女は叩いた右手を左手で握っている。セミロングヘアーの、線の細い女だ。地味なスーツに釣り合いの、地味だが清楚な雰囲気を纏っている。
一方の叩かれた私は、同じスーツでもブランドもの、長い髪をアップにして華やかなスカーフを首元に巻いた姿だ。
『修羅場かな……』という小さな声が通りすがりのから聞こえる。
ええ、そうですよ。修羅場です。
しかしおかしな構図だろう。駅前で二人の若い女が向かい合っていて、叩かれた方の女──つまり私だ──の方が謝っている。
「謝らなでいください……私が、いっそう惨めになります」
震える声で続ける彼女の眼差しは、私から足元へと落とされている。
「彼が、あなたとそういう関係だったなんて……知らなかった私も悪いんですから」
その視線の先のアスファルトに、ポツリと大粒の雨が落ちた。
ザアァッと、あっという間に視界も曇るほどの大雨だ。駅前にいた人々はそれぞれに駆け出している。私もそうしたかったが、まさか私を叩いて泣きそうになっている女を前にして逃げ出すわけにも行かない。
「いや、その……関係なんてほどのものじゃ……彼とは一回きりの……」
「また会う予定だと、彼からは聞きましたが?」
──あのバカ男が……っ!
心の中でだけ罵倒して、私は彼女を少し意外な気持ちで見やる。男にそんなことを聞ける勇気がこの女にあるとは思わなかった。彼女を偶然知ったのはつい最近。彼女の勤め先のあの男のことを知ったもはほんの数日前だ。私から確かに男を誘った。けれどそれは、本当に遊びという気持ちで……。
「それは、誤解だ。彼とは付き合うでも続けるでもなんでもない。私は……」
「あなたは……っ、私とのことが遊びだったんですよね!?」
激しい雨音をかき消すようにして、彼女が叫んだ。
衆目も私もびっくりだ。
彼女に、私の、付き合ってたった一週間の彼女にそんなことを口にする勇気があるなんて。しかも衆人環視の中で。
地味でおとなしくて、目立たない。けれどかわいいなと、そう思ってもの慣れない風の彼女をバーで口説いた。たまたま職場が近くらしいと分かってから意気投合し、趣味のこと、仕事のこと、話ははずんだ。その場で付き合おうという話になった。一緒にランチの約束をして、数日後に彼女の上司という男とそのランチでたまたま一緒になった。
悪い癖が出た。
私は男も女も大好きだ。
つい、……私用の方の名刺を渡した。その夜にはその男とベッドインしていた。彼女とは、触れ合うようなキスを出会った日に一回したきりだけだったというのに。
呆然とする私は彼女の言葉を止める術を持たなかった。阿呆のように立ち尽くす。そんな私に、髪は濡れ、持っていた地味なバッグを濡れたアスファルトに落として彼女が叫ぶ。
「けど、私は諦めませんから! あの人から……あなたを奪ってみせます!」
彼女は拳を握りしめる。雨に濡れて彼女の瞳から涙とも雨ともわからぬ大粒の透明なしずくが溢れた。真っ直ぐに見つめられた。
そこで初めて、私は本当に彼女に恋に落ちたんだと思う。
気づいたら、彼女を抱き竦めていた。ヒールの高さ分、数センチ私のほうが今は背が高い。肩と腰を抱きしめて、雨音に消されぬように雨で濡れた彼女の耳元へ囁く。
「本当に、ごめん」
「……許しません」
震える声が固くなった身体越しに雨に溶けるように聞こえる。逃げない彼女に望みを託して細く柔らかい身体を抱き締めた。何人分の連絡先を消したら彼女は許してくれるだろう、そんな事を考えながら。
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