第6話 アタシノ好キ二シ〼


「あんな男!!」


マガレイトに髪を結った令嬢は家に帰るなり足音をどすどす鳴らして、鞄を女中に投げつけた。もろに顔に鞄をくらった女中はさらに命令を受けた。


「お茶!さっさと持ってきなさい!」


彼女は部屋に入るなりドアを壊す勢いでバシッと閉めた。


裾に白い線を引く臙脂色の袴を雑にほどき、薔薇柄の銘仙を脱ぎ捨てる。


「何がいつもハイカラに決めて可愛いよ!毎回毎回同じセリフ!」


ツツジ色のリボンを引きちぎり、マガレイトを荒々しく解く。


「何がマガレイトが似合ってるよ!!他の子にも言ってるくせに!」


怪獣が暴れるがごとく、全てを脱ぎ捨て、肌着姿で彼女はベッドに突っ伏して大声で鳴いた。家中響き渡る鳴き声に、下人達は「ユリア様が…」「これまた激しいこと」と心配そうにささやきあった。

わあわあ泣きわめいている所を、女中が紅茶一式を銀の盆に乗せて現れた。


「紅茶をお持ちしました。ユリアお嬢様」


「その名前で呼ばないで!もうユリアはやめたの!汚らわしいあだ名はもう捨てたの!」


ユリアを捨てたという令嬢はさらに鳴いた。女中は慣れた様子で、丸机に紅茶を置いて、温めておいた陶磁器のカップに高々と注いだ。


「では、ゆり子お嬢様。紅茶をお入れしました」


「どうして緑茶じゃないの?西洋かぶれの紅茶なんて!」


長い髪を振り乱して、泣きはらしながら鬼の形相でゆり子は女中を睨んだ。

髪が少年のように短い女中はさらりと返した。


「お嬢様がお気に入りと申されてましたから」


「私がそんなこといつ言ってたの!?何時何分何秒?地球が何回転した時!?」


「まあ、お嬢様ったら博識」


「バカにしてんのね、のぞみ!」


「ボクは、のぞむ、ですよ。ゆり子お嬢様」


「どっちでもいいわ!」


「ユリアお嬢様」


「ぶっ飛ばすわよ!」


「ヤクザお嬢様」


「うるさいわ!!あんたなんかにあたしの気持ちがわかるもんですか!!」


顔を真っ赤にして、またユリアもといゆり子はまたわあわあと激しく泣き出した。

望は、面白いくらいにコロコロと変わる彼女を眺めていた。今朝までユリアお嬢様と呼ばれてご機嫌に紅茶を飲んでいた主人とは思えない。


「彼と何があったのですか?」


直球に、望は尋ねた。ゆり子は泣き止んでガバッと顔を上げた。


「彼って何よ!あたしが家の人以外の殿方と口をきくわけないでしょう!?ふしだらな!」


「ご安心ください。お嬢様がかの殿方と密かにお付き合いしてらっしゃる事はもう周知の事実ですから。旦那様も奥様もご存知です」


淡々と望がいうと、どこが安心よとゆり子の顔が青ざめた。


「あたしと彼の事…みんな知って…」


「はい。お相手は西洋好きな西園寺財閥のご子息の秀雄様。あの方にお嬢様が好意を向けておられる事は、秀雄様の西洋趣味に準えてご自身をユリアとお呼びになったり苦手だった紅茶をお飲みになったり、いつも浮き足立っていた事は周知の事実です。ここの所、お嬢様がボク達に怒鳴る事がない変化も含めて。旦那様と奥様がゆり子様の恋路に口を出さなかったのは、いつか、有名な西園寺のご子息に見初められて嫁ぐという期待を薄らぼんやり抱いておられるから…」


「ふざけるんじゃないわよ!!」


ゆり子は今度は真っ赤になって立ち上がった。


「あんな男の元へ誰が嫁ぐものですか!こっちから願い下げよ!何よ!みんなあたしをバカにして!みんなあたしに隠して、影で笑ってたんでしょう!?あの男も!向こうから来たのに、もうあたしは要らないなんて…!あんな男、大嫌いよ…!あの男に浮かれたあたしも!だいっきらい!!」


ひときわ激しく泣き出す彼女に、望は手ぬぐいを渡す。手ぬぐいに顔を突っ込んでゆり子はひたすら泣いた。涙が理不尽なくらいに溢れた。

それでもゆり子が落ち着くまでは望はそばに居た。

もう夕暮れ近くなるまでゆり子は泣き続けた。

望はすっかり冷めてしまった紅茶を下げて、今度は緑茶に入れ直した。

それを魂が抜けたような顔でゆり子は眺めていた。

落ち着きを取り戻した彼女に望はまた直球に告げる。


「こっぴどくふられたものですね」


ゆり子は不貞腐れる。


「あんたがこの家でいちばんだいっきらい」


「知ってます知ってます」


嫌いと言われても望は茶を入れる手をぶれさせない。

よく知らない女学校の同級に陰口を叩かれた時ですらゆり子は激しい怒りを覚えて口喧嘩で返り討ちにしたと言うのにこの自分と年が変わらない女中は、言われ慣れているかのようだった。


「ねえ、のぞむ。あんた、誰かを好きになったことある?」


「ありませんよ」


「本当に?」


「まったく」


「覚えてないだけなんじゃないの?」


「もしそうなら記憶よりも心が覚えてます」


「何よそれ」


慇懃無礼で理解不能な女中に、ゆり子はもう呆れ返って布団を頭からかぶった。


「ゆり子お嬢様は、彼との思い出をこの先ずっと覚えておきますか?」


望は背中越しに尋ねた。ゆり子は胸が寒くなった。


「嫌よ。絶対。要らないなんて言うやつなんか、覚えていられても覚えていたくないわ」


「本当にそう思いますか?」


「ええ…あたしにとっては、彼との思い出全てが大事だったの。お父様やお母様、先生達の目を盗んで、活動映画を見た事も、城下の紫陽花を見た事も、シウクレームを食べた事も。あたしには、全てだったの。真実だったの。彼は要らないっていったけれど、それでもあたしの大事な思い出になってるの。大事なのに、思い出す度に要らないって捨てようとするわ。何度も何度も。この先ずっと。そんなの嫌よ…ずるいわ、あの人。自分だけ真実の愛を見つけて、あたしなんかさっさと忘れて、別の誰かとまた同じ思い出を新しく作るんだわ」


「大丈夫ですよ、まだお若いんですから。時が経てば」


「良い思い出になるって言いたいんでしょう?知ってるわよ」


「お察しの通り」


「そういう人はきっと、あたしをずっと理解できない。泣いても笑っても怒っても悲しんでも、いつものお嬢様だっていうのよ。気分屋でわがままなお嬢様だって。あんたにはわからないでしょうけど、お嬢様ってどんなわがままも許されるのよ。泣いて怒っても、お父様もお母様もあれこれ与えてなだめて、はい終わり。どんなわがままも叶えてくれるけど、代わりにあたしが自分から何かしようとすると止めるのよ。木を登る事もやらせてくれないの。だから駄々をこねて泣いて怒ったり…そしたら代わりのおもちゃなんかくれたりして。その度にお父様達がほっとするの。この家に必要なお嬢様は、自分からは何もしないいい子のお嬢様だって知ったわ。自分から何かをするあたしは要らないんだって思っちゃったわ。あたしはただ頑張った所を見て欲しかっただけなのに。今思うとバカね。あたし、ずっと彼に奢ってたの。彼は遠慮してたのに、なんか率先しちゃって、彼の分まで出してきたの。これまで貯めたお小遣い全部はたいちゃってさ。誰かに尽くす事であたしを見つけて欲しかった。誰かに必要とされなきゃ、無駄なのよ」


だから、とゆり子は声を詰まらせた。


「彼に必要とされないなら、要らないあたしなら、あたしだってこんな思い出、覚えてるだけ無駄よ。ずっとあたしは惨めなだけじゃない。もう嫌。疲れるわ」


ゆり子は、流す涙もなくなって、力なく言うと目を閉じた。

疲れたのだ。何もかも。自分の希望を通すことを諦めれば何でもくれる両親や家に慣れている事も、彼に必要とされてないと思い知らされた事も、自分のやりたいようにやる事も、彼との美しい思い出に浸る事すら、もう面倒だった。


「でもどうせ明日になればまたあたしはみんなのいつものわがままお嬢様だわ。みんな、それを期待してるわ。また怒鳴って、命令するいつもの日々に…」


「でもゆり子お嬢様はずっと捨てたいほどの大事な思い出を覚えている、でしょ?いつもの日々、いつものわがままお嬢様であっても」


望はゆり子の体を起こした。重い体を布団ごと起こされたゆり子は、顔にかかる髪を望に優しく払ってもらい、頭をなでられた。長いことこんな風に撫でられたことがなかったゆり子は顔を赤らめた。


「お嬢様のおっしゃる通り、彼はすぐあなたを忘れます。彼はあなたを要らないと言った。だったらあなたも彼を記憶から捨ててもいいのです。あなたを要らないと言った彼は捨てていいのです」


何やらわかりにくいことを言ってくる望にゆり子は困り顔になった。


「どういう意味よ」


「自分が必要な思い出は捨てなくていいって意味です。どうせ、彼も昔恋した人になるのですから」


「矛盾してるわ」


「そうでしょうか?楽しい思い出をくれた彼と、要らないと言った彼。ゆり子お嬢様はどちらを覚えていたいですか?」


そんな事は決まってる。

自分を要らないと言った彼だ。彼が好きだった。彼に認められたかった。彼になら自分の全てを賭ける事ができた。一方的に好きになったのは自分だけれども、彼の真実の愛に値する人間ではないけれども、それでも勇気を出して告白した乙女に対して、奢られておいて、その言い方はないだろうよ。名前を思い出すだけでも腹ただしく、惨めになる。忘れてしまいたい。自分もろとも消してしまいたい。

胸が焼けるほどの怒りが手元に集まってたぎる。

火傷しそうなほどの湯気をのぼらせた紅茶が、ゆり子の手の中に収まっていた。

手を放しそうになるゆり子は突然出てきた紫陽花色のティーカップのハンドルを慌てて持つ。


「何よこれ、いったい…」


「それはお嬢様が忘れたい記憶です」


望は様子を全く変えずに答える。


「ゆり子お嬢様の涙で淹れた紅茶です」


「あたしの涙…?」


「お嬢様の怒りと惨めさから生まれました。怒りは活力の元ですが、怒りの理由を見失い暴走してしまいますから、惨めに流した涙を沸かしたのです」


「…何かわからないけどあんたがやっぱり腹立つ」


「知ってます知ってます」


「これをどうするつもり?」


「その記憶、ちょうだいませ」


紅茶を指さして望は言った。


「これを?」


「そう。これをボクが飲むとゆり子お嬢様は要らないと言った彼を忘れます。大事な思い出はそのままに、忘れたい記憶だけ消せます」


「でも、なんであんたが飲むの?」


「ボクがへびねこだから」


「さっぱりわからないわ」


「そうですね。もっと言うなればゆり子お嬢様は、もうご自身が要らない子だなんて呪わなくなります。お嬢様が忘れたいのは彼だけではなく、自分からは進んでやらないいい子の自分自身でしょう?こうして、記憶を抽出する為にはお嬢様の彼への怒りが必要だったのですが、上手いこと仕上がりましたね」


「私を利用したのね」


「調理したのはお嬢様です。ほら、お嬢様は初めてご自分で紅茶を淹れたのです。忘れたいという願望で、自分でやり遂げたのです。ボクは話をきくだけです。記憶の具現化なんてそうそうできるものではないですよ」


「…丸め込もうとしてない?」


「嫌ならいいんですよ、別にボクに記憶をくれなくても。お嬢様のやりたいように」


恭しく望はお辞儀した。ゆり子は不思議な無礼者に腹は立てども自分の話を長々とたれたことをちっとも後悔をしなかった。彼女に対してゆり子のお付きの女中になってから日は浅いが昔からよく知っている幼なじみに似た感覚さえあった。

ゆり子が顎で彼女をこき使うように望もまたゆり子を使っていたのかと思うと主人への忠誠が感じられなかったが、望はこれまでのゆり子の話をきいて、1度も哀れまなかった。紅茶からゆり子の好きな緑茶に変えた。それを当然にやってのける彼女になら、惨めな自分の記憶くらいくれてやっても良いとさえ思い、望に紅茶をずいっと渡した。

望はゆり子に緑茶を渡した。


「あんた、ずっと私の女中でいなさいよ」


ゆり子の誘いに望は笑って返した。


「無理です。でもゆり子お嬢様は上手に記憶とお付き合いして、しぶとくやりたい事をしてください」


望は紅茶に唇をつけた。


「やっぱり、あんたこの家でいちばんだいっきらいよ」


笑いながら軽口を叩いてゆり子も緑茶に口をつける。


望の体に、『東ゆり子』と名前が刻まれていく。


途端、望は消えた。

跡形もなく。

ゆり子は息を止めていたが、やがて大きく息を吐いた。

さっきまで誰と話していたろうか。

友達のような人がここにいた気がする。

けれども、まあいいかと、ゆり子は緑茶を飲んだ。

彼にふられた痛みが、緑茶の温もりで消えていく。

横顔に流れた髪の房を避けながら思う。


そうだ、マガレイトに結わえるのももう面倒だから、思い切って切ってみよう。モガみたいに。

袴の裾もたくしあげて足を出してみようか。下駄は野暮だから編み上げブーツを履いてみようか。パンプスでもいいな。

着物はキリッと無地がいい。アール・ヌーヴォーの幾何学模様で攻めてもいい。休日はワンピースで。

母からは止められているがお化粧も勉強したい。

もっと新しい自分にしてみたい。

城下のカフェーに行ってみたい。

紅茶も珈琲も砂糖なしに飲めるようにもなりたい。

紅茶も珈琲も自分で淹れてみたい。

憧れの大人の世界に入ってみたい。


次々と夢が溢れて来た。なぜこんなに失恋したのに楽しみが増えたのか、もしかして失恋の反動かしらと思いながらも、鏡をのぞいたゆり子は晴れ晴れとした顔をしていた。

13歳のそばかす顔に丸いぱっちり目。将来が楽しみな少女の待ち切れない顔。

みんながわがままだと言うのなら、みんなに甘えないで自由にもっと素敵なわがまま娘になろう。怒って泣いて困らせて代わりで妥協する自分ではなく、なりたい自分になり、やりたい事をやろう。そう思えた。


ゆり子は、にこっと笑うのだった。

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へびねこ 鳥巣ラムネ @marianne1941

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