第5話 僕ハ恋ヲ捨テ〼


『蛇猫軒』に訪れる客は辛い記憶を抱えたものだけではない。

どうしても忘れたい記憶があるもの全てにその道は開かれる。

今日も今日とて、忘却の欲望を引っさげた客がやって来る。


小粋な白いスーツの男が蛇猫軒へ訪れた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


黒い十字絣の着物にフリルエプロンをつけた黒川望は恭しく席へ案内した。

白い壁のカフェのカウンター席に男は長い足を組んで座ると、指を鳴らして女給を呼ぶ。


「はい。注文をいたしましょう」


「ここは記憶を食べてもらう所だろう?注文するのは君なのかい?」


「はい。お客様からは注文をたまわりません。ボクが注文する事で記憶の調理をする仕組みです。お客様はボクの注文にお答えするだけでかまいません」


「へえ。おかしなカフェーだねえ」


「では注文しましょう。お客様のお名前は?」


「西園寺 秀雄。いい名前だろう?西園寺財閥の創始者であるおじい様が名付け親さ」


「確かにその名に相応しいお召し物ですね。富士の雪でお仕立てしたのですか?」


「ははは!おもしろい例えをするものだね、君。これはイギリス製さ。彼女からの贈り物なのさ」


「あら、恋人ですか?」


「そうさ。イギリス人でね」


「その時計も?」


「これは日本製さ。京町大黒時計店のひとり娘から」


「その靴も?」


「紅枡百貨店のご令嬢から」


「あんれまあ」


「驚いたかい?呆れたかい?けれども事実さ。乙女達は僕に贈り物をくれる。それは僕が地位も名声も富も全てをそろえ、全てに秀でた男だからさ」


「その名に相応しく見目麗しい殿方ですものね」


「その通り」


「では全てに秀でた英雄のお客様。あなたの忘れたい記憶をおうかがいしましょう」


「今言った、彼女達との記憶を食べてもらいたい」


「あら、彼女達とは?」


「彼女達は彼女達さ。スーツをくれたイギリスの彼女と時計屋の彼女も百貨店の彼女も、青春時代の紫袴の彼女も、マガレイトの彼女も、モダンな女優の彼女も…これまで付き合った彼女達さ」


「あんれまぁ、よりどりみどりの乙女達」


「どの子とも付き合いは短かったが、まるで四季のように美しい思い出ばかりだったよ。時には純粋、時には燃えるように。けれども、どれも満たされなかった。そんな時に、見つけたんだ。誰よりも美しくて、清らかで、見返りの要らない、真実の愛を」


彼の懐から、カメオブローチのようなクッキーがずらずらと出てきた。


「僕は真実の愛を見つけたんだ。彼女だけを愛していたい。彼女の前ではまっさらなボクでいたい。その為に、過去の彼女達を食べておくれ」


望は飛び散るクッキーをひとつ手に取った。クッキーには、遺影のような様々な女性の顔が刻まれていた。


「承りました。その記憶、ちょうだいませ」


望の左目の白蛇達がするすると出てきて、宙に飛び散るクッキーをぱくりぱくりとつまみ出した。

望の頭の中の幻灯機には、クッキーに刻まれた彼女達の、薔薇や桃や桜、蛍や花火や星空、紅葉、雪のように色とりどりの美しい思い出が流れた。めくるめく恋に遊ぶ、無邪気な日々。色彩にあふれ、飽きる暇もなく、ふられて失ってはまた恋する愛のお芝居。彼の移ろう心模様も四季のよう。だが、四季とは違い、彼があらゆる乙女に次々と飛びにける様は、泣いて母を呼ぶ迷子。これだけ恋しても何ひとつ満たされていない。富、名声、地位、全てを揃え、全てに秀でていても満たされない。

その乾きを、寂しさを埋められる、真実の愛…


最後の1枚を、白蛇が食べようとすると彼は慌てて腕を伸ばしもぎ取った。


「これはダメだ!」


スーツを破く勢いで激しく狼狽えて奪い取ったクッキーを彼はガツガツと食べた。イギリス製スーツでめかしこんだ財閥の子息の割には品のない食べ方だった。

望と蛇がぽかんと観ていると、食べカスを口元につけたまま彼はこほんとわざとらしく咳払いをし、しゃんと背筋を伸ばす。


「いや、失敬。みっともない所を。あれは僕の真実の愛の人でね。こればかりは君にくれてやるわけにはいかない」


虚勢をはる彼の口元についた食べカスを望は人差し指で拭った。


「ほら、とれた、でしょ?」


にこりと望は彼に微笑んだ。

彼は望の瞳に愛する人の面影を見た。


「君は、あの人に似ている。あの人も、昔そうやってくれた」


彼は望に絡みつくように腕を腰に回す。


「やっと見つけた。僕の真実の愛」


迷子が母親に抱きつくように絡む彼を、白蛇はお呼びでないとシャーと威嚇した。

咄嗟に恐れを生した彼は、白蛇もとい望から離れる。

望は唇に微笑みを浮かべたまま何も移さない目で彼を見た。


「当店は、記憶を忘却するカフェーであり、親を待つ孤児院ではありません。お客様の真実の愛はここにはありません」


白蛇が彼の腕に絡みつき、店の外に放り出した。彼は無様に滑り転んだ。

彼は砂まみれになりながらも、戻ろうとした。


「ま、待ってくれ!」


「本日は閉店です。またのご来店お待ちしております。お母様によろしく」


望はそれだけ言うと、彼の鼻先でぴしゃりと扉を閉めた。


「待て!この僕に従わないとは無礼な!僕の言葉ひとつでこの店なんか瓦礫にする事だってできるんだぞ…!」


息巻いた彼は飛びかかるように扉を開けた。

だが、そこにはもうへびねこの乙女はいなかった。

白い壁のカフェーにいたのは、カウンター席で珈琲をいれる、長い赤髪を背中に流したマスターだけだった。

剣幕凄まじい突然の客に、マスターは珈琲を入れる手を止め、怪訝に尋ねた。


「どうかしたのか?」


ここにへびねこがいただろうと彼は押しかけようとしたが、言葉が出なかった。

へびねことは?

何のことだ?

僕はなぜこんなに焦っていたんだ?

まるで昔、母親が突然出ていったのを追いかけるように。


「いや…何だっけな…なんでもない」


彼は白いスーツをはたいて心を鎮めた。何に気を取られていたのだろうか。どうしてここに来たのだろうかと思いながらも、珈琲の香りを吸い込んだ。


「いい香りだ」


「…飲んでいくか?」


無愛想に見えるマスターの誘いに、彼はほっとした。

自分がさっきまで誰と何をしてたか、どうでも良くなった。

遊びも何も要らないとさえ思えて、彼は白いカフェーに1歩踏み入れた。


店の屋根で、やれやれと黒い猫が欠伸をした。

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